karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 2

「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

隠れたテーマは他にも有。「友達と楽しんでいる姿を見せて、大人を安心させろ/大人がはっきりと要求するよりも前に、空気を読んで行動できる子になれ」休み時間という名前でも、大人を安心させるためのある種の労働

2017/01/24 00:49

 

はてなブックマーク - 「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

「仲間と自由にのびのび/人とのかかわり方を学ぶ」とはどんなこと?「本を読むのはそれらに該当せず」と、この顧問はお考えのようだが、その認識は「本を読む子の経験や視点も経由されてるか?経由なしで関わり方学習?

2017/01/26 01:37

 

"「みんなと一緒に過ごしたらどう?」と何回も声をかけた"とのことだ。この「何回も」という記述が、私は気になる。

この顧問が声をかける際に、

「お互いが認識を変えていく」という方向性を持っていたのだろうか? 

それとも、「人との関わり方を学ぶ努力を怠る女子児童に対して、『頑張って交流しなきゃ感』で行動を促す必要あり。行動が変わらないようなら、『交流できている安心感』が得られない。」という認識のままだったのか? 

どちらでもないのか? 

それが気になる。

 

この顧問が女子児童に対して持っていた関心事は、「女子児童に何ができて何ができていないかという、能力的なこと」や「女子児童本人を問題化すること」ではなかったのだろうか? と、私は疑っている。

「女子児童の行動にも、本人なりの事情や感情や思考などがおそらく隠れている。その事実と自分がどう向き合うか、試行錯誤していこう。」といったような思いが顧問にあったのだろうか? 私にはそこに疑問を持っている。

  

本の学校文化で最重要視されていることは、「ある種の(←ここ重要)思考力養成」だ。

本の学校では、「集団を作り、効率的な協調で課題を遂行していくこと」が最重要視されている。給食、掃除、学校行事、登下校などの学科外活動でも、積極的にそれらの教育がなされている。学科外活動では、各教科の学習や教育よりも無意識的に行われている。学校に通う日は毎日行われる。それ故、学科外活動での教育にかかる時間も「積み重なって大きくなっている」状態にある。否、無意識かつ反復継続的故、学科教育よりも影響は極めて大だ。

「集団を作り、効率的な協調で課題を遂行する」ために、「ある種の」思考力が強く要求されることになる。

課題遂行のために必要な役割や分担等については、「教師が決める」「事前に打ち合わせをする」といったことで決まるケースは極めて稀だ。固定的な役割を与えられない子供が、「状況に合わせてお互いに自分で役割を見つけて行動する」ことが期待されている。しかも、子供は、はっきりと明示されない「教師の意図」「他の子供の意向」を読み取ることも求められている。教師や子供相互の「無言のサイン」に反応して状況把握をして行動するためには、極めて高度な観察力、認知力、理解力等が必要となる。

「ある種の」思考力とは何か? それは、「無言のサインに反応して状況把握をしてスピーディーに行動できる状態に辿り着けるような」思考力である。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 4 - karotousen58のブログ

 拙ブログ過去記事引用部を使って主張したいのは、「みんなと一緒に過ごさなかったことだけが問題化されたわけではない。ブックマークコメントに書いた事柄も問題化された」ということである。

「顧問=能力の欠けている女子児童を正しく導く人」「女子児童=正しく導かれるべき人」という解釈のレールが敷かれたと、私は捉えている。

 

女子児童が「休み時間にみんなと一緒に過ごす」ことで、どのような人間関係づくりを望むだろうか? 「休み時間にみんなと一緒に過ごして」学ぶ(ということになっているらしい)ことを、どのような場面で何のために使うのを望むだろうか? 

