karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「映画の夏」

今週のお題「映画の夏」

 

前回、子供向け教材映画『いきものシリーズ ひまわり』のことを書いて、くだらないことを思い出してしまった。

映画『ひまわり』といえば、やはり連想されるのはあの映画だろう。「ソフィア・ローレンが出るやつでしょ」とか「ヘンリー・マンシーニの曲が、悲しそうな雰囲気を醸し出すあの映画でしょ」とかいったコメントが返ってきそうなあの映画を。

20年ほど前、テレビでこの映画が放送された。放送前に職場で、同僚が、「この映画、録画する。」と言った。それを聞いた他の同僚が、「録画したもの、あとで貸して。」と言った。

 

ところが、放送予定の日、何か特別な出来事があったらしい。放送時間帯が予定とは少しズレてしまったようだ。

その結果、録画の最初の部分には、他の番組が入り込んでしまったとのことだ。

どんな番組が入ってしまったのか? 答えは「競馬関連番組」とのことだ。

「メロドラマのような内容、地平線にまで及ぶ一面のひまわり畑、列車が大きな意味を持つ展開、涙をさそう音楽、戦争反対のメッセージ」等の内容から、「競馬」は想像がつかなかった。その場にいた人全員が笑った。

こういうこともあるんだな。

小学生の頃、授業で観た教材映画

今週のお題「映画の夏」

 

このお題を見て、何故か、小学校で観た教材映画が最初に頭に浮かんでしまった。

そして、「こういうタイプの映画って、義務教育を受ける年齢を過ぎたら観る機会がないな。子供と大人とでは、当然、持っている知識の量もタイプも違う。そういう背景を踏まえてこの種の映画を観たら、違った面白さがありそうだ。」と思った。

そういえば、「子供向け科学の本も魅力的だ。だけど、教材映画にも違う魅力がある。映画だと、『発芽から花が咲くまで』といった長い時間をかけた変化も、わずかな時間で連続的な変化を表現できる。これって不思議で面白い。」などと、子供心にも思ったものだ。

検索すると、 科学映像館 というサイトが見つかった。時間を忘れて見入ってしまった。

このサイトでは、暮らし、芸術、祭り等の映画もとりあげられている。これらも面白そうだ。

 

私が小学校に入学したのは1971年。小学生時代に観た教材映画は、1960年代制作のものかもしれない。その年代制作のものから観た。町の様子、自動車、列車、人の服装なども、時代が感じられて面白い。

『いきものシリーズ ひまわり』の映像を観ていて、「効果音がミンミンゼミの鳴き声か。関東地方で制作か?」なんてことも考えてしまった。

『日本の合成ゴム』(1960年代の作品)では、国内合成ゴム使用比率のグラフも出てくる。合成ゴムの国内消費量は、1960年だと2割弱で1965年だと44%となっていた。1965年といえば、私が生まれた年。私が生まれた頃は、まだ天然ゴムの消費量のほうが多かったんだな。子供の頃、子供向け百科事典に「合成ゴム」の項目があった。当時の先端技術(だと思う)が、子供向けの本でも紹介されていたんだな。凄い。

こういう、主題と離れた部分も楽しむなんて、観るまでは想像がつかなかった。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 5

今回は、「障害者権利条約や合理的配慮に関する解釈」へのウヤムヤ状態について書く。

 

合理的配慮とはどんなことなのか? おそらく、人によって思い浮かべる内容はバラバラな状態にあると思う。

 統合教育崇拝者が思い浮かべる「合理的配慮」像は、各種メディアや世間一般にも大きな影響を与えうる。この「合理的配慮」像が、宣伝文句的に都合よく使われているのでは? と私には思える。厳しい言い方をすると、「温情主義を合理的配慮と言いくるめている」「温情主義が、非障害者には『特別扱い』に見えているケース多し」状態なのでは? と私には思える。

それだけではない。ここでいう「障害」が「発達障害」である場合、話は更に複雑になる。発達障害業界関係者が思い浮かべる「合理的配慮」像も関係してくるからだ。

統合教育崇拝者が、「発達障害なんてレッテル貼り。単なる個性に過ぎないものを障害などと言って、図々しい要求をする人たち。」という見解を持っていることはよくある。というより、少なくとも私の観測範囲では、崇拝者のほとんどがそうである。そういう状態だから、「発達障害者が合理的配慮を要求なんて、けしからん」的主張がしばしば彼(女)らからなされる。発達障害業界関係者が持つ合理的配慮像は、当然、統合教育崇拝者の持つそれとは異なる。もっとも、発達障害業界関係者が思い浮かべる「合理的配慮」像も、違うタイプではあるが「温情主義を合理的配慮と言いくるめている」「温情主義が、非障害者には『特別扱い』に見えているケース多し」状態である。

 

(2017年6月25日追記)

(注1「インクルーシブ教育」ではなく、「統合教育」としたのには理由がある。「投げ込み統合」に相当する語句が、インクルーシブ教育を語る場で使われないからである。)

(注2 統合教育「崇拝者」と表現したのは、「彼(女)らが、過去にあった投げ込み統合について有耶無耶にしている」と私が認識しているからである。)

(注3 「それなら夏炉冬扇は分離教育賛成派なのか?」という疑問もあるかもしれない。賛否というより、「現状では、統合教育と呼ばれているものも実態は分離教育」と私は捉えている。)

 

