karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

2016年7月26日のあの事件と私

今週のお題「私の沼」

 

「2016年7月26日のあの事件」とは、「障害者施設での殺人事件」のことである。

事件そのものもショックだった。そして、その後のマスコミ報道や各種団体のコメントも、私にとって衝撃が大きかった。

「その後のマスコミ報道や各種団体のコメント」に対して、私は疑問を持っている。「その疑問について考えること」が、現在、「私の沼」となっている。

 

その後のマスコミ報道で、「被害者が実名を出さないのは優生思想からきているもの」「障害者も声をあげる必要がある」といった類のコメントが出された。障害者関連団体、障害者の家族、「全ての子供を普通学級に入れる」類の運動をしている団体(やそれに賛同する人達)等から。

これらのコメントに最初に接したとき、正直、「気持ち悪い」と思った。「過去になされた障害者運動において、『障害者の声』を、障害者本人以外の人達の思惑に沿うように『政治的利用』してきた」ことをシカトする気か? シカトされた状態で「声をあげる」なんて、危ねーぞ。

と私は思ったのだ。

「この『政治的利用』をしてきたことに対して、再考する態度を持たない」状態の人達に対して「障害者側が声をあげた」場合、その「障害者の声」はどう扱われるだろう?

・「障害者本人以外の人達の思惑」に沿わない声は否認され、彼(女)らに都合のよい声だけが採用される。

・「意見が否認される」だけでは終わらず、「都合のよい声をあげた障害者を見習うべきだ。それができないようではいけない。」という、二重の排除がなされる。

・「障害者本人以外の人にとって、都合のよい声」を誘導すべく、様々な統制を取るケースもありうる。

といったことが私の頭に浮かんでくる。

 

「声をあげる必要がある」と主張した団体や人々に対して、「障害がもたらす問題をサポートするものとしての団体や人々」像が前提として組み込まれている場合もよくある。

しかし、その前提には危ないものがある。本当は、「支援団体や支援者」と障害者との関係は、「違いを認識」や「方針をめぐって対立」等の葛藤や衝突や軋轢等の複雑な要素も入り込みうる関係である。その複雑な要素を「なかったこと」にして、「障害者の声を政治的利用」される危険性が隠れている。

 

「社会に『期待される障害者像』がある。それに沿うべく、障害者には圧力がかかる。障害をめぐる問題は、身近にいる市民にとっての問題で市民が共感できるもの以外は認められない。それをふまえずに匿名はダメなんて言わないでほしい。」といった声をあげることは、「必要のある声」としてカウントがなされるのだろうか? 疑問がある。

 

非難されそうだが敢えて書く。

 過去の障害者運動では、障害者団体や専門家団体や「すべての子供を普通学級に入れる」類の運動をしている人達によって、彼(女)らにとって「都合の悪い障害者とそうでない障害者を分断」することがなされた。そして、その分断はしばしばえげつない方法でなされた。

この事件の被告人が表明した「差別的な障害者観」は、「えげつない方法でなされた分断」とも近いと私は思っている。

 

今回の記事について考えている最中、NHK発達障害関連の番組が放送された。正直、この番組にも「障害者の声を政治的利用」臭を感じた。これについてもいろいろと考えて発表してみたい。うまくまとまらない状態にあるが。

沼は更に深くなった。

「おやつ」のまわりにあったもの

今週のお題「おやつ」

 

このお題を見て、私が小学生だった頃のおやつも思い出した。

当時の私のおやつは、ほとんどが近所の駄菓子屋で買ったものだった。駄菓子屋の店の様子や当時買っていたお菓子が、私の頭に浮かんできた。

 

大袈裟と思われるかもしれないが、書いてみる。

今振り返ってみて、「この『駄菓子屋』や『お菓子』のまわりには、『学校関係や家族親戚以外のいろいろな人(特に大人)と私との、ある種のつながり』があったのでは? そしてそのつながりは、学校文化と壊滅的に相性が悪かった私にとって貴重なものだったのでは?」という思いが浮かんできた。