とか

「顧問本人が、どのような人間関係づくりを学校という場で過去にやっていたのだろうか? と振り返ってみる」とか「時代や環境等の違いも踏まえて、それらを捉えなおしてみる」

とかいったことを本当に考えた上で、「女子児童本人のみを問題化」としたのだろうか? という疑問が私の中にある。

 

「一人で過ごすことは逸脱行為。みんなと一緒に過ごさないと、人との関わり方を学べない。みんなと一緒に過ごすという方法で人との関わり方を学ぶのは、望ましいことだ。」という見解を、どうやら、投書主はお持ちのようだ。ひょっとしたら投書主は、「この見解は、投書主のみならず世間一般に共有されているはず」と確信しておいでなのかもしれない。少なくとも、統合教育崇拝者やある種の支援者には共有されているようだが。

では、その「望ましさ」は、誰にとっての、どんな、何のためのものなのか? 望ましさへの到達度や達成度は、誰がどのように評価するのか? 評価の内容は妥当なのか? 評価可能と言い切れるのか? そもそも評価自体が必要なのか? 私は疑問に思う。

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 1 - karotousen58のブログ

「誰」の中に、女子児童本人はカウントされていないのでは? と私には思えて仕方がない。

 

「一人で過ごすことも、本人の創造した適応方法の一つ」という可能性はないのか? 単なる逸脱行為なのか? どちらとも言い切れないのか?

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 1 - karotousen58のブログ

 次回は、このことについて書く予定。といっても、女子児童本人の内面を勝手に決めつけるわけにはいかないから、私自身のことについて書くが。

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 1

 

「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

隠れたテーマは他にも有。「友達と楽しんでいる姿を見せて、大人を安心させろ/大人がはっきりと要求するよりも前に、空気を読んで行動できる子になれ」休み時間という名前でも、大人を安心させるためのある種の労働

2017/01/24 00:49

はてなブックマーク - 「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

「仲間と自由にのびのび/人とのかかわり方を学ぶ」とはどんなこと?「本を読むのはそれらに該当せず」と、この顧問はお考えのようだが、その認識は「本を読む子の経験や視点も経由されてるか?経由なしで関わり方学習?

2017/01/26 01:37

 はてなブックマーク元に出ている投書内容を、私は「一人はダメだよ教」と勝手によんでいる。「一人はダメだよ教とのつきあい方を模索する」必要を感じたことがある人は、どのくらいいるのだろう? 「必要だと感じた」と表明して、「そんなことを感じるようではダメだ」と詰られたことがある人は、どのくらいいるのだろう? はてなブックマーク元記事を読んで、私の頭に最初に浮かんだことはそれである。

(少なくとも、私の観測範囲内では)普通学級に入った障害児は、この「一人はダメだよ教」を強く叩き込まれる可能性が高くなる。更に統合教育崇拝者が介入した場合、彼(女)らによる叩き込みは極めて強烈なものとなる。

支援者とよばれるポジションにある人からも、強く叩き込まれることがしばしばある。

(注1「インクルーシブ教育」ではなく、「統合教育」としたのには理由がある。「投げ込み統合」に相当する語句が、インクルーシブ教育を語る場で使われないからである。)

(注2 統合教育「崇拝者」と表現したのは、「彼(女)らが、過去にあった投げ込み統合について有耶無耶にしている」と私が認識しているからである。)

(注3 「それなら夏炉冬扇は分離教育賛成派なのか?」という疑問もあるかもしれない。賛否というより、「現状では、統合教育と呼ばれているものも実態は分離教育」と私は捉えている。)

 

そして、強く叩き込むことが「障害児本人や周りの人にとっての暮らしづらさ」につながるケースがでてくることもありうる。私はそう考える。

暮らしづらさにつながってしまう場合、「一人はダメだよ教とのつきあい方を模索する」ことも、「暮らしやすさの追求に近づく方法の一つとしてあり」だと思う。

(念のための注 「暮らしやすさ」は「本人のみが暮らしやすくなること」を意味するわけではない。「追い詰められた状態で他の人と接するよりも、ある程度落ち着いた状態で接したほうがよりよいコミュニケーションを期待できる」という意味である。)

 

 

統合教育崇拝者が関心を持つのは、「自分たちの考える、ありうべき統合教育の姿」や「3の『艱難汝を玉にす』となった(と崇拝者が認識した)姿」や「障害者本人や周囲の人による、その姿を実現させたという語り」である。「その姿から離れた障害者本人が、実際に受けている・過去に受けた処遇」にはほとんど関心を向けない。(少なくとも私の観測範囲内においては)

そして、「学校は勉強の場である以前に、生活の場。共に暮らしていれば、その子なりの学びや成長がある。他の子も、優しさや思いやりを学ぶ。子供時代に普通学級に入れてもらえなかった人が、大人になってから、『障害者や施設以外の世界を知らないから、社会に適応でない』と主張している。」「分けられて障害者を知らない生活が続くから、健常者側が偏見を持つようになる。」と、統合教育崇拝者は語る。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 2 - karotousen58のブログ