合理的配慮に関する記述は、 資料3:合理的配慮について:文部科学省 にある。このサイトでは、障害者の権利に関する条約における「合理的配慮」と出ている。「障害者の権利に関する条約」(以下、「障害者権利条約」)は、「障害の社会モデル」という考え方を大きく取り入れている。

障害者権利条約や社会モデルについては、 用語の説明「障害者権利条約」 - ヒューライツ大阪(一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター) の説明がわかりやすい。リンクの貼られている1~5、◎おわりに、コラム1~3も是非読んでほしい。障害者権利条約は、「障害のある人を、"保護の対象"から"権利の主体"へ転換することを宣言するもの」であり「社会モデルに基づくもの」という説明がなされている。

合理的配慮や社会モデルについては、 http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kacho_hearing/d-17/pdf/s2-1.pdf という記事の説明がわかりやすい。この記事には、「配慮の平等」についても書かれている。「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」ではなく、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」という提言がなされている。駅の階段とエレベーターを例に挙げて。この提言は重要だと私は思う。

 

障害者権利条約や合理的配慮は、障害児に対して適用しようとする際には、やはり「学校教育」と結び付けられて語られることが多い。「学校教育と結びついた障害関連啓発イベント」の類が、統合教育崇拝者によってなされるケースは多い。しかし、障害者権利条約や合理的配慮について「統合教育崇拝者が持っているイメージ」は、実は次のような怪しさの隠れたものではないだろうか? と私は疑っている。

・「障害者が権利の主体であること」や「社会モデル」や「配慮の平等」には関心を持っていないのでは? 

・「自分たちの頭の中にある、ありうべき統合教育/共生像」やその像に合致する障害者の発言には関心を持つ。しかし、それ以外の障害者が現実に受けている処遇については、無関心。

・「自分たちの頭の中にある、ありうべき統合教育/共生像」に基づかないものは、合理的配慮としてはカウントしない。

・「特別支援学級(学校)という制度は、大きいコストを要求している。だから合理的ではない。統合教育で共に学び障害者との接し方を知るほうが、コストがかからなくなる。」という説を、根拠を示さずに垂れ流す。

 統合教育崇拝者が障害者関連イベントあたりで垂れ流す「共生教育」像は、各種メディアや世間一般に大きな影響を与えうる。そのことから考えるに、世間一般で「合理的配慮」という言葉が使われる場合も、前述の「怪しさ」が隠れているのでは? と私は疑っている。発達障害業界においても同様である。疑う理由については、 障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ や、このシリーズ過去記事で記述。

 

日本の障害者運動で過去に取られていた戦略は、次のようなものである。

・障害をめぐる問題は、障害者の身近にいる市民社会の構成員にとっての問題→障害をめぐる問題とは、障害者の家族や障害者福祉や教育関係者にとって、必要な施策や制度や施設が粗末だという問題として認識。(つまり、障害者本人は、「問題化」や「それに関する検討」のプロセスからは排除されている。)

・障害者が少数派であることを前提とする。(「少数派に対するほうが、社会が支払うコストは小さい」という認識)

・障害者本人が求めているものが、本人以外の人に伝わるとは限らない。支援者側が、非障害者にとって共感や納得の可能とみなしたものだけを取り出す。そしてそれが、障害者本人の感情や思考や行動等を方向づけていく。

統合教育崇拝者も発達障害業界関係者も、この戦略をおそらく今でも取っている。そして、一般市民も、障害者運動や支援や教育に対して、この戦略のイメージを持っている。私はそう考える。

 

このような状態で、「障害者が権利の主体となっていて、社会モデルに基づき、配慮の平等も考慮された」合理的配慮を障害者側が求めたらどうなるか? 図々しい要求とみなされる危険性があると私は思う。

現状では、統合教育崇拝者にせよ発達障害業界関係者にせよ、「合理的配慮」を次のイメージで捉えているのでは? そして、そのイメージは、他の人にも共有されているのでは? と私は疑っている。

「健常者の基準が正常、障害者はそれに合わせる努力が義務付けられる。非障害者はそのための支援や配慮をすべきである。そして、支援や配慮をすることが、障害者の成長のみならず非障害者の成長にもプラスになる。これが合理的配慮である。」というイメージで。

「何か、宗主国と植民地の関係みたいだな」と私は思う。「支援や配慮」といっても、あくまで「健常者中心文化内」でのものである。

 

「障害者が権利の主体となっていて、社会モデルに基づき、配慮の平等も考慮された」合理的配慮とはどんなものか? 

 

障害者の視点や経験を通して、「あたりまえのこととして、意識化さえされてこなかった」主流社会の構成原理やあり方、すなわち「健常者中心文化の、ありよう」を意識化する。

それによって、「健常者を中心とした社会のありかた」や「自分自身のあり方」を再考する。

問題点がいろいろとわかってくる。

問題点を、具体的にどう変えていくか考えていく。 という態度

障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ

に基づいたものである。私はそう考える。

 

「日本の障害者運動で過去に取られていた(そして、おそらく今でも取られている)戦略」について、「権利の主体、社会モデル、配慮の平等という観点から再考がなされたか?」ということについて、ウヤムヤな状態にある。そして、その状態で、「障害者権利条約」「合理的配慮」という言葉が一人歩きしている。

この状態だと、「あなたたち障害者のために私たちは合理的配慮をしました。でも、ダメでした。だから問題はあなた個人の側にあります。」という形で片づけるための口実として機能する危険性もあるのでは? と私は考える。