 

駄菓子屋の人は、みんないい人だったと思う。「店に来る子が、学校文化的序列でどういうポジションにあるか」ということに関心のない人なのでは? と子供心にも思っていた。当時の私の身近には、「学校文化的序列(今では、スクールカーストと呼ばれているらしい)に異様に関心を持ち、序列の下位にいる子は容赦なく貶す」タイプの大人がいた。私はスクールカースト最下層にいる子供だった。

店の人は、「スクールカースト上ポジションには関心はない。店に来る子はみんなかわいい。」という態度で接してくださったのだと思う。だから安心できた。「大人の全員が全員、私を貶すというわけではない。安心できる大人もいる。」という思いが、私の心のどこかにできていたのだと思う。

店に行く→お菓子を選んで買う→家に帰る という行動は、時間にしてみればごく僅かだ。しかし、この僅かな時間は、とても貴重な時間だったと思う。この駄菓子屋は、当時の私にとっての貴重な居場所だった。

 

私が義務教育を受けていたのは1970年代だ。当時、「パッケージやおまけについていたカードなどで、昔話や伝承遊びや豆知識や名画などが紹介されていたお菓子」が結構あった。それらの紹介も、私は楽しんでいた。「それらから得た知識や感性は、結構大きなものかもしれない」と、私は思っている。

「知的で役に立つことを、無知な子供に教えてあげよう」という上から目線的なものを、私はそれらから感じなかった。

私の勝手な想像だが、関連を持っていた人が、次のような思いを持っていたのでは? と思えてしまう。

・知的好奇心や芸術などを味わうこと、そしてそれらを紹介することに対する、ワクワク感

・「学校から少し離れたタイプの学びもあるよ。それらの学びも楽しいかもしれないよ。」という思い

・「もしもそれらの紹介を楽しんでもらえたら、紹介した大人もうれしいよ。」という思い

「お菓子を手にとって(食べ物としても紹介されたものとしても)味わう」ということで、お菓子に関連していた人と私とはつながっていたのでは? と私は思う。

 

「店でお菓子を買って食べる」ただそれだけの行為じゃないか? と思われるかもしれない。しかし、たったそれだけの行為の中で、私の中の思考や感情はいろいろと働いていた。それは私にとっての事実だ。そしてそれは私一人だけで得たものではない。

「駄菓子屋の人」や「全然想像のつかない、見知らぬ大人」とのつながりから得たものだと思う。「学校と家以外の世界」を持てたことは、(特に当時の)私にとって大きかった。

今週のお題「おやつ」

今週のお題「おやつ」

 

「おやつ」という言葉を聞くと、私の頭には最初に「犬用おやつ」が浮かんでしまう。犬のしつけをする際に「犬用おやつ」を使ったら、しつけ終了後でもおやつをやめるわけにはいかなくなった。

 

物心付いたときから、うちにはずっと犬がいた。昭和時代に飼っていたヨーキーと今飼っている中型犬以外は、外飼いだった。昭和時代に飼っていたヨーキーは、きちんとしつけてある状態でもらった犬だった。歴代の外飼い犬には、特別なしつけをしなくても特にトラブルはなかった。

しかし、今飼っている犬は違った。うちでしつけをする必要がでてきた。新聞の「譲りますコーナー」にでていた犬をもらうことになったのだが、母が室内飼いを強く希望したからだ。2005年、ヤツはうちにやって来た。

昭和時代は、犬用おやつの種類は今ほど多くなかった。犬用スティックチーズ、犬用ビーフジャーキー、犬用ガム程度だった。パッケージのデザインも地味だった。うちの歴代犬に対しては、「たまに、飼い主の気まぐれで買ったおやつをやる」程度だった。おやつを買うときも、特別な思いをもつことはほとんどなかった。