 

 

このような状態では、「障害者による語り」は、統合教育崇拝者が障害者本人に期待している語りによって、「統合教育成功イメージに使えそうなもの」と「そうでないもの」に分けられる危険性がある。また、障害者の語りに関する解釈は、統合教育崇拝者や教師や親等に委ねられてしまうと思われる。(つまり、解釈にズレが存在する可能性やズレが存在することをシカトされる危険性がある。)

実際、「実力のある障害者が話すことは、歓迎される。だけど、僕たちの話すことなんて聞いてもらえないに決まっている。作文を書くときは、いじめられたとか楽しくなかったとか書くと怒られる。『いろいろあったけど、今ではいい思い出』とか書かされる。本当は自分は歓迎などされていないということぐらい、わかってる。」と告白する障害者を何人か、私は知っている。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 2 - karotousen58のブログ

 拙ブログ過去記事引用部を使って主張したいのは、「統合教育崇拝者や支援者とよばれる人が、『ある種の判断基準によって児童(特に障害児)を序列化する』のは、実はよくある話。しかも、『優生思想や能力主義はいけない』『分けることは悪』といった類のキレイな言葉を同時に使って。」ということである。

では、ある種の判断基準による序列化とは何であるか? それは、

1.「みんなと一緒にいると楽しい、うれしい。だから、みんなと一緒に行動したい。友達をたくさん作りたい。」と表明する子は、人間的に成長しているよい子。

2.「いじめられる、楽しくない。だから、みんなと一緒がよいこととは思えない。」と表明する子は、成長への努力を怠る悪い子。

3.「いじめられている。だけど、いじめる子も仲間。だから、交わる努力をしなきゃいけない。その子以外の友達もたくさん作るように努力しなきゃいけない。」と表明する子は、1.と2.の中間。

という序列化である。

それだけではない。序列化されるだけでは終わらない。「自分よりも、もっとひどい状態にある子もいる」と思うことによって「自己肯定感が得られる」と、主張する人もしばしば登場する。状態の例としてよく引き合いに出されるのが、「友達の人数」や「集団での行動について、どのように発言したか」である。

「A子には友達が何人かいる。だけど、B子は友達がいないから一人で弁当を食べる。A子はB子よりも人間関係を上手に作れているという証拠だ。だから、A子さん、自信を持っていいよ。」といった類の激励を、私はいろいろな場で聞いたことがある。

 

「一人で過ごすことは逸脱行為。みんなと一緒に過ごさないと、人との関わり方を学べない。みんなと一緒に過ごすという方法で人との関わり方を学ぶのは、望ましいことだ。」という見解を、どうやら、投書主はお持ちのようだ。ひょっとしたら投書主は、「この見解は、投書主のみならず世間一般に共有されているはず」と確信しておいでなのかもしれない。少なくとも、統合教育崇拝者やある種の支援者には共有されているようだが。

では、その「望ましさ」は、誰にとっての、どんな、何のためのものなのか? 望ましさへの到達度や達成度は、誰がどのように評価するのか? 評価の内容は妥当なのか? 評価可能と言い切れるのか? そもそも評価自体が必要なのか? 私は疑問に思う。

「一人で過ごすことも、本人の創造した適応方法の一つ」という可能性はないのか? 単なる逸脱行為なのか? どちらとも言い切れないのか? それらに対する「投書主や統合教育崇拝者の『捉え方』」が謎の状態にあるぞ。という思いも、私にある。

これらのことについて、次回書く予定 。

2017年に書きたい「(発達)障害関連記事」

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

2016年は、障害に関するマスコミ報道が盛んになされた年だった。起こった事件もひどかったが、事件後になされた「障害者団体関係者やマスコミ報道」が私にとっては強烈だった。

一連の報道で、私は次のことを最も強く感じた。

「ああ、やっぱり、『障害者の語り』とされているものの実態は、『専門家や支援者やマスコミにとって共感可能な語り』なんだな。そして、『それによって、障害者本人の思考や感情を方向づけていこう』とする思惑が隠れているんだな。」