 

(このシリーズひとまず完結)

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 4

「授業についていけることなんかよりも、もっと大切なことがあるのよ。あくせくしなくてもいいじゃないの。そんなことよりも、みんなと一緒にいることが大切よ。人間関係を学ぶことのほうがずっと大切よ。」

「あくせくして実力を付けようとするなんて、優生思想的。」

「学校で子供たちが優しさや思いやりを育んで、障害児に共感できるようになる。そのとき、障害児もクラスのみんなや身近な大人を仲間や理解者として受け止め、成長する。」

特別支援教育では学力軽視だといわれる。しかし、発達障害児には、じっくりと人間関係を学ばせることのほうがずっと必要。学力は二の次。」

 「学校は、子供のためにあるもの。学校教育は、子供のためにおとながやってあげること。」

これらの美しい言葉が、「学校文化やそれとつながった一般社会を支える、価値観」について無視した状態で語られている。無視した状態で語られた美しい言葉には、「とんでもない暴力性」が隠れている。私はそう認識する。

その暴力性について、「ウヤムヤにされている」と私は考える。

 

学校文化は中立的なものではない。能力や感性等が人それぞれ異なる以上、「学校文化的に不利な立場に置かれてしまう」人はどうしてもでてくる。

不利な立場に置かれた人にとっては、「不利な立場という現実から出発してどのように向き合っていくか、いかにして他者や集団内の関係を模索していくか」というプロセスを考えていくことがメインテーマとなってくる。

しかし、大人たちの関心は、「統合教育崇拝者や、発達障害専門家介入による特別支援教育支持者」の側が想定した、「ありうべき、障害者教育像」「統合教育or特別支援教育の成功事例(とされたこと)」に向けられている。

「ありうべき、障害者教育像」「統合教育or特別支援教育の成功事例(とされたこと)」と「子供の側が、普通学級or特別支援学級(学校)という世界をどのように受け止めているのか」ということの間には、ギャップが存在しうる。しかし、そのギャップについて大人たちは意識をほとんど向けていないのでは? と私には思える。

 大人たちがそのギャップに無関心で、かつ、障害者が学校文化的に不利な立場に置かれた場合(そうなっている場合がほとんどだと私は思う)、障害者側が「学校文化と相性が悪い」と表明してもおそらく相手にされないだろう。私の経験から考えるに。

 

「学校文化的に不利」などと私が言うと、たいてい、次のような言葉が返ってくる。「ああ、日本の学校ではテストによる序列づくりが厳しいね。受験教育重視で子供を追い詰めているね。その勉強も暗記ばかりでつまらなくて、考える力なんて身につけさせないからね。そういう学校文化は大変だよ。」と。

冗談じゃない。日本の学校文化で最重要視されていることは、「テストによる序列化、思考力養成につながらない暗記中心勉強」なんかではない。

本の学校文化で最重要視されていることは、「ある種の(←ここ重要)思考力養成」だ。

本の学校では、「集団を作り、効率的な協調で課題を遂行していくこと」が最重要視されている。給食、掃除、学校行事、登下校などの学科外活動でも、積極的にそれらの教育がなされている。学科外活動では、各教科の学習や教育よりも無意識的に行われている。学校に通う日は毎日行われる。それ故、学科外活動での教育にかかる時間も「積み重なって大きくなっている」状態にある。否、無意識かつ反復継続的故、学科教育よりも影響は極めて大だ。

「集団を作り、効率的な協調で課題を遂行する」ために、「ある種の」思考力が強く要求されることになる。

課題遂行のために必要な役割や分担等については、「教師が決める」「事前に打ち合わせをする」といったことで決まるケースは極めて稀だ。固定的な役割を与えられない子供が、「状況に合わせてお互いに自分で役割を見つけて行動する」ことが期待されている。しかも、子供は、はっきりと明示されない「教師の意図」「他の子供の意向」を読み取ることも求められている。教師や子供相互の「無言のサイン」に反応して状況把握をして行動するためには、極めて高度な観察力、認知力、理解力等が必要となる。

「ある種の」思考力とは何か? それは、「無言のサインに反応して状況把握をしてスピーディーに行動できる状態に辿り着けるような」思考力である。

 

この「ある種の思考力」のもとになる理解力等を身につける際、「共感」「感情移入」めいたものが手段としてよく使われる。

「普通の人間なら、こう考えるだろう、感じるだろう、行動するだろう」という表現を絶えず繰り返す(注 必ずしも、言語的表現が使われるとは限らない)→「この状況に応じた適切な感情はこういうもの、適切な表現行動はこういうもの」といった知識を、(ほぼ無意識的に)膨大にためていく→それらを内面化 というルートを取って。

教師と子供との「共通の体験」を、高揚する感情を伴ってする。それによって「学級の一体感を醸成」する。このことが、学校生活でのメインテーマとなっている。「共通の体験に対して子供一人一人が持った、イメージ」を、「他の子供が持ったそれ」とと重なり合わせる→より大きなイメージが醸成されて学級全体でそれを共有 というルートが要請されている。

つまり、「学級全体でそれを共有」できそうにないイメージは許容してもらえない。このルート内での「表現の違い」なら、個性とみなしてもらえるが。また、こういう場では行動の動機は、「個人の興味や関心」よりも「内面化された共通の理解」であることが要請される。「個人と集団の利害は、対立的なものではない」という集団観が要請される。