 

今飼っている犬のしつけをするとき、「犬用おやつ」を使うことを考えた。

そこで、ホームセンターに行ったのだが吃驚。犬用おやつの種類が豊富になっていた。先代犬の頃とは大違い。

例えば、犬用チーズにしてもスティックチーズだけではなかった。サイコロ型にカットしたチーズ、野菜ミックスタイプのチーズ、チキン味のチーズをプレーンなチーズで包んだタイプのもの、いろいろあった。「カマンベールとチェダー使用」と書かれているものもあった。

ジャーキーの類も種類が豊富になっていた。ビーフ、ささみ、砂肝などいろいろあった。形も、渦巻きとかツイストとかサイコロとかいろいろとあった。

ひめたらとかかわはぎとかいったおやつも新たに出ていた。もっとも、これらのおやつは、ここ2~3年で販売終了となったケースが多いが。

他にも、かつおジャーキー、アキレス、レバー、クッキー、ボーロ、ソーセージなどいろいろあった。

パッケージも派手になっていた。人間用のおやつと間違えそうなパッケージのものまであった。

売り場やおやつの実物を見た母が、大はしゃぎ。「いろいろと買ってみたい。いろいろなおやつをやりたい。」と。

そして母は、一日に2回おやつを、毎日やるようになった。こうなると引っ込みがつかない。

 

ドッグフードとおやつとでは、犬の反応が大違いである。しっぽを派手に振って、大袈裟なお手をする。

うちの犬は、「チーズが一番好き、その次がジャーキーなど肉系統、海産物系も好き」といったところみたいだ。

犬用おやつを買うときは、「お買い物上手コーナー」にあるものを狙う。残念なことに、チーズの類はこのコーナーではあまり見かけない。高級チーズをこのコーナーで見つけたときは、迷いに迷って結局買った。とんでもない勢いで、ヤツはそれを食べた。それ以降、ヤツは高級チーズと縁がない。

貧乏な飼い主でごめん。

今週のお題「ゴールデンウィーク2017」

今週のお題ゴールデンウィーク2017」

 

ゴールデンウィークには、ブックオフで本の価格が2割引となる日がある。だから、今年もその日に、生活圏内にあるブックオフをはしごした。今年は、「営業停止となった出版社」を店内で意識してしまった。

 

割引開始の2~3日前に、「最近、書店で国際語学社という出版社の本を見ないな」と思った。Amazonで調べたら、ほとんどが「新品/中古品の出品」となっていた。
不審に思って「国際語学社」で検索したら、去年営業停止になっていたとのことだ。英語以外の外国語学習書をたくさん出していた出版社だったから残念。その中でも特に気になる本は、軒並み値段が5000円超(営業停止前の価格は、2000円未満)となっていた。

国際語学社営業停止を知った直後、更に「週刊住宅新聞社」事業停止ニュースが入ってきた。「週刊住宅新聞社の書籍も、要チェックだな。」と思った。

 

結局、国際語学社や週刊住宅新聞社の本は見つからなかった。しかし、それより前に営業停止となった出版社の本がいろいろと視界に入ってきた。

私の生活圏内にあるブックオフでは、外国語関連書籍と学参が同じ場所に置いてある。「営業停止となった出版社」から出ていた学参がいろいろと目についた。

 

難問題の系統とその解き方物理

難問題の系統とその解き方物理

 

 今年2月、ニュートンプレス民事再生法の適用を申請した。このニュースを知って私が最初に思ったことは、

学参『難問題の系統とその解き方』はどうなるのだろう? 「この本がなければ私の人生は違うものになっていたかもしれない」という本なのだが。

だった。1981年発行本(当時は教育社から出ていた)を、私は今でも持っている。

ブックオフに、この本があった。108円だった。「この本にこの値段がついているのか。超お買い得だな。高校物理をじっくり勉強したい人が読んでくれるとうれしいな。」と思った。