そして、発達障害関連でも、「『発達障害に関する語り』は、専門家や支援者(とみなされている人)やマスコミが、苦境にある障害者本人を体よく回収する言葉となってしまったんだな。」と思わせることが相次いで起こった。

それらに対する反駁記事を書いてみたい。

今週のお題「2017年にやりたいこと」

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

私は趣味で、とある外国語教室に通っている。2017年にやりたいことは、「その外国の料理や菓子をつくってみること」である。

 

私は所謂「貧乏舌」の持ち主である。おいしいものとまずいものの区別がつかない。

スーパーマーケット等のお買い物上手コーナーに時々、「元々は高級なものなのだが、賞味期限切れが近いために値引きシールが貼られたもの」が置いてある。そういう類のものを私は、たまに冷やかしで買う。それらを食べる直前までは、とてもワクワクしている。「いつもと違う高級そうなやつだぞ。うまそうだ。」とか。

ところが、実際に食べてみたらワクワク感が消えてしまうケースがほとんどである。「何だ。いつも買う安いやつと、どう違うのかわからない。」と思ってしまうことがほとんどである。

また、私は食べ物の好き嫌いもおそらくない。こういうこともあってか、「私は食に対する思い入れがあまりない人間」という思いをずっと持っていた。

 

外国語教室に通い始めたのは2013年4月である。教室では、最初の2年間は文法中心学習だった。その後、会話練習の要素も入った学習へと変わった。そして去年の秋頃、「食事関連のこと」について学習した。

教科書には、その国の料理やデザート、飲食店の様子、食器、調理道具、食材、調理法、食事のマナー、台所の様子などいろいろと出ている。

それらのすべてが、私にとって新鮮だった。次から次へと新しいものにふれて、実際に自分でも作ったり食べたりしたくなってきた。不思議なものだ。

更に、先生(外国人)がその国の伝統料理や伝統菓子をふるまってくださったこともある。とてもおいしくて、心がワクワクした。

 

その国の伝統菓子には、「花の模様をつけるための押し型」を使うものもある。「私がそれをつくるとしたら、クッキーをつくるときの型を使うことになるかな。」などと考えてしまった。

一番つくってみたいのが、「たれ付けスペアリブを、根菜類と一緒に焼いた料理」である。たれの材料を見て、「どんなのものなのか想像つかないな」と思った。

 

綺麗な器、独特の調理道具、等々、これらも大きな力を持っているものだと思った。この私が料理に対して関心を持つなんて、想像がつかなかった。

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」

 

今年一番印象に残った記事は、はてな匿名ダイアリー2016/02/24付記事「WHY Not Smile」

http://anond.hatelabo.jp/20160224211408 である。

anond.hatelabo.jp

この記事に対して私は、コメント付きのはてなブックマークもした。

「ダメな自分も頑張れば抜け出せる」のではなく、「今のままの自分にも、気付いてなかった力がある」と認識できて自信となるのかも。「自分が欠点だと思っていたことが、意外な観点から高評価」もそれにつながりうる

というコメントを付けた。

この記事が印象に残った理由は、「自己肯定感とか他人から認められるとかいったことって、こういうことでもあるのかもしれない。」と読んだ後に思ったからだ。

 

「『自己肯定感や他人から認められた経験が、(特に成人)発達障害者の場合は乏しいことが多い。成人発達障害者の轍を踏まないように、発達障害の子供には、努力して成功した体験を積ませたり努力して褒められる経験が積み重なるようにすることが望ましい。」という類のコメントが、今まで、いろいろな場でいろいろな人から出されている。

それらのコメントを見聞きするたび、私は違和感を抱いてきた。

 

「笑顔は大切。無表情や無愛想は他人を否定する行為。『笑顔で場の雰囲気をよくして、対人関係を円滑にする。』必要がある。笑顔がぎこちなかったりわざとらしかったりするようでも、ダメ。」という言葉を、私はいろいろな場面で見聞きしてきた。発達障害関連の場で「作り笑顔習得の為のスキル」披露大会がなされるケースも、実際あった。