学校での活動には、よく「班」などの小集団が使われる。そこでは、構成員相互の頻繁な接触と(ある種の)情報交換が行われるしくみになっている。そして、集団行動は和やかで効率的に行われることが要請されている。共通体験を通じて、子供同士がお互いに関するイメージを蓄えていく。そうして、いちいち言葉にしない状態での課題遂行へとつながっていく。

 「班」は、通常6人程度で構成される。その中の4人程度がそこそこ要領よく行動すれば、とりあえずは日常生活はまわっていく場合が多い。要領よく行動できない子供に対しては、情念(特に罪悪感)に訴えながら、子供相互(場合によっては大人も介入)で監視し抑制し合う。

このような状況は、情に訴えられた側には「罪悪感に囚われながら、自分から同調する」事が期待される。そして、情に訴えた側は「直接言わなくても、相手が意に沿うような行動をとる」ことを期待できる。つまり、相手の行動や感情に対して、間接的に影響を与えることが期待できる。「相互監視と相互抑制」までもが加わって。担任一人に対して子供40人のクラスをまとめることを可能にしているのは、この「自発的同調、相互監視、相互抑制」かもしれない。

 

「感情移入が難しく、相手の真意を読み違える危険性がある」のは、どういう場合だろうか? それは、「自分と考え方感じ方や行動様式が大きく異なる相手」や「相手の情報が極めて少ない場合」である。

「学級の一体感」を構成するイメージは、 障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ で書いた「健常者の身体と生活」に基準を置いた「健常者中心文化」に基づいたものになっているのでは? と私は疑っている。特に、「非言語性情報(特に、感情面の絡んだもの)のやりとりに、特に困難を感じている」発達障害者の場合、「外見ではわかりにくい」故に「一体感イメージを崩す極悪人」とみなされる危険性が大きいと思う。

「健常者中心文化に基づいた、学級の一体感イメージ」がわからない、具体的にどのように行動すればわからないという状態にある障害者に対して、情念(特に罪悪感)に訴える方法が取られる。どうすればわかるのか、具体的な行動はどんなことなのか、そもそも「学級の一体感イメージ」自体が正当なものなのか再考する、といった類の方向には進まずに。理解や行動の力を付けるための指針について、手掛かりがほとんど得られないまま、全人格を否定されることになる。しかも、学科の学習のみならず日常生活全般で。

更に、この「全人格否定」も、学級の一体感イメージづくりに大きく貢献していく。「人格否定されている人以外は、みんな一緒。あいつとは違うという共通のイメージを持てる」からだ。

 

このような状態で、「実力を付けようとするなんて、優生思想的。あくせくしなくてもいいじゃないの」というまなざしを向けて、「できない子供はダメな子なんて言わない、温かい目でみている私たち、いい人でしょ。」的な態度を取るのは、暴力的なことである。「学校で起こっていることを見通すことができる力」がない故に適切(とされている)行動がとれず罪悪感に囚われていて悩んでいる子供に対して、「力をつけたいという思いを持つことまで否定」することにもつながる。

そして、障害者は  障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ で書いた「ガラスの壁」を意識してふるまわざるを得なくなる。

 

もう一点。「学校は、子供のためにあるもの。学校教育は、子供のためにおとながやってあげること。」という見解も、学校文化的に不利な状態に置かれる子供に対する「シカト」と私には思える。

・何が正しい道であるかを、ありがたくも学校様先生様がお導き下さっている。

・経歴や境遇において、類似点が多く、狭い範囲の共同体の中で、自分が認められることによりすがって生きていけ。それが出来なきゃおしまいだぞ。

というメッセージを、不利な状態で受け続けることになる。

前に他の記事で書いたこともあるが、

・学校は、子供のためにある場所とは言い切れない。大人や社会の要請によって作られた場所である。

・日中、子供に街中をウロウロされるのは大人にとっては邪魔だ。邪魔にならないように、学校という場に閉じ込めるということが、一番の目的。

・学校でやる勉強やら集団生活やらも、「どんなことを身につけさせたいのか」「どのようにして身につけさせるか」を決めているのは大人であり社会だ。

・大人や社会のために、一生懸命学校に通っている。そのことについて感謝している。

という見解を大人になってから知って、私は救われた。

私の経験から言うと、

・とりあえず学校には顔を貸し、学校文化支持者の顔はたてておく。ただし、学校文化に搾取されないための工夫をしながら。

・学校文化から自由なポジションにある人や場についても、探してみる。

という発想は、「学校は、子供のためにあるもの。学校教育は、子供のためにおとながやってあげること。」主義の人から非難される。「子供を分けて考えていること」だというふうに。

 

ここまで書いた「暴力性」は統合教育のみにあてはまるわけではない。ベースとなるものは、特別支援学級(学校)でも同じである。

 

 次回は、「障害者権利条約や合理的配慮に関する解釈」に関するウヤムヤ状態について書く予定。 

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 3

今回は、「早期発見と早期の専門家介入による、発達障害者と健常者との共生」イメージについて書く。

結論から言うと、前回書いた「ウヤムヤな状態にある『統合教育の成功例』イメージ」は、「早期発見と早期の専門家介入による、発達障害者と健常者との共生」イメージにもあてはまる面がある。

・「特別支援教育での学びは、他の場でも活かせる学びにつながる」像について、ウヤムヤ状態。

・「障害者による語り」について、「語りを聞く側がどのように受け止めているか?」それについてもウヤムヤ状態。(「『聞く側に有利な解釈がなされているかもしれない』などと自己懐疑をする必要などない」というのが本音では? と私は疑っている。)