他にも駸々堂、教学研究社、鷺書房といった営業停止出版社系学参が見つかった。昔ながらの地味な(注 褒め言葉)つくりの学参である。こういうタイプの学参を、実は私は好んでいる。

学参以外では、一橋出版の本もあった。この出版社の場合、他の出版社が引き継いで出版している書籍もある。この出版社から出ていた「ワード、エクセル」本が気に入っていた。

 

私が古本屋で最も注意して探す本は、「1960~1980年頃に初版が出た、子供向け数学/科学本」である。

今後は、それに加えて営業停止出版社系の本も意識することになるだろうな。

今週のお題「部活動」

今週のお題「部活動」

 

もしも、タイムマシンに乗って中高生時代の自分に会えたなら、私は次のことを話すだろう。

・「部活動は楽しいに決まっている。部活動で青春を謳歌するのが普通。」という類の言葉を聞かされているのなら、「アビリーンのパラドックス」という言葉も知っておいて損はないぞ。大学に入って、「部活動を楽しめない自分は、おかしいのだと思っていた。」という告白をしてくれた人が結構見つかったぞ。

・「部活動は楽しいし、人間的に成長できる。帰宅部の子は無気力。」という類の話を聞かされていると思うけど、それって実は、菊池寛の小説『形』みたいな話だぞ。

 アビリーンのパラドックス - Wikipedia

 菊池寛 形

 

以前、はてなハイクに次のような文章を書いた。

「部活動は好意的な評価をされているのに、塾通いは悪く言われる」ことに、合点がいかなかった(今でもそうだが)。
帰宅部は、無気力とか時間を有意義に使っていないとか非難されまくっていた。
一方、塾通いに対しては、抜け駆けしようとしているとか教育パパ(ママ)とか、大人が陰口が言っていた。陰口を言いながらも自分の子供は塾に行かせていたようだが。
塾は嫌なら簡単にやめられる。しかし、部活動は違う。やめたいと言えば、教師や親から「根気がない」とかなじられるのが相場だった(少なくとも、私の出身地域では)。
「活発な子だと思われたい」とか「無気力な子だと思われたら嫌」というだけの理由で、部活動をやっていた人も結構いるもんだと、大学時代に知った。
どうして部活動は好意的に評価されるのか? 謎だ。

 

小学生時代の私は成長の遅れた子供だった。体力がなく、学校にいるだけで疲れ切って、うちに帰るとボーとしている子供だった。習い事をする余裕もなかった。テレビで芸能人を見る元気すらなかった。しかも、実技教科の成績は全部ビリだった。

そういう私に対して親は、「この子が部活動なんかやると、周りに迷惑がかかる。やったとしても上達なんかしないに決まっている。だからやらせない。」という方針を取っていた。私も、学校にいるだけで疲れていたから、やりたいという思いすら持てなかった。

それと同時に親は、部活動というものを美化していた。「○○さんのところの長男は、バスケット部でがんばっている。部活動で成長している。内申書にもよく書かれるだろう。次男は帰宅部で無気力でダメな子。」といった類の陰口も、しょっちゅうたたいていた。

中1の3学期頃から何故か体力がついて、下校後もいろいろと活動できるようになった。しかし、部活動文化に染まるには、遅すぎる。

中高生時代の私は、「部活動文化に対する疑問を持つ」一方で、「部活動文化から早々と排除される人間にしかなれない私には、人間的な魅力がない」という思いも同時に 抱えていた。

大人の本音は「『部活動という形で学校にしばりつけて、校外で問題を起こさないようにさせる。街中を子供にウロウロされたら、正直言って邪魔だし。』といったところなんだろうな。」と思ってよい。そう確信したのは、大学に入ってからだった。

 

大学に入って、「実は、『部活動にしばられている』という思いをずっと抱えていた。楽しいと思わず、しばられていると思う自分はおかしい悪い人だという思いも抱えていた。」という告白をする人が結構いることを知った。