では、ここでいう「笑顔で雰囲気のよくなっている場」や「円滑な対人関係」では、本当に誰も否定や排除がなされないのか? 答えはノーだ。

「 Why Not Smile での、先生に悩みを打ち明ける前の状態の本人」のようなタイプの人は、言外に「否定や排除」がなされている。しかもそれは、「否定や排除」とはわかりにくい状態にある。何故ならば、「笑顔を浮かべるということは、相手の世界に寄り添うことであり、快適な場の空気を提供する行為」ということが、「日常生活における暗黙のお約束事」となっているから。そして、そのお約束事が侵されるのは「あってはならないこと」であるという前提条件ができてしまったことになる。

ここで、「ぎこちないとかわざとらしいとか思われない(作り)笑顔」ができるようになれば、とりあえず問題は解決されるじゃないかと思われるかもしれない。しかし、それだけでは終わらないと、私は思う。

「笑顔は大切で必要だキャンペーン」がエスカレートしたならば、以前なら「仏頂面ばかりだと損することもあるぞ」「そうか、わかった」程度で終わっていたものが、「(作り)笑顔のできない奴は極悪人」という方向に明示化されたものに変わっていく危険性も大なのでは? 変わっていったならば、相互監視的なものもでてきてしまうのでは? と私は思う。

 

 Why Not Smile では、先生から意外な反応が返ってきたことが書かれている。ここで先生は、「(お約束事としての)笑顔は大切という規範」と「笑顔を浮かべるという行動」以外のことを重視した発言をなさったのでは? と私は勝手に想像している。では、何を重視したのか? それは、「『規範や行動に隠れて、世間的には表面に出てこない価値基準』を意識化して、再検討する」ことである。

この「意識化、再検討」によって、「笑顔を浮かべるという行動」の意味は広がった。そして、「規範に対する評価」が違うものへと変わっていった。私はそう考える。

暗黙のお約束事に隠れた価値基準を絶対視しない態度、その価値基準その価値基準が造られていった過程や意味をいろいろな角度から考えてみること、こういった態度も重要かもしれない。「自分が欠点だと思っていたことが、意外な観点から高評価される」というのも、こういった態度の一つなのだなと思った。

こういう態度の下では、「無表情で愛想のない最低の人間」という評価だけでは終わらず、「『コミュニケーションのふくらみや楽しさ』を生み出す可能性も持つ人」という評価が生み出される可能性もある。「コミュニケーションのふくらみや楽しさ」が、以外の人にも共有される可能性もありうる。私はそう捉えている。

「いじめ・居場所・リセット」に隠れているかもしれないこと

子供のいじめを母親が1日で解決した方法 - きなこ猫のスッキリ生活

いじめられて学校へ行きたくないから自分の頭を丸坊主にした話 - うにのひとりぼっち育児日記

これらの記事を読んで、拙ブログ過去記事  図書館ツイートへの反応 - karotousen58のブログ を思い出した。この過去記事を書いたときには「ほとんど頭の中になかった事柄」が、私の頭の中に新たに浮かんできた。新たな発見を与えてくださった、リンク先記事のブロガーさん、ありがとうございます。

 

「新たな発見」とは何なのか? それは、次のことである。

1.「自分の周りにいる人は、全員が全員『自分を脅かす人』だ。自分の味方をする人なんかいないに決まっている。」という思いが、過去に私が経験したいじめの裏にあった。私はいじめのターゲットにされた経験がある。恥ずかしいことだが、他人をいじめた経験もある。どちらの立場であっても、私の場合はその思いがいじめをエスカレートさせる主因の一つだった。

2いじめの裏に「その思い」が隠れているケース、他の人が経験したいじめにもあるのかもしれない。

3.図書館ツイートへの反応 - karotousen58のブログ では、「その『逃げる』には『自分の身の安全確保が一番大切だから』という思いが付随しているのか? それとも、『負け犬は要らないから去れ』という思いが付随しているのか? 後者なら、態勢立て直しには繋がらない危険性大。」ということを書いた。前者と後者を分けるものの一つに、「1.と2.で述べた思い」があるのかもしれない。

 

子供のいじめを母親が1日で解決した方法 - きなこ猫のスッキリ生活 の記事を読んで、「私が過去にしたいじめ」を思い出した。

恥ずかしい話なのだが、私が過去にしたいじめは次のような経過をとることがあった。

誰かのことを「気に入らない」と思い、その人をいじめる。

何度かいじめた後ある日突然、いじめをすることじたいを何故かバカバカしく思うようになって、いじめをやめる。いじめをやめた後、何故か、過去にいじめていた人の長所や魅力を感じるようになってしまう。「こいつ、結構いい奴じゃないか。」というふうに。