・「発達障害に対する、ステレオタイプ的イメージ」に基づいた「マニュアル的応対」(本人と相性が悪い場合も有りうる応対)がなされてしまう危険性についても考えられているのか? 対策はどんなものなのか? それらについて、ウヤムヤ状態。

 

そして、それ以外にも、次にあげるような厄介な事柄が更に加わる。

・「医学」の持つ権力は大。更に、ひとたび診断名が付いてしまった場合、不可逆的なものとして作用する可能性大。発達障害という診断名は、「専門家や所属集団内等の、権力関係」が絡んだ場合、本人以外の人に悪用される危険性も有。「強い立場の人が作った仮説」が本人の不利益を強要、しかも仮説は専門家の一方的な解釈体系に基づくという場合でも、本人が反駁困難な状態に追い込まれる危険性大。

( 成人発達障害の「理解・受診」は、実は要警戒ワード 2 - karotousen58のブログ 参照)

発達障害という概念を歓迎しない、統合教育崇拝者多し。「単なる個性に過ぎないものをわざわざ障害に仕立てて、福祉のパイを奪おうとするずるい人たち」と彼(女)らが主張することもよくある。「統合教育の成功例イメージのウヤムヤさ」までを彼(女)らが持ち込むと、(障害者本人不在で)話は更に厄介になる危険性大。

 

ただ、「早期発見と早期の専門家介入による、発達障害者と健常者との共生」イメージについては、「統合教育の成功イメージ」よりも「発達障害者本人以外の本音」が語られている。

否、語る対象が「大人になってからわかった発達障害者」か「子供の発達障害者」かで、語りのトーンが変わる。

前者では、「あなたのまわりのコミュ障」「身近にいる、イタい人」「常識の通用しない、ハタ迷惑な人」といった類の物言いがなされる。後者では、「『周りを困らせる子』は『困っている』子」「発達障害者に優しい社会は健常者にも優しい社会」といった類の物言いがなされる。

前者で本音があらわとなる。後者では、キレイゴトも同時に語られてウヤムヤ状態にされている。

では、その本音とは何なのか?それは、

1.早期発見と早期の専門家介入により、教育や療育を中心として問題を解決する。

2.卒業後、療育手帳等が使える場合は、障害者福祉を利用して就労自立支援をすすめる。

3.「期待される発達障害者像」が最初にある。そして、その像に沿った言動をとることを本人に求める。発達障害者以外の人に、それについての「理解と環境調整」を求める。

である。

この本音は、「早期発見早期対応のなされた発達障害者は予後が良い。一方、未診断や未介入の時期が長かった者の予後は悪い(「あなたのまわりのコミュ障」「身近にいる、イタい人」「常識の通用しない、ハタ迷惑な人」等の状態となる)。」という形を取って広まった。

大人になってから分かった発達障害者は、(ほんの一握りの成功ケースを除いて、)「反面教師」的トーンで語られる。「ハタ迷惑なのに無自覚。無自覚だから、常識を身につける努力なんてしない。しかし、本人には悪気がない。」などと。

また、1と2は問題解決を「教育と福祉」に求める立場にある。問題解決を「社会やシステムの設計を再検討、必要とあらば変更」という立場にはない。発達障害者側が後者の提言を試みるならば、3に反することになり発言困難。「理解と環境調整」像も、「発達障害者以外の人サイド」のものとなる。しかも、「理解と環境調整」の中身については、具体的な内容説明がほとんどなされない。

大人になってからわかった発達障害者の場合、「心身がぼろぼろになり、医師から労働中止等のストップがかかる」状態にならないと障害者福祉を利用することは困難となる。

つまり、問題解決を「教育と福祉」に求めるのならば、大人になってからわかった発達障害者には受け皿がほとんど存在しないことになる。

 

最初に述べた「ウヤムヤ状態」に戻る。

 

・「特別支援教育での学びは、他の場でも活かせる学びにつながる」像や

・「障害者による語り」について、「語りを聞く側がどのように受け止めているか?」

・「発達障害に対する、ステレオタイプ的イメージ」に基づいた「マニュアル的応対」(本人と相性が悪い場合も有りうる応対)がなされてしまう危険性についても考えられているのか? 対策はどんなものなのか?

ということについて

 

特別支援教育では、どのような学びを目指すのか。

結論から言うと、「発達障害者本人が、社会的・経済的不利益を被らないように、それ以上のマイナスを背負わないように」していく為の学びはほとんど期待できない。

発達障害者が「問題」を起こさない方法や起こした場合の対応方法を習得する」「発達障害系の人のことを考えて非発達障害者が行動を変えるなんて面倒なことはしないで、気持よく毎日を暮せるようになる」為の学びとなる可能性が大。

では、「障害者による語り」について、語りを聞く側がどのように受け止めているか? 

