karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「卒業」

今週のお題「卒業」

 

義務教育時代の卒業式について、私は変な思い出を持っている。

私が経験した卒業式では、ムードを盛り上げようとしてなのか、やたらと悲しそうな音楽が流されていた。

小学校の卒業式では、「呼びかけ」なることがやたらとなされていた。この「呼びかけ」に、私はわざとらしさを感じていた。

私は、「泣かせようとして、悲しそうな音楽を流したり呼びかけをやらせている。わざとらしくて、何て嫌らしいんだ。」と思うような、かわいくないガキだった。今でもそうだ。
「わざとらしい」という思いで頭がいっぱいになったとき、何故かわからないのだが、私はついつい笑ってしまうのだ(声の出ない笑いである)。
「卒業式という場で笑ったら、ヤバい。」ということぐらい、わかっている。しかし、笑ってしまうのだ。
「他の人が泣いている場で、私一人が笑う」これって、怖い光景だ。

 

私が通っていた小学校の通信簿には、生活記録のページなんてものがあった。いろいろとチェック項目があって、そのうちの一つに、「ささいなことで腹を立てたり泣いたりしない」というやつがあった。

こういう項目があることから考えるに、学校という場では「泣く」という行為は原則的には禁止されているものと思われる。しかし、どういうわけか卒業式ではこの項目は意味を持たなくなる。わざわざ悲しそうな音楽を流すところから考えるに、「むしろ、泣くという行為が期待されているのでは?」とも考えてしまう。

なぜ、卒業式では「泣く」ことを禁じられないのだろうか? ずっと疑問に思っていた。

 

「6年生を送る会」といった類の行事って、今でも小学校でなされているんだろうか?
子供のころ、この行事の意義がわからなかった。大人になった今でもわからない。
この行事では、学年全員で、合唱や合奏をするといったようなことをやらされた。呼びかけをやらされたこともある。そのための練習もやらされて、教師からけなされたものだ。
合奏や合唱をすることが、どうして、「6年生を送る」ことになるのかがわからなかった。今でもわからない。
合奏や合唱に使われる歌や音楽自体が、「私にとっては面白くもない歌や音楽」であった。
「6年生にとっては、楽しい歌や音楽なのだろうか?」と疑問を持っていた。

 

大人になって、「感情労働」という言葉を知った。そして思った。「卒業式も、一種の感情労働めいたものが期待されたものなのでは?」と。そして、「私が感情労働をうまくこなせなかったのは、発達障害が大きな影響を及ぼしていたからなのでは?」とも思った。

その後、(有本真紀 著)『卒業式の歴史学』(講談社選書メチエ)なる本が出版された。私の持つ「変な思い出」について、いろいろな角度から捉えなおすことができた本だった。私にとっては面白い本だ。

ただ、この本は人によっては、「読むと卒業式で感動できなくなる(危ない)本」となるかもしれない。また、「卒業式で感動できない、泣けない自分はおかしいのでは?」と悩む子供(特に発達障害系の子供)に接している人に、読んでほしい本である。

『卒業式の歴史学』(有本真紀):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部

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まず、笑(嗤?)いながら序章を読んでしまった。講談社選書メチエを、笑(嗤?)いながら読むことになるなんて、思ってもいなかった。一冊読み終えた後、「『涙の卒業式』には、所謂『隠れたカリキュラム』大ありなんだな」と思った。「自ら泣いたというよりも、感情教育として泣かされていた」んじゃねーの? などと、意地の悪いことも頭に浮かんでしまった。

「卒業式で感動したい」という思いを持つ人からは、「この内容を笑うなんて、けしからん」と言われそうだが。

 

この本の序章より引用

  しかし、学校にも泣きが禁じられない場面、むしろ涙が望ましいとされる状況がある。つまり、誰も理由を問うことのない涙である。

それは、個人が泣くのではなく複数の個々人が泣くのでもない「集団の涙」であって、連帯の証となるような「共同化された涙」であることが重要な条件となっている。
この「涙の共同化」は、努力や感動ときわめて親密な関係を持っている。たとえば、スポーツ競技や合唱コンクールなど「みんなでがんばった」結果が表れる場面の涙は、美しく道徳的なものとみなされる。
「みんなで泣く」ことが、子供たちの精神的成長の表れと解されることもある。その際教師も一緒に涙するならば、良好な教師‐生徒関係が築かれているとして肯定的に受け止められることが多い。(9頁)

子供は状況に応じて適切な感じ方と感情表出ができるよう社会化されなければならない。個々の時と場にふさわしい感情を持てるか、それを適切に表出したり抑制したりできるか否かは、道徳性や人格にかかわる評価にさらされる事態だからである。社会的に期待される感情の規則から常に著しく逸脱するならば、場合によっては「障害」の範疇に含められることもある。(12-13頁)

 当然、家庭も学校も職場も感情文化に取り囲まれているわけだが、学校がとりわけ組織的に感情を社会化する強力な機関であることは言を俟たない。
本の学校では、特に「気持ち」や「みんなの心を一つにすること」が重視される。感動や涙をめざして卒業式の練習が念入りに繰り返されるのも、その一例といえよう。
卒業式の練習がそうした感情の社会化場面であることは、次の回想からもうかがえる。
 (中略)
 このように、卒業式が「社会的な期待にそって心をこめるべき事態」であるという規範と、その規範に従う方法が、あらかじめ繰り返し教えられる。
式の参加者が感動を共有することをめざして児童への働きかけが行われ、式当日には演出と練習の結果が観客の前で演じられる。
このようにして、「感情文化」への招待は、個々人の内に「社会が積み上げてきた感情」を刻印することをもってなされる。(14-15頁)

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 3

はてなブックマーク - 「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

「大勢の人の中にいることで、協調性や社会性が身に付く。一人でいるのは好ましくないことだ。一人の世界から、大勢の世界に自然に目が向くようにはならない。他人に関心を持たないまま成長する危険性がある。」

私が子供の頃、親や教師はこのような思いを持っていたらしい。

「人とつながることをきっかけとして、協調性や社会性が生まれてくる」ということも、事実だと思う。しかし、「背景にある事情を無視した状態で、このことを声高に主張する」のは危険だと、私は思う。

相手が「この子と時間を共有できて楽しい・安心だ」と思って接しているか、「この子は人間関係の作れない、かわいそうな子供だ。だから、哀れんでつきあってあげる」という態度で接しているのかで、だいぶ状況が違ってくる。

 大人がお膳立てをして後者のようなお友達を本人に付けたとしても、本人には協調性やら社会性やらいったものを身につける余裕はできないのでは? と私には思える。

 

 私が子供の頃、親や親戚や教師は、「友達は大切。たくさんつくらないといけない。」と力説していた。しかし、当時の私にとっては、「友達の大切さ」という言葉は、不気味なものと思えた。不気味だと思った理由は、次のことにある。

1 私が子供の頃、親や親戚は「そんなことをすると、人が笑うよ」と言って叱った。この言葉の裏には、「自分の弱いところや醜い感情を感づかれたら、馬鹿にされたり酷い目にあったりするよ。」というメッセージが隠れていると、私には思えた(当時は意識していなかったが)。

 「誰とでも仲間になって、仲良しになりなさい」と「そんなことをしたら、人が笑うよ」という2種類の、矛盾したメッセージを同時に受けて、私は混乱した。

2 私は、ひとりでいるのが苦にならない子供だった。一つには、「場の状況を認知したり判断したりする力が弱すぎて、それらの情報処理を試みるのに手いっぱい→他の児童という情報も加わるとますます混乱→だから一人でいる」という状態だったという事情もある。

親や教師は、「友達を作ろうとしないおまえは、悪い子だ」と主張し続けた。「友達を作る練習」と称して、「毎週土曜日の午後、出来の良い子の家に行き、一緒に遊んでもらうこと」を私に義務付けた。一方で私には、大人が「友達作りを強要する理由」がわけのわからないものに思えた。
 大人側の、ホンネの理由は次のBとCがメインだと(少なくとも私は)思う。しかし、このホンネを大人は明かさない。理由Aという建前を、大人は主張したがる。「理由BやCを大人が要求している」と思うことを、大人は許さない。理由Aを満たすことができない私は、人間として欠陥があるのだとずっと思っていた。

A「一緒にいて楽しい」から、友達を作る

B 友達がいなかったら、社会性が身に付かなくなる。だから、「社会性を身につけるお道具」として、友達が必要。
C 友達がいなかったら、周りから浮き上がらないための情報が得られなくなる。また、友達のいない人は、信用されていない人だというふうに思われる。このように、「世間体を守るための手段」として、友達が必要。

 

「友達ができないのは、あなたの考え方や感じ方が他の人とは変わっているからです。変わっているところをなおして、普通になるように努力しなければいけません。他の人が喜ぶことを話さなければいけません。他の人の気分を害することがあってはいけません。そのようなことができないのは、あなたに思いやりがないからです。」と、私は言われ続けた。
 そしてその結果、「自分が考えたり感じたりすることには、どうせロクなものなんかない。それらが他の人にバレたら、バカにされたり酷い目にあうに決まっている。それだけではない。たった一回でも誰かの気分を害したら、その人は私を許してはくれない。ましてや友達になんかなってもらえない。」という思いをもつようになった。

 友達作りを強要されたのは、私だけではなかったようだ。「友達になろう」と、私に声をかけてくる人が何人かいた。本当に私と友達になりたくて声をかけた人もいた。が、全員が全員そうだというわけではなかった。
 「『友達がいない人は、性格に問題のある人』というふうに思われる。だから、友達を作る必要がある。だけど、他の人にはもうすでに友達ができていて、声をかけづらい。夏炉冬扇は友達がいないようだから、声をかけやすい。」という理由で、声をかける人もいた。
 つまり、「夏炉冬扇に興味・関心を持って近づいたわけではない。世間体を守るための友達作りなんだから、相手は誰だっていい。」ということである。そういう理由で私に近づいた人が、後になってから私に次のような言葉を浴びせたこともある。「夏炉冬扇と友達になっても面白くない。他の人が興味を持っていることを面白がらないなんて、おかしい。」

親や教師からも、「○○さんは優しい人だね。おまえのことをかわいそうだと思ってつきあってくれているんだよ。」などと言われた。
 このようなことを何度かされると、「私と友達になりたい人なんかいるわけない。私に近づく人は、何か下心を持っているに決まっている。」という思いまでが出てくる。

 このような思いにとらわれている状態で「友達を作れ」とか「みんなの輪の中に積極的に入って、協調性や社会性を身につけろ」と要求されても、「協調性や社会性とやらを身につける余裕」なんかない。疑心暗鬼の目で他の人を見てしまうことになる。同時に、他の人の長所や魅力を見逃すことにもつながる。

 

高校卒業まで、このような思いを抱えていた。自分の思考や感情について話すのが怖かった。「黄色い花がある」という言葉なら言えても、「この花きれい」とか「この花好き」とかいったことは、怖くてなかなか言えない状態だった。

大学入学後、恐々「自分の思考や感情」について話すようになった。「黄色い花がある」といった言葉だけでは間が持てなかったからだ。恐々話した事柄だったのだが、その事柄について侮蔑や罵倒の表現が返ってくることは、予想よりもずっと少なかった。逆に「その発想、面白い。あんた、気に入った」とか「あの一言を聞いて、『最初はとっつきにくそうな人と思っていたけど、ひょっとしたら、夏炉冬扇さんって話が通じる人かもしれない』と思った」とか打ち明けられることもあった。

正直言って驚いた。こういう経験が何度か重なって、私の思いも少しずつ変わってきた。

「何回か気に障ることを言ったりしたりしても、許してくれる人もいる。仮に相手の気分を害したとしても、後から反省して、自分の言動をどう変えたらよいかわかったら変えればよい。」とか、「私に近づくのは、私のことを気に入ってくれたからかもしれない。私自身をさらけだしても、この人は私を見下すようなことはしないだろう。」という思いに変わった。思いが変わるまで気長につきあってくれる複数の友人に、私は恵まれた。

読書について - karotousen58のブログ のような感じで、友人が接してくれた。

 

それと同時に、大学という場で、「一人でいることも悪とは限らない」という価値観も許されていたと思う。

私の場合、一人でいる時間がある程度確保できて初めて、「自分の思考・感情がどのようなものであるのか、自分の心の動きがどのようなものであるのか、知ろうとすることを許された」という感じだった。

 「一人でいるのはダメ。外に出て人の気持をわかろうとしなければダメ。」という言葉を、それまでに私はよく聞きました。しかし、私は思うのだ。「自分の気持もわかろうとしたことがなくて、他の人の気持なんかわかるのか?」と。

 一人でいる時間をある程度確保できて初めて、「自分の思考・感情について知ろうとする」「今の自分がよい・悪いという問題ではなく、どうやったら暮らしやすくなるのか考えていく」ということに自分の心や頭が向かっていったように思える。 「一人でいるなんて、無駄に時間を過ごすだけだ」とハタからは思われるかもしれない。しかし、私の頭と心は、一人でいたときにフル回転していたのだと思う。

 自分が楽になった状態で人と接してからのほうが、他の人の良いところに目が向くようになったり、他の人の言動を悪意に解釈することが少なくなるのではないかと思う。 

一人でいるときに「自分の思考・感情について知ろうとする」のみならず、「深めていく」ことの出来る人もいるのかもしれない。元記事の女子児童もそうだったのかもしれない。私の勝手な想像だが。

 

 「友達作りを強要」とか「一人でいるのは悪いこと」と声高に主張することが、却って「人に関心を持つことに、恐怖感を持つ」「『孤独を悪と思わない自分は極悪人』という罪悪感を持つ」方向に向かわせることもありうる(少なくとも、私はそうだった)。

「恐怖感や罪悪感を持ってしまったがために、他の人から遠ざかってしまう」ことは、本人にとって不利益となりうるだけではない。本人以外の人にとっても、不利益となっているのかもしれない。

「一人でいるのは悪いこと」「一人でいるような人は、人との関わり方を学べていない人」といった類の決めつけを疑ってみることは、これまで遠ざけていた人とつながるきっかけになりうるかもしれない。その「これまで遠ざけていた人」は、実は、「一人でいるときに、いろいろと内面を深めていた」人かもしれない。

ひょっとしたら、「一人はダメだよ教を絶対視しない態度」は、本人にとっても周りの人にとっても「自らの生活」を豊かにすることにつながるのかもしれない。

 

(このシリーズひとまず完結)

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 2

「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

隠れたテーマは他にも有。「友達と楽しんでいる姿を見せて、大人を安心させろ/大人がはっきりと要求するよりも前に、空気を読んで行動できる子になれ」休み時間という名前でも、大人を安心させるためのある種の労働

2017/01/24 00:49

 

はてなブックマーク - 「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

「仲間と自由にのびのび/人とのかかわり方を学ぶ」とはどんなこと?「本を読むのはそれらに該当せず」と、この顧問はお考えのようだが、その認識は「本を読む子の経験や視点も経由されてるか?経由なしで関わり方学習?

2017/01/26 01:37

 

"「みんなと一緒に過ごしたらどう?」と何回も声をかけた"とのことだ。この「何回も」という記述が、私は気になる。

この顧問が声をかける際に、

「お互いが認識を変えていく」という方向性を持っていたのだろうか? 

それとも、「人との関わり方を学ぶ努力を怠る女子児童に対して、『頑張って交流しなきゃ感』で行動を促す必要あり。行動が変わらないようなら、『交流できている安心感』が得られない。」という認識のままだったのか? 

どちらでもないのか? 

それが気になる。

 

この顧問が女子児童に対して持っていた関心事は、「女子児童に何ができて何ができていないかという、能力的なこと」や「女子児童本人を問題化すること」ではなかったのだろうか? と、私は疑っている。

「女子児童の行動にも、本人なりの事情や感情や思考などがおそらく隠れている。その事実と自分がどう向き合うか、試行錯誤していこう。」といったような思いが顧問にあったのだろうか? 私にはそこに疑問を持っている。

  

本の学校文化で最重要視されていることは、「ある種の(←ここ重要)思考力養成」だ。

本の学校では、「集団を作り、効率的な協調で課題を遂行していくこと」が最重要視されている。給食、掃除、学校行事、登下校などの学科外活動でも、積極的にそれらの教育がなされている。学科外活動では、各教科の学習や教育よりも無意識的に行われている。学校に通う日は毎日行われる。それ故、学科外活動での教育にかかる時間も「積み重なって大きくなっている」状態にある。否、無意識かつ反復継続的故、学科教育よりも影響は極めて大だ。

「集団を作り、効率的な協調で課題を遂行する」ために、「ある種の」思考力が強く要求されることになる。

課題遂行のために必要な役割や分担等については、「教師が決める」「事前に打ち合わせをする」といったことで決まるケースは極めて稀だ。固定的な役割を与えられない子供が、「状況に合わせてお互いに自分で役割を見つけて行動する」ことが期待されている。しかも、子供は、はっきりと明示されない「教師の意図」「他の子供の意向」を読み取ることも求められている。教師や子供相互の「無言のサイン」に反応して状況把握をして行動するためには、極めて高度な観察力、認知力、理解力等が必要となる。

「ある種の」思考力とは何か? それは、「無言のサインに反応して状況把握をしてスピーディーに行動できる状態に辿り着けるような」思考力である。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 4 - karotousen58のブログ

 拙ブログ過去記事引用部を使って主張したいのは、「みんなと一緒に過ごさなかったことだけが問題化されたわけではない。ブックマークコメントに書いた事柄も問題化された」ということである。

「顧問=能力の欠けている女子児童を正しく導く人」「女子児童=正しく導かれるべき人」という解釈のレールが敷かれたと、私は捉えている。

 

女子児童が「休み時間にみんなと一緒に過ごす」ことで、どのような人間関係づくりを望むだろうか? 「休み時間にみんなと一緒に過ごして」学ぶ(ということになっているらしい)ことを、どのような場面で何のために使うのを望むだろうか? 

とか

「顧問本人が、どのような人間関係づくりを学校という場で過去にやっていたのだろうか? と振り返ってみる」とか「時代や環境等の違いも踏まえて、それらを捉えなおしてみる」

とかいったことを本当に考えた上で、「女子児童本人のみを問題化」としたのだろうか? という疑問が私の中にある。

 

「一人で過ごすことは逸脱行為。みんなと一緒に過ごさないと、人との関わり方を学べない。みんなと一緒に過ごすという方法で人との関わり方を学ぶのは、望ましいことだ。」という見解を、どうやら、投書主はお持ちのようだ。ひょっとしたら投書主は、「この見解は、投書主のみならず世間一般に共有されているはず」と確信しておいでなのかもしれない。少なくとも、統合教育崇拝者やある種の支援者には共有されているようだが。

では、その「望ましさ」は、誰にとっての、どんな、何のためのものなのか? 望ましさへの到達度や達成度は、誰がどのように評価するのか? 評価の内容は妥当なのか? 評価可能と言い切れるのか? そもそも評価自体が必要なのか? 私は疑問に思う。

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 1 - karotousen58のブログ

「誰」の中に、女子児童本人はカウントされていないのでは? と私には思えて仕方がない。

 

「一人で過ごすことも、本人の創造した適応方法の一つ」という可能性はないのか? 単なる逸脱行為なのか? どちらとも言い切れないのか?

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 1 - karotousen58のブログ

 次回は、このことについて書く予定。といっても、女子児童本人の内面を勝手に決めつけるわけにはいかないから、私自身のことについて書くが。

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 1

 

「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

隠れたテーマは他にも有。「友達と楽しんでいる姿を見せて、大人を安心させろ/大人がはっきりと要求するよりも前に、空気を読んで行動できる子になれ」休み時間という名前でも、大人を安心させるためのある種の労働

2017/01/24 00:49

はてなブックマーク - 「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

「仲間と自由にのびのび/人とのかかわり方を学ぶ」とはどんなこと?「本を読むのはそれらに該当せず」と、この顧問はお考えのようだが、その認識は「本を読む子の経験や視点も経由されてるか?経由なしで関わり方学習?

2017/01/26 01:37

 はてなブックマーク元に出ている投書内容を、私は「一人はダメだよ教」と勝手によんでいる。「一人はダメだよ教とのつきあい方を模索する」必要を感じたことがある人は、どのくらいいるのだろう? 「必要だと感じた」と表明して、「そんなことを感じるようではダメだ」と詰られたことがある人は、どのくらいいるのだろう? はてなブックマーク元記事を読んで、私の頭に最初に浮かんだことはそれである。

(少なくとも、私の観測範囲内では)普通学級に入った障害児は、この「一人はダメだよ教」を強く叩き込まれる可能性が高くなる。更に統合教育崇拝者が介入した場合、彼(女)らによる叩き込みは極めて強烈なものとなる。

支援者とよばれるポジションにある人からも、強く叩き込まれることがしばしばある。

(注1「インクルーシブ教育」ではなく、「統合教育」としたのには理由がある。「投げ込み統合」に相当する語句が、インクルーシブ教育を語る場で使われないからである。)

(注2 統合教育「崇拝者」と表現したのは、「彼(女)らが、過去にあった投げ込み統合について有耶無耶にしている」と私が認識しているからである。)

(注3 「それなら夏炉冬扇は分離教育賛成派なのか?」という疑問もあるかもしれない。賛否というより、「現状では、統合教育と呼ばれているものも実態は分離教育」と私は捉えている。)

 

そして、強く叩き込むことが「障害児本人や周りの人にとっての暮らしづらさ」につながるケースがでてくることもありうる。私はそう考える。

暮らしづらさにつながってしまう場合、「一人はダメだよ教とのつきあい方を模索する」ことも、「暮らしやすさの追求に近づく方法の一つとしてあり」だと思う。

(念のための注 「暮らしやすさ」は「本人のみが暮らしやすくなること」を意味するわけではない。「追い詰められた状態で他の人と接するよりも、ある程度落ち着いた状態で接したほうがよりよいコミュニケーションを期待できる」という意味である。)

 

 

統合教育崇拝者が関心を持つのは、「自分たちの考える、ありうべき統合教育の姿」や「3の『艱難汝を玉にす』となった(と崇拝者が認識した)姿」や「障害者本人や周囲の人による、その姿を実現させたという語り」である。「その姿から離れた障害者本人が、実際に受けている・過去に受けた処遇」にはほとんど関心を向けない。(少なくとも私の観測範囲内においては)

そして、「学校は勉強の場である以前に、生活の場。共に暮らしていれば、その子なりの学びや成長がある。他の子も、優しさや思いやりを学ぶ。子供時代に普通学級に入れてもらえなかった人が、大人になってから、『障害者や施設以外の世界を知らないから、社会に適応でない』と主張している。」「分けられて障害者を知らない生活が続くから、健常者側が偏見を持つようになる。」と、統合教育崇拝者は語る。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 2 - karotousen58のブログ

 

 

このような状態では、「障害者による語り」は、統合教育崇拝者が障害者本人に期待している語りによって、「統合教育成功イメージに使えそうなもの」と「そうでないもの」に分けられる危険性がある。また、障害者の語りに関する解釈は、統合教育崇拝者や教師や親等に委ねられてしまうと思われる。(つまり、解釈にズレが存在する可能性やズレが存在することをシカトされる危険性がある。)

実際、「実力のある障害者が話すことは、歓迎される。だけど、僕たちの話すことなんて聞いてもらえないに決まっている。作文を書くときは、いじめられたとか楽しくなかったとか書くと怒られる。『いろいろあったけど、今ではいい思い出』とか書かされる。本当は自分は歓迎などされていないということぐらい、わかってる。」と告白する障害者を何人か、私は知っている。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 2 - karotousen58のブログ

 拙ブログ過去記事引用部を使って主張したいのは、「統合教育崇拝者や支援者とよばれる人が、『ある種の判断基準によって児童(特に障害児)を序列化する』のは、実はよくある話。しかも、『優生思想や能力主義はいけない』『分けることは悪』といった類のキレイな言葉を同時に使って。」ということである。

では、ある種の判断基準による序列化とは何であるか? それは、

1.「みんなと一緒にいると楽しい、うれしい。だから、みんなと一緒に行動したい。友達をたくさん作りたい。」と表明する子は、人間的に成長しているよい子。

2.「いじめられる、楽しくない。だから、みんなと一緒がよいこととは思えない。」と表明する子は、成長への努力を怠る悪い子。

3.「いじめられている。だけど、いじめる子も仲間。だから、交わる努力をしなきゃいけない。その子以外の友達もたくさん作るように努力しなきゃいけない。」と表明する子は、1.と2.の中間。

という序列化である。

それだけではない。序列化されるだけでは終わらない。「自分よりも、もっとひどい状態にある子もいる」と思うことによって「自己肯定感が得られる」と、主張する人もしばしば登場する。状態の例としてよく引き合いに出されるのが、「友達の人数」や「集団での行動について、どのように発言したか」である。

「A子には友達が何人かいる。だけど、B子は友達がいないから一人で弁当を食べる。A子はB子よりも人間関係を上手に作れているという証拠だ。だから、A子さん、自信を持っていいよ。」といった類の激励を、私はいろいろな場で聞いたことがある。

 

「一人で過ごすことは逸脱行為。みんなと一緒に過ごさないと、人との関わり方を学べない。みんなと一緒に過ごすという方法で人との関わり方を学ぶのは、望ましいことだ。」という見解を、どうやら、投書主はお持ちのようだ。ひょっとしたら投書主は、「この見解は、投書主のみならず世間一般に共有されているはず」と確信しておいでなのかもしれない。少なくとも、統合教育崇拝者やある種の支援者には共有されているようだが。

では、その「望ましさ」は、誰にとっての、どんな、何のためのものなのか? 望ましさへの到達度や達成度は、誰がどのように評価するのか? 評価の内容は妥当なのか? 評価可能と言い切れるのか? そもそも評価自体が必要なのか? 私は疑問に思う。

「一人で過ごすことも、本人の創造した適応方法の一つ」という可能性はないのか? 単なる逸脱行為なのか? どちらとも言い切れないのか? それらに対する「投書主や統合教育崇拝者の『捉え方』」が謎の状態にあるぞ。という思いも、私にある。

これらのことについて、次回書く予定 。

2017年に書きたい「(発達)障害関連記事」

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

2016年は、障害に関するマスコミ報道が盛んになされた年だった。起こった事件もひどかったが、事件後になされた「障害者団体関係者やマスコミ報道」が私にとっては強烈だった。

一連の報道で、私は次のことを最も強く感じた。

「ああ、やっぱり、『障害者の語り』とされているものの実態は、『専門家や支援者やマスコミにとって共感可能な語り』なんだな。そして、『それによって、障害者本人の思考や感情を方向づけていこう』とする思惑が隠れているんだな。」

そして、発達障害関連でも、「『発達障害に関する語り』は、専門家や支援者(とみなされている人)やマスコミが、苦境にある障害者本人を体よく回収する言葉となってしまったんだな。」と思わせることが相次いで起こった。

それらに対する反駁記事を書いてみたい。

今週のお題「2017年にやりたいこと」

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

私は趣味で、とある外国語教室に通っている。2017年にやりたいことは、「その外国の料理や菓子をつくってみること」である。

 

私は所謂「貧乏舌」の持ち主である。おいしいものとまずいものの区別がつかない。

スーパーマーケット等のお買い物上手コーナーに時々、「元々は高級なものなのだが、賞味期限切れが近いために値引きシールが貼られたもの」が置いてある。そういう類のものを私は、たまに冷やかしで買う。それらを食べる直前までは、とてもワクワクしている。「いつもと違う高級そうなやつだぞ。うまそうだ。」とか。

ところが、実際に食べてみたらワクワク感が消えてしまうケースがほとんどである。「何だ。いつも買う安いやつと、どう違うのかわからない。」と思ってしまうことがほとんどである。

また、私は食べ物の好き嫌いもおそらくない。こういうこともあってか、「私は食に対する思い入れがあまりない人間」という思いをずっと持っていた。

 

外国語教室に通い始めたのは2013年4月である。教室では、最初の2年間は文法中心学習だった。その後、会話練習の要素も入った学習へと変わった。そして去年の秋頃、「食事関連のこと」について学習した。

教科書には、その国の料理やデザート、飲食店の様子、食器、調理道具、食材、調理法、食事のマナー、台所の様子などいろいろと出ている。

それらのすべてが、私にとって新鮮だった。次から次へと新しいものにふれて、実際に自分でも作ったり食べたりしたくなってきた。不思議なものだ。

更に、先生(外国人)がその国の伝統料理や伝統菓子をふるまってくださったこともある。とてもおいしくて、心がワクワクした。

 

その国の伝統菓子には、「花の模様をつけるための押し型」を使うものもある。「私がそれをつくるとしたら、クッキーをつくるときの型を使うことになるかな。」などと考えてしまった。

一番つくってみたいのが、「たれ付けスペアリブを、根菜類と一緒に焼いた料理」である。たれの材料を見て、「どんなのものなのか想像つかないな」と思った。

 

綺麗な器、独特の調理道具、等々、これらも大きな力を持っているものだと思った。この私が料理に対して関心を持つなんて、想像がつかなかった。

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」

 

今年一番印象に残った記事は、はてな匿名ダイアリー2016/02/24付記事「WHY Not Smile」

http://anond.hatelabo.jp/20160224211408 である。

anond.hatelabo.jp

この記事に対して私は、コメント付きのはてなブックマークもした。

「ダメな自分も頑張れば抜け出せる」のではなく、「今のままの自分にも、気付いてなかった力がある」と認識できて自信となるのかも。「自分が欠点だと思っていたことが、意外な観点から高評価」もそれにつながりうる

というコメントを付けた。

この記事が印象に残った理由は、「自己肯定感とか他人から認められるとかいったことって、こういうことでもあるのかもしれない。」と読んだ後に思ったからだ。

 

「『自己肯定感や他人から認められた経験が、(特に成人)発達障害者の場合は乏しいことが多い。成人発達障害者の轍を踏まないように、発達障害の子供には、努力して成功した体験を積ませたり努力して褒められる経験が積み重なるようにすることが望ましい。」という類のコメントが、今まで、いろいろな場でいろいろな人から出されている。

それらのコメントを見聞きするたび、私は違和感を抱いてきた。

 

「笑顔は大切。無表情や無愛想は他人を否定する行為。『笑顔で場の雰囲気をよくして、対人関係を円滑にする。』必要がある。笑顔がぎこちなかったりわざとらしかったりするようでも、ダメ。」という言葉を、私はいろいろな場面で見聞きしてきた。発達障害関連の場で「作り笑顔習得の為のスキル」披露大会がなされるケースも、実際あった。

では、ここでいう「笑顔で雰囲気のよくなっている場」や「円滑な対人関係」では、本当に誰も否定や排除がなされないのか? 答えはノーだ。

「 Why Not Smile での、先生に悩みを打ち明ける前の状態の本人」のようなタイプの人は、言外に「否定や排除」がなされている。しかもそれは、「否定や排除」とはわかりにくい状態にある。何故ならば、「笑顔を浮かべるということは、相手の世界に寄り添うことであり、快適な場の空気を提供する行為」ということが、「日常生活における暗黙のお約束事」となっているから。そして、そのお約束事が侵されるのは「あってはならないこと」であるという前提条件ができてしまったことになる。

ここで、「ぎこちないとかわざとらしいとか思われない(作り)笑顔」ができるようになれば、とりあえず問題は解決されるじゃないかと思われるかもしれない。しかし、それだけでは終わらないと、私は思う。

「笑顔は大切で必要だキャンペーン」がエスカレートしたならば、以前なら「仏頂面ばかりだと損することもあるぞ」「そうか、わかった」程度で終わっていたものが、「(作り)笑顔のできない奴は極悪人」という方向に明示化されたものに変わっていく危険性も大なのでは? 変わっていったならば、相互監視的なものもでてきてしまうのでは? と私は思う。

 

 Why Not Smile では、先生から意外な反応が返ってきたことが書かれている。ここで先生は、「(お約束事としての)笑顔は大切という規範」と「笑顔を浮かべるという行動」以外のことを重視した発言をなさったのでは? と私は勝手に想像している。では、何を重視したのか? それは、「『規範や行動に隠れて、世間的には表面に出てこない価値基準』を意識化して、再検討する」ことである。

この「意識化、再検討」によって、「笑顔を浮かべるという行動」の意味は広がった。そして、「規範に対する評価」が違うものへと変わっていった。私はそう考える。

暗黙のお約束事に隠れた価値基準を絶対視しない態度、その価値基準その価値基準が造られていった過程や意味をいろいろな角度から考えてみること、こういった態度も重要かもしれない。「自分が欠点だと思っていたことが、意外な観点から高評価される」というのも、こういった態度の一つなのだなと思った。

こういう態度の下では、「無表情で愛想のない最低の人間」という評価だけでは終わらず、「『コミュニケーションのふくらみや楽しさ』を生み出す可能性も持つ人」という評価が生み出される可能性もある。「コミュニケーションのふくらみや楽しさ」が、以外の人にも共有される可能性もありうる。私はそう捉えている。