「水泳部にいたけど、『寒くなったらプールに入れない』という理由も加わって、休むことを許されなかった。『月食を観測したいから休ませてください。』と顧問に話したら、こっぴどく怒られた。その時点で急に、『部活動が原因で他のおもしろそうなことができなくなる』という事実がバカバカしくなって、やめた。せいせいした。プリンプリン物語(注 当時、夕方に放送されていた番組)もみられるようになってよかった。」

といったことを話してくれた人も意外とたくさんいた。

「運動部の下手くそ部員だったけど、ほとんど毎日長時間の活動だった。生理が止まるのもしょっちゅうだった。そのことを大人に相談したが、『それくらいでなければ上手にならない。強くならないといけない。やめるのは根性なし。』と叱咤されるだけだった。下手くそ部員でさえこうなんだから、大会に出るような部員はもっとひどかっただろうな。」という告白も、いろいろな人から聞いた。

そういう告白をしてくれた人は、「部活動は有意義だった」と発言する人よりも、人間的な魅力に乏しかったか?

帰宅部だった」と告白してくれた人も何人かいたが、彼(女)らは人間的な魅力に乏しかったか?

答えは勿論ノーだ。

 

今の私なら言える。

「部活動をする子は帰宅部の子とは違って、人間的に成長している。」というお話は、『形』でいう「赤い羽織や目立つ兜」になりうる。

「部活動をやらない子は無気力。時間を有意義に使っていない。やめる子は根気がない。」という類の言葉は、「赤い羽織や目立つ兜という姿ではない兵を、雑兵と決めつける」行為になりうる。

「本当は、部活動以外にもいろいろなことをしてみたい」という思いを持っていてもそれを言えない状態は、「赤い羽織や目立つ兜をつけないために、雑兵と思われてしまう」ことを警戒している状態と似ているのかもしれない。

「部活動を辞めたいと言った子供を、なじる大人」には、「(中村ではない)初陣の兵でも、赤い羽織や目立つ兜をつければ相手が逃げてくれる。それなのに、それらを捨てたいとは何事か。」という発想が隠れているのかもしれない。

 

考えてみれば、現状では部活動に関して生徒が決めることができるのは、「やるか否か」「何部に入るか」程度のものなんだな。

「週何回、どれくらいの時間の活動を希望」とか、どんな指導者の下でやりたいかとか、「(例えば)夏は水泳、冬は料理」といったような「短期間でいろいろと変えていって楽しむことも検討」とかいったことって、生徒側が提案することなんて想定されてなさそうだな。

気軽に参加できる「部活動以外の課外活動の場」って、大人になったらいろいろと候補先が頭に浮かんでくる。しかし、(特に田舎の)中高生にはイメージしにくいものかもしれない。

大人たちにお願いしたい。部活動(特に、帰宅部と呼ばれている状態)に対して教育的に過剰なイメージを押し付けないでほしい。

部活動文化に窮屈さを感じている中高生も、存在しうる。「部活動をやらないなら、家でボーっとしてるだけじゃないか」という反論もあるかもしれない。しかし、「ボーっとしているだけのようにみえても、実は、本人の内部にはいろいろな変化があるのかもしれない」と私は思っている。

外国語教室は自己紹介大会の会場かもしれない

今週のお題「自己紹介」

 

私は趣味で外国語教室に通っている。

最初の2年間は文法中心の学習だった。

一昨年の4月頃から会話の学習比率が高くなってきた。そして、半年ほど前からは、「150~300字程度で、テーマに沿って短文を積み上げて書く作文」も加わるようになった。

この「会話や作文」というやつ、受講生それぞれの個性がでてくるものである。特に作文で。

 

例えば、「好きな季節」というテーマで書くとする。

「夏が好き」とか書くだけでは、150~300字には届かない。「その季節に対して持つイメージ」とか「その季節によく行うこと」とか「今年、その季節にやりたいこと」とか、いろいろと他に書き加える必要が出てくる。これらの「他に書き加えた内容」が、受講生それぞれの個性を強く出してくる。

「えっ、この人、こういう一面もあるんだ。ちょっと意外。」とか思ったこともある。逆に私が、「そういうことに興味があるようには、見えなかった。」とか言われることもある。

「受講生それぞれの個性」が出される様子は、「自己紹介」のような役割を果たしていると思う。

 

これまで扱ったテーマで一番印象に残っているのは、「もらいたいor贈りたいプレゼント」というものだった。

「今までにもらったor贈ったことのあるプレゼント」とか「誰に贈った、誰からもらった」とか「一番印象に残っているプレゼント」とか「今後もらいたいor贈りたいプレゼント」とか、いろいろと披露された。

私は「下心のこもった」贈り物(特に、反復継続的になされるもの)が苦手である。贈るのも贈られるのも。

これについて書いていたら、簡単に字数が埋まってしまった。こういう文章を書く受講生は、やはり、私だけだった。

強烈な「自己紹介」になってしまった。

「発達障害の理解や支援」に隠れているもの

 

 

支援を受けられぬまま死んでいったある発達障害者についての述懐 - decinormal

"なんてもったいないのだ。こんなに知的で繊細な人を皆が無視してきた"の記述も重要。「本人に『困難や問題』が備わっていて、教育や福祉の支援で改善」という発想ではなく、相互行為についても検討していく姿勢。

2017/04/07 15:43

 

 

発達障害系の記事が注目を集めるたびに 皆さんが救われてほしいと思ってい..

「キモい/無能な/発達障害」の認識をもたらすものは、障害をめぐる「非発達障害者の『期待や想定や志向性』」に基づいたやりとりによる面も大では?と私は疑う。そのやりとりで障害を「個人の心身の問題」還元は不当。

2017/04/10 01:22

 4/2~4/8は、発達障害啓発週間だった。啓発活動では、発達障害に対する「理解や支援」の必要性が主張される。しかし、私はこの「理解や支援」に関するアピールにしっくりこないものを感じていた。

「理解や支援」に隠れているものがある。私はそう考えている。

では、何が隠れているのか? それは次のものである。

1.発達障害者本人の主張を聞く(聞こうとする)側が持っている、「理解のスタイル」

2.「支援の必要性や中身を『認識/決定』するのは誰なのか、また、どのように決定するのか」ということ

 

これらの「隠れているもの」が検討されない状態で、次の見解が自明視されているのでは? そして、その自明視は発達障害者本人にとって「社会的不利益を受けること」にもつながりうるのでは? と私は疑っている。

1.「発達障害者本人=理解や支援のなされる側」、「周囲や社会=理解や支援をする側」という見解

2.「発達障害者本人に『困難や問題』が備わっている。だから、教育や福祉を用いた、本人に介入する支援によって改善や矯正をする必要がある。」という見解

3.発達障害者本人は問題の「対象」であって、その問題を抱えているのは「周囲の人々や社会」という見解

 

発達障害者の周囲の人々が、「あの人には発達障害が疑われる」と認識する場合、その認識はどのようにしてなされるのか? 

勿論、「周囲の多数の人が医学的診断基準を知っていて、その基準について緻密な検討を重ねて、発達障害者という認識に至る」というわけではない。

発達障害カテゴリーは「曖昧さを持つカテゴリー」である。人々はその場の状況や文脈に基づいて、人それぞれのやりかたで「発達障害カテゴリー」をイメージする。曖昧ゆえ、その場の状況と文脈に応じて、様々な行為を発達障害に関連付けることが可能となる。そして、関連付けて「本人との関係を作る」ことも可能となる。その際、「常識や慣習や文化」といった一定の枠組みが語られることもよくある。

つまり、「あの人は発達障害者」という認識は、「発達障害カテゴリーのもつ曖昧さをベースに、人々が他者の行為を発達障害とみなし、『その他者と関係を作る上で、適切である』」とみなした結果と考えられる。

 

周囲の人々や社会が「発達障害の理解や支援」を訴える際、<社会>と<発達障害>をめぐる、周囲の「期待や想定や志向」が大きな意味を持ってくる。

すなわち、周囲にとって、「発達障害者がどのように変わってほしいのか、発達障害者のどういうところを発達障害らしいとみなすのか、発達障害者に対してどのようにやりとりをしていくことが望ましいのか」などといったことが大きな意味を持ってくる。

では、周囲の「期待や想定や志向」は現状ではどういうものになっていることが多いのだろうか? 次のようなところでは……と私は疑っている。

発達障害者には社会性の遅れやいろいろな能力の欠如がある。それ故、非発達障害者と同様のやりとりをうまくできない。発達障害者自身にトラブルの原因がある。うまくできるようになるために、発達障害者本人が社会性の遅れや能力の欠如を克服すべきである」という視点からなされた研究や解釈が多数派をなしているのでは? 

更に、「医療や福祉という分野を介入させ、『問題や困難』を外部化(発達障害者本人と医療や福祉関係者や家族で解決していく)することが解決方法。」という発想が強まっているのでは? 

と私には思える。

その一方で、

遅れているとされる「発達」に含まれる意味は何であるのか? 

「能力の欠如」とみなされる際、その場がどのようなシステムになっているのか? そして我々が日常的に行っている対人的やりとりが何を生み出しているのか? 

ということに対して「再検討をしていこう」という方向の意見はほとんど出されない。

 

はじめにあげたブックマークコメント元記事中の、"なんてもったいないのだ。こんなに知的で繊細な人を皆が無視してきた"の記述は、「問題や困難の、外部化」から導かれたものではない。

「理解や支援に隠れているもの」「<社会>と<発達障害>をめぐる、期待や想定や志向」に対して、ブログ主が真摯に向き合って導かれたものだと思う。

次にあげたブックマークコメント中の、「キモい/無能な/発達障害」認識は、「その場の『状況の中』にある、また、そのようなものとして成し遂げられた『やりとりの中』」で作られたものかもしれない。

言い換えると、「キモい/無能な/発達障害」認識は、「本人に『困難や問題』が備わっていて、教育や福祉の支援で改善」という発想を元記事作成者が押し付けられて導かれたものかもしれない。

ある種の「<社会>と<発達障害>をめぐる、期待や想定や志向」を基準として対人関係を設定すること、それによって、「キモい/無能な/発達障害」認識が強調されることになる。ということもありうるのでは?

その基準を基に、「あるべきとされた対人関係」に沿った観察が、発達障害者本人以外の人から一方的に行われる。→それによって、発達障害者の「キモい/無能な/発達障害」認識が強調されることになる。 といったところもあるのでは?

と私は疑っている。

 

勿論、「<社会>と<発達障害>をめぐる、『期待や想定や志向』」は、発達障害者側も周囲に対して持っている。そのことを踏まえて、「その期待や想定や志向の中に、不適切なものはないか考えていくこと」や「自分たちが日常的に行っているやりとりが生み出しているものについて、いろいろと検討を続けていくこと」や「それによって、日々のやり取りをよりよいものにしていくこと」を発達障害者側も心がける必要がある。

発達障害に限らず、障害に関する「困難や問題」は、「場の状況やお互いの対人的やりとりを検討」することによって初めて、その複雑さに近づくことが可能となるのかもしれない。「障害者本人に『困難や問題』が備わっている。そして、教育や福祉の支援(という形の外注)で改善」という発想の下では、近づくことが困難なものとなりうるのかもしれない。

障害に関する啓発活動を考える際、「理解と支援」に隠れているものを意識する必要がある。私はそう考える。