結論から言うと、「非発達障害者は正常な側、発達障害者は異常な側。医学が正しさを担保。」「専門家や支援者が発達障害者の機能不全および特性を、一方的に解釈し論じるのが妥当。発達障害者は社会的認知力が弱すぎるから、自分に好都合な解釈を勝手にしてしまう。」と受け止めている。

発達障害者は、「自らを語ることが出来ない」状態に追い込まれる。たとえ語ったとしても、それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠される。つまり、解釈する他者によって、都合の良いように代弁されてしまう。

「解釈する非発達障害者が社会正義であり、そこから逸脱しているのが発達障害者」という定義がなされた場合、発達障害者側が「逸脱の正義」を修正しうる可能性は極めて低い。何故なら、抗議行動に出ようものなら、従来のスティグマに加えて「過激な発言をする人」という新たなスティグマも追加されてしまうから。

( 成人発達障害の「理解・受診」は、実は要警戒ワード 3 - karotousen58のブログ 参照)

つまり、特別支援教育での「学び」も、「権力者や他者による支配や抑圧を受け入れてしまうための、下地を作る」ものとなる危険性大ありと考えられる。そして、「発達障害に対する、ステレオタイプ的イメージ」に基づいた「マニュアル的応対」(本人と相性が悪い場合も有りうる応対)がなされてしまう危険性も大ありと考えられる。

 

「未診断や未介入の時期が長く、かつ、福祉のサポートが得られない状態にある」成人発達障害者は、しばしば、「反面教師」的なトーンで語られる。特に、「所謂専門家」や「職業的支援者」や「家族や所属集団の人」から。マスコミ報道を通した形でも。しかし、「それらは的外れだ」と私は思う。

「大人になってから『自分が発達障害では?』と疑うようになった人」は、実は、「健常者中心文化」を積極的に求めて支持していこうとする人も結構いる。

寧ろ、「健常者中心文化に基づいた、(障害者の身体や感覚と、必ずしも相性が良いとは限らない)規制についていけず、落ちこぼれてしまった」というコンプレックスを強く持っているのでは? そして、そうであるからこそ、「(発達障害のことを知った)今度こそは、ついていきたい。ついていけるように努力したい。」という意識が強まっているのでは? と私には思える。

彼(女)らが他の発達障害者を、「『健常者中心文化を積極的に求めて支持して、その文化についていく』という方向性の努力を怠っている人」とみなすことも、多々ある。そのとき、他の発達障害者に対して「激しい非難」がなされるケースもよくある。自助会や成人発達障害系サイト/ブログで、何度も私は経験した。

この「健常者中心文化を積極的に支持する」行動は、「自己否定」をベースとする。それだけではない。「発達障害者には認知のゆがみがある。また、常識を身につけていない。だから、物事を被害的に解釈してしまう。」などといった、まなざしを向けられてしまう。

この行動は結局は、「権力者や他者による支配や抑圧を受け入れてしまうための、下地」へとつながってしまうのでは? 私にはそう思える。

  

次回は、「学校文化と、それにつながった一般社会」について書く予定。

「健常者の身体と生活」に基準を置いた「健常者中心文化」が、現状ではやはり一般社会の主流となっている。

「障害者の持つ身体や感覚機能や精神活動」と主流文化との関係性は、どうなっているのか? 「きわめて相性の悪いもの」となることもありうる。

それらを無視した上で、「統合教育は素晴らしい。」「特別支援教育で、学校文化的常識をしっかりと身につける必要あり」という語りがなされているのでは? その語りは「学び」とやらにどう反映されているのか? といったことを書く予定。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 2

私は、統合教育崇拝者に対して疑念を持っている。(注 「統合教育」「崇拝者」としている理由については

 障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ 参照)

次にあげることを彼(女)らに尋ねると、論点をはぐらかした回答がなされることがほとんどだったからだ(例 うまくいった例をあげ、思い通りにならないからといって、文句を言うな。」「特殊学級や特別支援教育なら、もっとひどいことになる。」「障害児の親御さんやうまくいった障害者が、地域の学校や普通学級を望んでいる。同じ時間や場を共有することを望んでいる。」などと言う。)

もっとも、「特別支援教育に、諸手を挙げて賛成」というわけでもないが。

彼(女)らの主張する統合教育では、

1.いじめや排除の経験を積んでしまう危険性大では?

2.授業をはじめとした日常生活についていけない危険性大では?

3. いじめや排除の経験を積んでしまった場合、それらが学校外での生活や卒業後の生活に悪影響を及ぼさないか?(「艱難汝を玉にす」となるのは、好条件が重なりまくった極めてレアな場合のみでは? レアでないとするならば、その根拠は何なのか?)

4.日常生活についていけなかった場合、それらが学校外での生活や卒業後の生活に悪影響を及ぼさないか?(「ついていけるようになりたい」という願望を本人が持っていたor持たされていた場合に、「ついていけなかったorいけそうにない場合、ではどうするか? どう乗り越えるか? どうごまかすか? などを模索→その後の様々な場所での生活に活かしていけるようになる」 ということができるのか? できるとしたら、その根拠は何なのか?)

5. 3や4で「艱難汝を玉にす」となったり様々な場所での生活に活かしていけるようになったとしたら、何故、うまくいった背景等について詳しく語らないのか? いじめや排除や学習面等の悩みを持つ非障害者(たぶん、いる)にも参考になりそうなことだと思うのだが。

6.  3や4で述べた悪影響は、権力者や他者による支配や抑圧を受け入れてしまうための、下地を作る」ものとならないか?

 

統合教育崇拝者が関心を持つのは、「自分たちの考える、ありうべき統合教育の姿」や「3の『艱難汝を玉にす』となった(と崇拝者が認識した)姿」や「障害者本人や周囲の人による、その姿を実現させたという語り」である。「その姿から離れた障害者本人が、実際に受けている・過去に受けた処遇」にはほとんど関心を向けない。(少なくとも私の観測範囲内においては)

そして、「学校は勉強の場である以前に、生活の場。共に暮らしていれば、その子なりの学びや成長がある。他の子も、優しさや思いやりを学ぶ。子供時代に普通学級に入れてもらえなかった人が、大人になってから、『障害者や施設以外の世界を知らないから、社会に適応でない』と主張している。」「分けられて障害者を知らない生活が続くから、健常者側が偏見を持つようになる。」と、統合教育崇拝者は語る。

 

1~6で述べた疑念に対して、回答をした崇拝者もいた。その回答について書いてみる。

 

  いじめや排除について

・仮に、特殊学級や養護学校に入っていじめや排除から逃れたとしても、将来を考えたら遅かれ早かれ経験することになる可能性大。普通学級の中でせめぎあいながら、共生する力をつけていくことが大切。

・いじめっ子も仲間。いじめっ子も友達。差別に負けない障害者としての自覚や自立を成し遂げる力は、そういう仲間と交わることで身につく。

・うまくいった背景等を語るのは、プライバシー尊重などの観点から問題あり。共に学ぶ仲間と本人との問題。友達をたくさん作れば解決する。友達のいない(作る努力をしなかった)非障害者にとって、学校が苦しい場となるのは当然。

・本人も親御さんも、「つながりって、大切だね」と語っている。

 

「日常生活(特に授業)についていけるか否か」について

・特殊学級(特別支援教育)で無理やりできるようにしても、タカが知れている。

・「オール1でもいいから普通学級の通信簿が欲しい」「わからなくても一緒にいることが大切」と望む親御さんがたくさんいらっしゃる。親御さんの望みをブチ壊すなんて残酷。

・特殊学級(特別支援教育)で無理やりいろいろな訓練をするのは、実力の有無で差別する世界への参入を意味する。

・授業がわからなくてもいい。通信簿なんてオール1でもいい。学校は生活の場だ。

・うまくいった背景等を語るのは、プライバシー尊重などの観点から問題あり。共に学ぶ仲間と本人との問題。友達をたくさん作れば解決する。友達のいない(作る努力をしなかった)非障害者にとって、学校が苦しい場となるのは当然。

 ・本人も親御さんも、「『助けてください』と言えば、援助の手を差し伸べてくださる。本人も助けを求めるスキルが身に付く。」と語っている。

 

正直なところ、私にはこれらの回答は「トンデモ」と思える。「いじめられるのも個性、できないのも個性。」で片づけるトンデモ論だと思う。

 障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ でも書いたが、学校外や卒業後の生活に活かしていけるようになるか否かは、「本人や身近な人物の持っている、各種資本(経済的な資本に限らない。文化資本社会関係資本も、当然含まれる)と地位」「(追い詰められた際の対処法としての)手練手簡も学び取れる実力」が大きく絡んでくると思う。統合教育崇拝者は認めようとしないが。

また、「できなくてもいい。学校は生活の場。」という見解によって知識や技能を身につける方向性を閉ざしたのちに、一般社会に入ることは、実は「能力主義による差別」に加担することにもつながりうる。私はそう捉えている。

 統合教育崇拝者のコメントは、 ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 1 - karotousen58のブログ で述べた

・障害者本人の言動を、他者(特に、支援者と見られている人)がどのように受け止めているのか ・その解釈にはバイアスがかかっていないか

・「支援が必要」とみなす自分自身の生活や感性は正常なのか? もしそうだとしたら、その基準は何なのか? といった、他者(特に、支援者と見られている人)が自らの支援観を問う行為をしているのか否か

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 1 - karotousen58のブログ

事柄に対してどのようなことになっているのか? シカトされている状態にあると、私は思う。

そして、そのシカト状態の裏には、

障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ で述べた、

 

 

障害者の視点や経験を通して、「あたりまえのこととして、意識化さえされてこなかった」主流社会の構成原理やあり方、すなわち「健常者中心文化の、ありよう」を意識化する。

それによって、「健常者を中心とした社会のありかた」や「自分自身のあり方」を再考する。

問題点がいろいろとわかってくる。 ↓ 問題点を、具体的にどう変えていくか考えていく。 という態度

障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ

 

 という観点を軽視している状態が隠れているのでは?(「普通学級での教育のありようを問い直す」という行為がなされない状態では?) 本人と統合教育崇拝者との力関係を無視している(後者が主導権を握り続けている)状態なのでは? 

と私には思える。

このような状態では、「障害者による語り」は、統合教育崇拝者が障害者本人に期待している語りによって、「統合教育成功イメージに使えそうなもの」と「そうでないもの」に分けられる危険性がある。また、障害者の語りに関する解釈は、統合教育崇拝者や教師や親等に委ねられてしまうと思われる。(つまり、解釈にズレが存在する可能性やズレが存在することをシカトされる危険性がある。)

実際、「実力のある障害者が話すことは、歓迎される。だけど、僕たちの話すことなんて聞いてもらえないに決まっている。作文を書くときは、いじめられたとか楽しくなかったとか書くと怒られる。『いろいろあったけど、今ではいい思い出』とか書かされる。本当は自分は歓迎などされていないということぐらい、わかってる。」と告白する障害者を何人か、私は知っている。

 

まとめ

・「いじめ、排除、授業をはじめとした日常生活全般についていくことに難儀」等について、「それらでも、他の場でも活かせる学びにつながる」と、統合教育崇拝者は主張なさりたい模様。だが、肝心の「学びにつながる」像についてはウヤムヤ状態。

・「普通教育のありかたについて検討し、必要とあらばそれらを変えていく」という方向性も開かれている状態にあるか否か、ウヤムヤ状態。(「開く気など更々ない。普通学級に入れたら健常者にもまれて、障害者も現状の普通教育への順応力をつけることができる。」という見解では? と私は疑っている。)

・「障害者による語り」について、「語りを聞く側がどのように受け止めているか?」それについてもウヤムヤ状態。(「『聞く側に有利な解釈がなされているかもしれない』などと自己懐疑をする必要などない」というのが本音では? と私は疑っている。)

・「いじめ、排除、授業をはじめとした日常生活全般についていくことに難儀」等については、障害者のみならず健常者にも共通する事柄。健常者のそれについてを不問としたうえで、「健常者と障害者との間で起こるそれ」については上手くいくかのような幻想を振りまいている。不問にした状態で何故、「上手くいく」と主張できるのか? その根拠についてもウヤムヤ状態。

では、特別支援教育ならばよいということなのか? 早期発見と早期の専門家介入による、発達障害者と健常者との共生』イメージにも、私は疑問を持っている。それについて次回書く予定。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 1

少し前のはてなホットエントリーに、「発達障害児・学校生活・合理的配慮」関連記事があった。「(発達)障害・学校(企業)文化・合理的配慮」について書いてみたいと、私はずっと前から思っている。しかし、うまくまとまらない。まとまらない最大の理由は、「それらは、いろいろな角度から検討を要する複雑な問題」で「どんなことからどんなふうに書いていけばまとまるのか、わからなくて混乱」ということにある。

うまくまとまらない状態で、強引に書いてみる。

 

「障害児と健常児が同じ場で学ぶ」ことに関連して、次のような流れで運動が進んでいったと私は捉えている。

1.「すべての子供を普通学級へ」という運動の中で、「障害児も健常児も共に学ぶ・みんな仲間」という類の言葉がスローガン的に使われる。それらの啓発イベントを、各種メディアが好意的に報道。「統合教育の成功例」のイメージがつくられた。

2. 2000年代前半頃から、発達障害支援団体や家族会が、各種メディアや行政機関への働きかけを広げた。これらの運動は、「早期発見早期対策」をスローガンにしていた。そして、これらの運動は「特別支援教育への発達障害児参入、発達障害者支援法」という形で結実した。「早期発見と早期の専門家介入によって、健常者と共生できる」というイメージがつくられた。このイメージは、1.の「統合教育の成功例」と微妙に異なっている。

3. 2014年、障害者権利条約が日本について効力発生。障害者権利条約第2条に、「合理的配慮」に関する定義がある。「普通学級と合理的配慮」というテーマでの意見発表がなされるようになる。

 

ここで、「『統合教育の成功例』イメージや『早期発見と早期の専門家介入による、発達障害者と健常者との共生』イメージが、実はウヤムヤな状態にあるのでは?」と私は思っている。

 

・言葉を使う側がその言葉にどのような意味を持たせているのか、はっきりと明かしていない状態にあるのでは? 

・はっきりと明かさない状態で、それらの状態を理想化しているのでは?

・どういう状態にあるのなら、「学んでいる状態」となるのか?

・学べている状態にあるとしたら、その学びをどのように学校外での生活や卒業後の生活に生かしていくことができるのか? 活かせないとか却って邪魔になっているとかいったことになっていないか、吟味したのか?

等をウヤムヤにしていると、私には思える。

そして、それらをウヤムヤにしたままで、障害者権利条約や「合理的配慮」という概念を取り入れて「同じ場での学び」について語ることになる。それだけではない。「障害者権利条約や合理的配慮に関する解釈」もまた、ウヤムヤな状態にある。私にはそう思える。

 

では、「ウヤムヤ」の中身は何なのか? 

それは

・障害者本人の言動を、他者(特に、支援者と見られている人)がどのように受け止めているのか

・その解釈にはバイアスがかかっていないか

・「支援が必要」とみなす自分自身の生活や感性は正常なのか? もしそうだとしたら、その基準は何なのか?

といった、他者(特に、支援者と見られている人)が自らの支援観を問う行為をしているのか否か、謎の状態になっていることである。私はそう考える。

「成功例に該当している事例」にのみ関心が向かっていて、そうでない障害者(もっと過激に言えば、支援者にとって都合の悪い障害者)にはてんで関心を向けていないのでは? と私は疑っている。「おまえがそんなことを発言すると、うまくいっている障害者の邪魔になる。実際、思い通りにならないからと言って文句を言うな。」などと言われることもザラである。

 

「外部から観察や要請のなされた障害者像」と「障害を持つ自分」のギャップは、存在しうる。

障害者本人以外の人が、障害というカテゴリーをどのように捉えているのか? そして、本人に何を求めているのか? 

それによって、本人の語りを、「本人以外の人自らの価値観で」聞くに値するものとしないものとに分けていないか?

それらを検討しない状態での「共に学ぶ教育」「合理的配慮」概念なら、他者の支援までもが障害者の生活を困難にしてしまう恐れもあるのでは?(例 「特別扱い」という非難が他者からなされる) と私は思う。

 

では、表に出てこない「成功例に該当しない事例」とはどういうものなのか? それについて等を次回以降に書く予定。