矢印の部分に何があったのか? それは、次のようなことだったのでは? と思った。

「あ、この人の周りには『この人を脅かさない人。この人の味方でいる人』がいるんだ。だけど、私はそうではない。いじめという行動を取ったとしても、『味方のいる人とそうでない自分』を見せつけられるだけだ。」という思いが私の中に湧いてきたのでは(言語化していなかったが)? ということだ。

これも恥ずかしい話なのだが、私は、「その後改心していじめをやめる」ということをしなかった。いじめのターゲットを変えただけだった。誰かをいじめたくなったときに、「あ、私、味方のいる人に対して嫉妬しているんだな」と気付くようになったのは、高校卒業後だった。遅すぎる。

 

いじめられて学校へ行きたくないから自分の頭を丸坊主にした話 - うにのひとりぼっち育児日記 の記事を読んで、「無理に『行け』と言わないこと、居場所、リセット」に対する思いが私の頭に浮かんだ。

「無理に『行け』と言ったら駄目だよ。」「居場所やリセットは大切だよ。」という言葉は、いろいろな場で言われる。ただ、どういう思いを持ってその言葉を発しているのかが、私は気になってしまう。『自分の身の安全確保が一番大切だから』という思いか? 『負け犬は要らないから去れ』という思いか?

ということが。

この記事の「いじめられている子に大切なこと」の所を読んで、「そうか、『自分の味方なんて、誰もするはずがない』という思いは、『安全確保が一番大切』という発想を奪ってしまう怖いものなんだな。」と思った。この記事では「居場所、リセット」について書かれている。それらを「味方でいてほしい」という言葉とともに書いてくださったことがうれしい。

 

「自分の周りにいる人は、全員が全員『自分を脅かす人』だ。自分の味方をする人なんかいないに決まっている。」という思いにとらわれるのは、とても危険なことだ。

いじめと裏社会性 4 - karotousen58のブログ で、「イジメ・カッコワルイ」について書いた。

 

「私が加害者であるいじめ」に関して言えば、どう考えても「イジメ・カッコワルイ」である。 異なる他者を認める柔軟さを、欠いた行為である。 それだけではない。「いじめ以外に、もっと有意義なもの・ことを探したり没頭したりする」という発想がわたしになかった。有意義なことを探したり没頭したりする方が、私だけではなく共通の場にいる人を利することにつながると思う。 いじめによって、私は他の人を無力化しようとしたことになる。そして、私自身の無力化にもつながった。

いじめと裏社会性 4 - karotousen58のブログ

その思いにとらわれていたら、 「いじめは他人も自分も無力化する行為だ。いじめ以外に有意義なことを探したり没頭するほうが、自分を含めて共通の場にいる人を利することにつながりうる。」という発想にも、おそらくつながらないだろう。

キャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」

 

5年後の私も、おそらく「(発達)障害」関連のことをいろいろと考え続けていると思う。

「医療や福祉サポートの対象となる障害者本人」でもなく、「サポートする職種の人」でもない、「部外者」に近いポジションのままで。

今までこのブログで、(発達)障害についていろいろと書いてきた。書いていて、「部外者に近いポジションだから、こういう内容のものを書ける。」と思うことがしょっちゅうあった。

5年後までに書いてみたいテーマがある。

「障害者への差別や偏見は、無知によって起こる。知ることによって乗り越えられる。障害者たちと実際にふれあっていく。障害者側も声を上げ、障害問題を語る必要がある。そうすることによって、社会が障害者の存在を意識するようになる。その結果、障害者への認識や行動に変化が起こる。」

という主張に対する疑問について書いてみたい。

無知が差別や偏見の温床となっている。そのことは正しいと思う。しかし、私は思うのだ。

「知ることによって乗り越えられる」との間に、何か飛躍があるのでは? と。

その飛躍が何なのか。飛躍についてどう考えるのか。まだまとまっていない状態にある。

5年後までに、何とかまとめていきたい。

 

http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary