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「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 3

 

職員会議で担任の叱責問題視せず 福井県池田町の中2男子自殺 - 共同通信 47NEWS

"ほとんどの教員が問題視していなかった。担任は調査に「生徒に期待していて、叱責に応え得るとみていた」「叱責した後、頻繁に家庭訪問して指導の思いを伝えていた」と説明"「教育的指導」という口実を他教員も共有

2017/10/19 15:48

 

 

中2が自殺、「教師の指導や叱責でストレス」 福井:朝日新聞デジタル

"福井大大学院教授は「叱責を繰り返したことは指導の範囲を超えていた」と述べた"教師のパワハラというより「生徒を強くするための刺激や叱咤激励。正当な指導」と確信→教師が反省せず過激化 かも。「確信」の正体は

2017/10/19 16:16

 

 

福井・中2自殺で再発防止策「地域全体が協力し合う」:朝日新聞デジタル

寧ろ、「生徒を強くする為の方法として必要なのが厳しい叱責。ストレスに感じるようじゃ生徒の将来はない。」という思いを、担任や副担任以外の大人も共有していたのでは?と私は疑っている。パワハラの告発が困難に

2017/10/21 00:04

 

 

中学校生徒自死に係る報告書概要について | 福井県池田町

"「小さな町だからこそ」「小さな学校だからこそ」が生かされる子育て・教育環境の再生、向上化に向け"怖い。

2017/10/19 23:55

 

今回は、 池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 1 - karotousen58のブログ

で述べた

不登校フリースクールという方法もあるよ。発達障害なら、専門家に相談していろいろと教えてもらうといいよ。」と無責任に(←ここ重要)煽る。(「システムに問題があるか否か、あるとしたら、どう改善していくのか」といったことは無視。「生徒個人の資質」に問題があって学校不適応と決めつけ→「学校でうまくいかないダメな奴でも居場所はあるよ」と、見下した形での助言めいたもの。)

 等について書く。

不登校フリースクール関連の無責任な煽りや見下した形の助言については、 図書館ツイートへの反応 - karotousen58のブログ や 学校観って、どうつくられるんだろう? - karotousen58のブログ で過去に書いた。

 

2.の思いを身近な大人が持っていた場合、不登校フリースクールで事態が(身近な大人にとって)好転しなかったら、もっと怖いことになるかもしれない。 「フリースクールにさえ行けない、ダメな奴なのか」といった類の罵倒を、ついつい私は想像してしまう。

図書館ツイートへの反応 - karotousen58のブログ

 

 

つまり、「援助の対象としてしか児童生徒を評価しない外野によって、一方的に『交流のできないダメな子』役割を割り振られた」状態に、子供が置かれるのでは……。そして、子供がその役割を内面化することにも拍車がかかるのでは……。 という最悪の事態を、私はついつい想像してしまうのだ。

学校観って、どうつくられるんだろう? - karotousen58のブログ

 等書いた。

 

では、「発達障害関連業界」の場合はどうなのか? これについて書く。

結論から言うと、「この業界も、『力による支配』というコミュニケーションスタイルを支持している。「弱くて無力な資質を持つ、その生徒本人。その本人に配慮して接してあげる大人。生徒本人も、大人のそういう思いをくみ取って努力すべき。」という物語は温存されたまま。」

発達障害の専門家に対して、ずいぶんと失礼な発言。マスコミ報道から考えるに、専門家の先生方は発達障害者にあたたかいまなざしを向けておられる。それなのになぜそんな発言を?」と思われるかもしれない。

確かに、「発達障害児を理解するよう、努力しています。早く見つけて早く療育すれば、予後は良好です。」という類のアピールは、いろいろな場でなされている。しかし、「成人発達障害者」に対しては態度を変えていることが多々ある。「社会にとって受け入れやすい存在にならなければいけない。『差別性や加害性を非発達障害者が持つ場合もある』などと言っているようではダメ。」というコメントが成人発達障害者に対してなされるのを、私はいろいろな場で見聞きしている。

成人発達障害者に対する態度が、「発達障害に対する、業界人のホンネ」と私には思える。

業界人だけではない。「発達障害のお子さんにあたたかいまなざしを向け、熱心に療育を行っておられる親御さん」的な評価を受けている方々のブログやサイトにも、時々「成人発達障害者に対する蔑視」を感じることが私にはある。

例えば、「ある女性芸能人が、バラエティー番組で、うまくかみ合わない会話をやっていた。このかみ合わなさが発達障害っぽい。」という類の記事を引き合いに出して、「うわっ、うちの(発達障害の)娘が大人になったらあんなのになりそう。反面教師にしなくちゃ。」とか騒ぎ立てる。台本とか芸能人側の演出とかいった、周辺事情に関するいろいろな可能性については無視した状態で。

 

次に、この悲観的な見解を出した理由について書く。

この自殺事件で私は、「発達障害系の子供が厳しい叱責を受ける→所謂パニックが起こる」というケースを連想した。

(注1 この「パニック」は、世間一般で言われている「パニック」やパニック障害とは異なる。)

(注2 所謂「パニック」は、人によって表現のされ方が違う。「暴れる、大声や奇声をあげる」等の激しい形で出る人もいれば、「泣いてはいけないということは頭では分かっている。しかし、何故かメソメソ泣いてしまう」「何故か独り言を言ってしまう」という形で出る人、他の形で出る人もいる。この事件では「メソメソ泣いてしまう」タイプのパニックを連想。)

所謂パニックについて、業界関係者や「発達障害関連ブログやサイトを運営する人々」がどのように捉えているか?

特に、「成人障害者のパニック」についてどのように捉えているか? このことが、「発達障害を踏まえた指導」の方針に大きく反映されるのでは? と私は考えた。この「捉え方」の中に、私なりの理由が存在する。

「成人発達障害者のパニックについて、周りにいる人から的外れな提言がなされている場合多し。しかし、それらについて、発達障害関連業界から訂正や助言はほとんどなされない。それどころか、的外れな提言をする人たちに対して『共感』を示すこともザラ。」これが現状である。この現状から、悲観的な見解が頭に浮かぶ

「成人発達障害者がパニックで泣く」ときたら、何かを連想される方もおられるだろう。そう、「野々村竜太郎元県議の記者会見」だ。ただし、私は、この元県議を「発達障害とは違うタイプ」だと思っている。

例の県議は、発達障害とは違うタイプに思える - karotousen58のブログ

「例の県議と発達障害とは、違うタイプ」と思う理由 - karotousen58のブログ

「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログ

この元県議関連で、いろいろな人が「発達障害」について騒ぎ立てた。「社会にとって受け入れやすい存在にならなければいけない。『差別性や加害性を非発達障害者が持つ場合もある』などと言っているようではダメ。」的価値観を内面化した成人発達障害者や、発達障害児を持つ家族の人々も、騒いでいた。

「あの元県議は発達障害に違いない。あそこまで酷いのなら、受診して専門家の指導を受けるべき。」 「あの元県議は発達障害に違いない。パニックになったときのうちの子そっくり。頑張って療育して、あんなふうにならないようにしないといけない。」「あれだけ一生懸命指導や叱咤激励をしてあげているのに、うちの子は反省すらしない。」といった類のコメントを、嫌になるほど私は見聞きした。

雑誌等の記事でも、元県議に関して「いろいろな状況や事情について吟味しないまま、発達障害関連本に出ていそうな行動を記述→発達障害では?」の誘導を思わせるものが多かった。

その一方で、「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログで述べた次のようなことについて、コメントがなされることはほとんどなかった。

 

このパターンに陥ってしまっても、「本人にとってもまわりにとっても事態を少しでも好転させるための、パニック対処法」なんてものは頭に浮かばない。実は本人も、「パニックを起こしてはいけない。起こさないための方法を見つけなければいけない。それは頭では分かっている。しかし、どうすればいいのかさっぱり見当がつかないから困っている。」という状態なのだが。

「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログ

 

 

パニック状態の陰には、「パニックを誘発する人」も存在する。(前述の「空気読め」の記事参照)しかし、この「パニックを誘発する側」が批判されることはほとんどない。放置されることが多い。 「わざわざパニックを誘発する以外に、事態をすこしでも好転させる方法はないのか? 発達障害者本人も周りの人も利する方法は、ないのか?」などと誘発した側が問われることはほとんどない。

「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログ

 

 

発達障害者が、いわゆるパニックに陥ること」と「非発達障害者にとって、それと似た状態になること」とでは、「身近の人による対処の仕方を変えたほうがいい」場合が、実はよくある。

「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログ

 

「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログの後半部で、私の場合について書いた。

「自分がこれまでやってきた努力が的外れだったこと」「ひとまず落ち着くことが大切。そして、本人も周りも利するようなパニック対処法を、一緒に考えて行くことが必要」「パニックを誘発する側についても問題はないのか、パニック誘発以外のコミュニケーションスタイルは他にないのか、それらも頭にいれておいてよい」といった類の助言を、カウンセラーから受けた。これらの助言は、私にとって意味があった。

これらの助言を受けたのは、四半世紀近く前だった。そして今まで、このカウンセラー以外の人から、この内容の発言を見聞きしたことがない。現状では、「空気読め」のような返事が発達障害専門家からなされることもザラだ。

 

「学校で身につけさせるもの」が何であるのか? それを周囲の大人がどう認識していたか? について考える。次のような認識だったのでは? と私は疑っている。

学校とは「社会性を身につけさせる場」である。ここでは、教師が「社会化のなされた、あるべき姿」を知っていて「社会化のうまくできていない生徒」を教え導くことになっている。

「宿題を提出しない」「生徒会活動等で、望まれている行動をうまくとれない」という状態は、「規範からの逸脱」である。逸脱は「叱咤や指導」の対象となる。「叱咤や指導」によって改善されなければ、その生徒は排除されることもありうる。

具体的行動に関する規範以前に、「生活態度改善規範」の習得が重要。「生活態度改善規範」は、話の聞き方、他人の立場や心情理解など多肢にわたる。

「生徒が教師の感情を理解することによって、生徒教師間の関係性の変化を教師が求める。→他者への配慮として、生徒が行動を改善する。」というレールに乗れないようでは、「生活態度改善規範」は習得できない。叱責を受けて混乱するのは、教師の立場や感情を理解できていないからだ。レールに乗れない原因は、生徒の「常識のなさ」「他者に関する想像力や思いやりのなさ」「幼稚さ」「耐性のなさ」等にある。

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 2 - karotousen58のブログ

 という認識に対して、捉えなおしがなされたのか?なされたのならどんなものなのか?それによって、「不登校フリースクールという方法もあるよ。発達障害なら、専門家に相談していろいろと教えてもらうといいよ。」発言の意味は違ってくる。

不登校フリースクール発達障害という方向からの検討」が

  1. 認識を揺さぶった、つまり、「力による支配を安易に容認」空気を揺さぶったうえでのもの
  2. 認識の揺さぶりではなく、「自殺よりはマシ。本人が弱いんだからしょうがない」という、「例外」を設けたもの
  3. その他

のどれなのか?

2.ならば、『力による支配』というコミュニケーションスタイルは温存されたままであり、本人が劣位とみなされた状態は続いている。

確かに、いったん「例外」として見られることによって、態勢立て直しにつながることもあるかもしれない。しかし、「一見応援した態度を見せておきながら、問題を生徒個人の内面に閉じ込める」まなざしで、生徒が見られる状態は続いている。

前記事から引用した「認識」を捉えなおしてみる。その視点にたって初めて、事態の好転や本人にとっての生きづらさ軽減につながりうるのでは? その「認識」は、担任と副担任だけが有しているものとは思えない。おそらく、社会一般に共有されている。

 

次回は、「感情理解や他者への配慮も、確かに大切なこと。しかし、『それだけでは解決困難』という場合もよくある。」ということについて書く予定。

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 2

 

職員会議で担任の叱責問題視せず 福井県池田町の中2男子自殺 - 共同通信 47NEWS

"ほとんどの教員が問題視していなかった。担任は調査に「生徒に期待していて、叱責に応え得るとみていた」「叱責した後、頻繁に家庭訪問して指導の思いを伝えていた」と説明"「教育的指導」という口実を他教員も共有

2017/10/19 15:48

 

 

中2が自殺、「教師の指導や叱責でストレス」 福井:朝日新聞デジタル

"福井大大学院教授は「叱責を繰り返したことは指導の範囲を超えていた」と述べた"教師のパワハラというより「生徒を強くするための刺激や叱咤激励。正当な指導」と確信→教師が反省せず過激化 かも。「確信」の正体は

2017/10/19 16:16

 

 

福井・中2自殺で再発防止策「地域全体が協力し合う」:朝日新聞デジタル

寧ろ、「生徒を強くする為の方法として必要なのが厳しい叱責。ストレスに感じるようじゃ生徒の将来はない。」という思いを、担任や副担任以外の大人も共有していたのでは?と私は疑っている。パワハラの告発が困難に

2017/10/21 00:04

 

 

中学校生徒自死に係る報告書概要について | 福井県池田町

"「小さな町だからこそ」「小さな学校だからこそ」が生かされる子育て・教育環境の再生、向上化に向け"怖い。

2017/10/19 23:55

 最初に断わっておくが、学校側のとった行為を庇おうという意図はない。自殺した生徒の家族や地域住民を責めようという意図もない。自殺した生徒の資質を責めようという意図もない。

私はこの事件を、「『一部のトンデモ教員達によるとんでもない暴走』プラス『特定の資質を持った生徒』という組み合わせ故に起きた事件」とは見ていない。「歯止めをかけさせなかったもの」が存在したことも大きいと、私は思っている。更に、学校以外の場も含めて、この事件は「氷山の一角」だと私は思う。

 

「この事件ほどは人目をひかないタイプのパワハラ」を受け続ける。

プラス

「ただ単に、耐性がない、甘やかされて叱られ慣れていない奴だ。こいつは厳しい叱責を浴びて強くならなければいけない。」というまなざしを周囲が向け続ける。こういうまなざしが向けられているうちは、パワハラに歯止めなんかかからない。

プラス

それでも本人はなんとか我慢を続けている。しかし、事態は好転せず本人にとっての生きづらさも軽減されない。

 

というケースは、たくさんあるのでは?と私は考える。

「たくさんある。つまり、みんながそうなの。だからあなたも頑張って我慢して強くなって。」などと私は主張したくない。

社会一般にも「力による支配を安易に容認」空気がある。この事件は、「力による支配」や「それを安易に容認すること」への警告とも考えられるのでは? そしてそれらについて問い直してみる必要があるのでは? という思いで私は記事を書いている。

 では、この事件での「力による支配を安易に容認」空気とはどんなものか?それについて書く。

 

最初に、学校や地域で、周囲の大人はその生徒にどういうまなざしを向けていたのか?これを考える。

  1. 「この子は叱られ慣れていないだけだ。叱責を受けてうろたえているようじゃいけない。強くならなければいけない。激しい叱責を何度も受けて訓練しなければいけない。」と周りの人が認識。
  2. 「『担任や副担任は、あの生徒に対して常軌を逸した振る舞いをしている。』と私個人としては思うよ。だけど、『今の子供は叱られ慣れてなくて耐性がない、叱責を受ける訓練が必要というのも事実。あの生徒が他の生徒よりも強い叱責を受けているのは、あの生徒に耐性がなくて訓練が必要だからだよ。』と、私以外の大人はたぶん思っている。」と周りの人が認識。
  3. その他

事件が明るみに出るまで、2.の認識を介したまなざしを向けていた大人が多数派だったのでは? と私は疑っている。

 

次に、「学校で身につけさせるもの」が何であるのか? それを周囲の大人がどう認識していたか? について考える。次のような認識だったのでは? と私は疑っている。

  • 学校とは「社会性を身につけさせる場」である。ここでは、教師が「社会化のなされた、あるべき姿」を知っていて「社会化のうまくできていない生徒」を教え導くことになっている。
  • 「宿題を提出しない」「生徒会活動等で、望まれている行動をうまくとれない」という状態は、「規範からの逸脱」である。逸脱は「叱咤や指導」の対象となる。「叱咤や指導」によって改善されなければ、その生徒は排除されることもありうる。
  • 具体的行動に関する規範以前に、「生活態度改善規範」の習得が重要。「生活態度改善規範」は、話の聞き方、他人の立場や心情理解など多肢にわたる。
  • 「生徒が教師の感情を理解することによって、生徒教師間の関係性の変化を教師が求める。→他者への配慮として、生徒が行動を改善する。」というレールに乗れないようでは、「生活態度改善規範」は習得できない。叱責を受けて混乱するのは、教師の立場や感情を理解できていないからだ。レールに乗れない原因は、生徒の「常識のなさ」「他者に関する想像力や思いやりのなさ」「幼稚さ」「耐性のなさ」等にある。

 

この「感情理解、他者への配慮」が、実は「要警戒ワード」として、この事件に深くかかわっている。私はそう捉えている。

「生徒と教師がお互いの感情を理解することによって、生徒教師間の関係を変化させていく。→他者への配慮として、お互いが行動を改善する。」というレールは、自殺した生徒の家族も支持していたように見受けられる。

「傷つきやすい子に対する配慮」や「あたたかな人間関係」型の問題解決を、その生徒の家族が希望していたように見受けられる。

「それのどこが要警戒なのですか?」と思われる方もおられるかもしれない。しかし、私はあえて主張する。「パターナリズムが隠れているケースもありうる。それを警戒する必要あり。」と。

「誰にとっての、どんな問題なのか」「どういう状態を、解決と考えるか」「解決に向けて、どんなアプローチをしていくか」等のことを、生徒側が考えたり主張したりする→大人がそれを反抗的態度とみなす ということはないか? 「大人よりも弱い立場にある生徒は、大人が子供に望んでいるものを従順に受け入れ応えなければならない」という発想が隠れていないか? ということも考える必要があると思う。

もう一点、要警戒ポイントがある。

「感情理解、他者への配慮」メソッドでは、「市民相互の私的な人間関係」の中で「心のあり方」によって解決することになる。「人権を実現する公的機関の責務」や「諸制度を構築しながら解決」という方向は閉ざされている。

パターナリズムが隠れている場合、「社会的弱者は、強者に従ってこそうまくいく」「実際に、弱者は強者を慕う」「だから、強者のルールに従うべき」という規範意識の押し付けがなされる。

これは、「力」による関係性を基盤とした「厳しい指導」とつながるのでは? そして、この「規範意識」は、実は、社会一般にいきわたっているのでは? と私は思う。

「力による支配を安易に容認」空気を、私はこのように捉えている。

 

「誰にとっての、どんな問題なのか」「どういう状態を、解決と考えるか」「解決に向けて、どんなアプローチをしていくか」等について、自殺した生徒の側はどう捉えていたのだろう? 厳しい表現になるが、「生徒本人不在のまま、大人が解釈のレールを敷いてしまったのでは? その解釈のレールは、本人にとって承服し難いものだったのかも? 」と私は疑っている。

承服しがたいもの、それは、「この生徒は性格的に傷つきやすい子。傷つきやすい子でも、感情理解や他者配慮によって行動改善できるように教育してほしい。本人もその方向で努力してほしい。」という解釈のレールでは? と私は捉えている。(池田町学校事故等調査委員会がまとめた報告書(要約)を読んで、「特定の資質を持った子供だった」アピールを私は感じた。)

報告書(要約)には、自殺した生徒の発言が何か所か出てくる。

「宿題未提出の理由を言い訳だとして聞いてくれない」「何を言っても言い訳として決めつける。どうしていいかわからない。」「僕だけ強く怒られる。どうしたらいいかわからない。」

ひょっとしたら、その生徒本人が大人に求めていたものは「宿題関連や生徒会活動等の問題について、本人にとっての周辺情報を大人に分かってもらうこと」「周辺情報を踏まえて、宿題関連や生徒会活動等の問題について具体的解決策を、一緒に考えていくこと」だったのかもしれない。「感情理解や他者への配慮ができる生徒になるように、自分を改造してほしい」よりも。

その生徒の発言に関して、次のような言葉が大人によってやりとりされた。

「副担任が本生徒にかかわらないようにしてほしい」「副担任を替えてほしい」「自殺などにはならないようにしてほしい」「傷つきやすい子だから気を付けて」「ふたりきりにならないよう注意します」

 つまり、大人の側は「傷つきやすい子」「感情理解や他者への配慮による状況改善が、うまくいかないこと」を「問題」としてたてていたのでは? しかも「本人の資質」をスティグマ的に捉えていたのでは? と私には思える。

もしも私がその生徒だったら、

  • 「弱くて無力な資質を持つ、その生徒本人。その本人に配慮して接してあげる大人。生徒本人も、大人のそういう思いをくみ取って努力すべき。」という物語を、自分に無断で周りが勝手に押し付けた。
  • これって、「優しく指導してあげないと自殺などに至ってしまう、特別な配慮がなければ成長できない、弱くて無力な本人。」という解釈の押し付け。状況や理由を知ろうともしないで押し付け。

と思ったかもしれない。はっきりと意識化できるかどうかは別として。

 

その生徒にとって、「本人にとっての問題に対して、具体的な解決や改善が得られない無力感」プラス「本人の資質をスティグマ的に決めつけられる」プラス「スティグマ的まなざしを、多数の人から向けられる」辛さがとてつもなく大きなものだったのでは? と私は考える。

それだけではない。力による支配をする教師側からすれば、「自分たちの行為が正しいと、他の人も追認している」という認識につながりうる。

更に、「閉鎖的な環境」という要素も加わる。人を短期間で従属させる最も手近な方法は、「孤立」させたうえで「暴力(精神的なものも含む)」をふるうことである。そのことは各種カルトやDVや虐待関連本でよくとりあげられている。

再度述べるが、学校側のとった行為を庇おうという意図はない。自殺した生徒の家族や地域住民を責めようという意図もない。自殺した生徒の資質を責めようという意図もない。

 私はこの事件を、「『一部のトンデモ教員達によるとんでもない暴走』プラス『特定の資質を持った生徒』という組み合わせ故に起きた事件」とは見ていない。この事件の背後には、(この事件での教師個々人以外にも)社会一般に存在する「力による支配を安易に容認」空気と閉鎖環境がある。そう見ている。

そして、それらについて捉えなおす必要があるのでは? と思って記事を書いている。

 

次回は、 池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 1 - karotousen58のブログ

で述べた

不登校フリースクールという方法もあるよ。発達障害なら、専門家に相談していろいろと教えてもらうといいよ。」と無責任に(←ここ重要)煽る。(「システムに問題があるか否か、あるとしたら、どう改善していくのか」といったことは無視。「生徒個人の資質」に問題があって学校不適応と決めつけ→「学校でうまくいかないダメな奴でも居場所はあるよ」と、見下した形での助言めいたもの。)

 等について書く予定。

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 1

 

職員会議で担任の叱責問題視せず 福井県池田町の中2男子自殺 - 共同通信 47NEWS

"ほとんどの教員が問題視していなかった。担任は調査に「生徒に期待していて、叱責に応え得るとみていた」「叱責した後、頻繁に家庭訪問して指導の思いを伝えていた」と説明"「教育的指導」という口実を他教員も共有

2017/10/19 15:48

 

 

中2が自殺、「教師の指導や叱責でストレス」 福井:朝日新聞デジタル

"福井大大学院教授は「叱責を繰り返したことは指導の範囲を超えていた」と述べた"教師のパワハラというより「生徒を強くするための刺激や叱咤激励。正当な指導」と確信→教師が反省せず過激化 かも。「確信」の正体は

2017/10/19 16:16

 

 

福井・中2自殺で再発防止策「地域全体が協力し合う」:朝日新聞デジタル

寧ろ、「生徒を強くする為の方法として必要なのが厳しい叱責。ストレスに感じるようじゃ生徒の将来はない。」という思いを、担任や副担任以外の大人も共有していたのでは?と私は疑っている。パワハラの告発が困難に

2017/10/21 00:04

 

 

中学校生徒自死に係る報告書概要について | 福井県池田町

"「小さな町だからこそ」「小さな学校だからこそ」が生かされる子育て・教育環境の再生、向上化に向け"怖い。

2017/10/19 23:55

最近明るみに出た、池田中学自殺事件。「次のような解釈のレールを敷いて幕引き」とするのならば疑問あり。

・この事件は、担任と副担任によるいじめや鬱憤晴らしがエスカレートして起きたもの。教師の個々人的問題。

発達障害や障害への対処法がわかっていなかった。生徒の個人的特性と、障害に関する情報不足、これらが重なって起こった。生徒は運が悪かった。(「本人の個人的特性以外に、周辺事情等も考えていこう」という態度ではない。)

・「不登校フリースクールという方法もあるよ。発達障害なら、専門家に相談していろいろと教えてもらうといいよ。」と無責任に(←ここ重要)煽る。(「システムに問題があるか否か、あるとしたら、どう改善していくのか」といったことは無視。「生徒個人の資質」に問題があって学校不適応と決めつけ→「学校でうまくいかないダメな奴でも居場所はあるよ」と、見下した形での助言めいたもの。)

 

私は次のように考えている。

・担任や副担任の行為は、いじめや鬱憤晴らしではない(それらなら、まだマシだ。それらなら、やっている側が飽きるとか外部から歯止めがかかるとかいった可能性も、ゼロとは言えないから)。

・担任や副担任の行為は、「自分の個人的動機で厳しい叱責をしているわけではない。教育的指導として必要なのである。これが教師としての自分の仕事である。」と確信していたのでは? 確信しきっていた場合、「自己懐疑」がなされなくなる危険性大。

・「学校とは、生徒に社会性を身につけさせる場である。『生徒に期待している故の叱責。指導の思いをくみ取って叱責に応える』これができない生徒は、『社会化ができていない生徒』である。指導や矯正が必要。」という見解が、事件が明るみに出るまでは学校や地域という場で共有されていたのでは? そして、この見解には「力による支配を安易に容認」空気が隠れているのでは?

・この学校や地域に限らず、実は社会一般でこの見解が強く支持されているのでは? 

・『生徒に期待している故の叱責。指導の思いをくみ取って叱責に応える』これができない生徒は、『社会化が出来ていない生徒』である。」という見解そのものや、それに基づくシステムを見直す必要もある。見直しをせずに「生徒個人の資質」を問題や原因と決めつけたうえで、「特別な資質を持つ生徒でも、その見解やシステムを受け入れることができるようにする教育を。」と主張しても、本人の利益には結び付きにくいのでは?

・「小さな町」「小さな学校」で「個人の資質を問題とした」「力による支配を安易に容認」を共有されたら、抜け道が見つからなくなるのでは?

 

池田中学自殺事件から、私は過去のおっかない事件を連想してしまった。

アイヒマンによるユダヤ人虐殺や、2006年11月にあった自殺(「生まれつき体の成長が遅くなる病気」だった中学生が自殺。背が低いことを口実にしたいじめを受けていた。)を。

http://www6.plala.or.jp/fynet/2scrap354kodomo-jisatu2006.htm#354a061118xxx-2「自殺はいじめが要因」校長認める 大阪・富田林

遺族からも指摘されていた「チビと言ってからかう」といういじめについては、「(同級生らが言うのを)見たことがある」と答えたのは全体の4割超の65人、「陰で言った、思った」が3人で、「自分が言った」と答えた生徒はゼロだった。新美校長は「事態の深刻さや罪悪感を感じていることがうかがえるが、いじめたという意識がないとも考えられる」と述べた。

いじめをしたと答えた生徒は、「通せんぼした」=5人、「大声を出し(威圧し)た」=4人、「バレーボールの授業でボールを当てた、きついことを言った」=6人だった。

「からかう」といういじめについては、「見たことがある」と答えた人数と「自分が言った」と答えた人数にギャップがある。 

池田中学自殺事件では、自殺が明るみに出て初めて、「聞いた人が身震いするくらい怒られていた」とか「過呼吸」とかわかった。それまでは、問題視されなかった。「副担任をかえてほしい」「性格や気持ちを考慮して対処してほしい」といったかたちでは表現されたが「指導方針そのものの問い直しを」というかたちでの表現はなされなかった(あるいは、表現が困難な状態にあった)。

人数のギャップや、自殺が明るみに出るまで問題視されないことや、それらがほとんど話題にならなかったことが、私は気になる。これらに隠れたものは何なのか? 

アイヒマンも、「自分の個人的動機から大量のユダヤ人を虐殺したわけではなく、自分の仕事を忠実に果たしてヒトラーに奉仕」という思いだったのだろう。担任や副担任の行為も、いじめや鬱憤晴らしというよりもこの思いに近かったのでは? この思いに隠れたものは何なのか?

隠れたものは、タイトル中の「力による支配を安易に容認」空気や閉鎖環境なのでは? と私は考える。

 

「『力による支配を安易に容認』という見解には、飛躍がある」と思われたかたも多いと思う。これについて次回(それ以降になるかもしれない)書く。

鳥取砂丘で食べる弁当

今週のお題「お弁当」

 

鳥取市出身の友人から聞いた話である。

1970年代、鳥取市平成の大合併より前)の小中学校では、春の遠足目的地は「鳥取砂丘」となる場合がほとんどだったらしい。

参加者は、鳥取砂丘で弁当を食べることになる。鳥取砂丘という場所は風が強い。つまり、風で砂が飛ばされることもある。

注意しないと、弁当の中は砂だらけになってしまう。友人は毎年、これが原因で弁当を食べきれなかったということだ。友人の証言によると、「他にもそういう人がいた」ということだ。真偽のほどは定かでないが、私が過去に鳥取砂丘に行ったときは、確かにいつも風が強かった。

遠足でこういう経験をするハメになるケースって、他にもあるんだろうか?

プロ野球観戦と弁当

今週のお題「お弁当」

 

競技場でスポーツ観戦をする際、他の人は食事をどのようにしているのだろうか?

私がこれを初めて意識したのは、平和台球場福岡ダイエーホークスの試合を知人3人と一緒に観たときである。

平和台球場での野球観戦、福岡ダイエーホークス」という言葉から何をイメージするか? 1990年頃のプロ野球パ・リーグを知っている人なら、おそらくこれだろう。「勝ち試合をなかなか見られない、ホークスファン」というイメージ。

 

私は当時、平和台球場の野球観戦では「球場で売っている弁当」を買うことにしていた。昔のクラウンライターライオンズのようなことにならないように、できるだけ応援しようと思っていたからだ。知人3人もその弁当を買った。

知人のうちの一人が、2回のホークス攻撃中○○選手が打席に立ったとき、弁当を食べ始めた。すると、他の一人が言った。「おっ。『○○じゃ打てねー』と見たようだな」と。

その場にいた私は思った。「他の人は、試合の状況を考えながら弁当を食べるタイミングなんてものを考えているのか。私ならそんなことにまで頭が回らない。腹の減り具合で決まるんじゃないのか。」と。

 

球場で西武戦を観たのは、この試合が初めてだった。「平和台球場福岡ダイエーホークス」時代の西武といえば、当時のプロ野球ファンならおわかりだろう。開幕前に「優勝チーム予想」を聞いたら、ほとんど全員が「西武」と答えていた時代だ。この時代、西武のセカンドのレギュラーは辻発彦選手(現監督)だった。

「辻の守備は上手すぎる」という言葉、当時いろいろな場所で見聞きしていた。試合をナマで観て、この言葉を実感させられた。あまりにも上手すぎて、ファインプレーに見えない。相手チームながらあっぱれ。カネを払ってでも球場で観る価値のある守備だと思った。

当時、西武では、守備固めとしてショートに奈良原浩選手(現中日コーチ)が入る試合も多かった。奈良原選手の守備も凄かった。「辻選手と奈良原選手の二遊間」となったら、更に凄味が増す。

「西武が守りについているときに弁当を食べていたら、確かに、辻、奈良原両選手の守備を見逃すこともありうるな。」と思った。

 

当時の福岡ダイエーホークスは、とにかく弱かった。攻撃では「ノーアウト満塁から、大きな外野フライさえ飛ばない。」、投手は「メッタ打ちをくらって点を取られたのならまだあきらめがつく。意味のなさそうな四死球で塁が埋まって、その後にタイムリーを打たれる。」といった光景がザラだった。

「ワンサイドで負けるのでも、どこか見せ場を作ってくれ。所謂敗戦処理投手が『次回が楽しみ』と思わせる投球をするとか、誰かがプロ入り初安打を打つとかいった。」という声が、いろいろな場で出されていた。

つまり、相手チームの攻撃時間が長いことが多かった。そこで、「当時のダイエーファンは、相手チームの攻撃中に弁当やいろいろなものを食べていたんだろうか?」なんてことを考えてしまった。

当時、近鉄バファローズというチームもあった。野茂英雄投手が活躍していた。野茂投手も、「相手チームながらあっぱれ」とダイエーホークスファンから思われていた。「(ダイエーが)負けるのはわかりきっている。だけど、野茂が投げそうな試合だからチケットが欲しい。」という声を、当時、いろいろな場で聞いた。

「野茂投手が投げている間も、弁当を食べていられなかった客が多かったのかもしれないな」と思う。

 

球場で売っている弁当、当時と今とでは微妙に違う。たぶん、チームによっても違いがあるのだろう。

昔は、「ホームラン弁当」とか「ホークス弁当」とかいったベタな名前だった。他に「●●弁当(注 ●●は選手の名字)」というのが何種類かあった。

今では、「●●選手プロデュース弁当」といった類のものがたくさんでているようだ。ストラップやカード等のおまけがついている弁当もあるらしい。

久しぶりに球場でプロ野球を観たくなった。

児童文学『おさるのキーコ』(講学館 1962)を思い出した

今週のお題「読書の秋」

 

漢字の「四」に隠された意外な秘密 - ねとらぼ

『おさるのキーコ』という児童文学を思い出した。その本に「漢字の4を書く」と言って、横棒を4本並べたシーンがあった。本を読んで45年ほど経ってから、本当にそういう漢字があったと知るのも、面白い。

2017/09/30 01:47

 

 

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漢字の「四」について書かれた記事を読んでいて、『おさるのキーコ』という児童文学を思い出した。小学校卒業以降、この児童文学を意識することはなかったのに。この話が書かれていた本は、私の姉が小学生時代に学校図書室で何度も借りていた本だった。

漢字の「四」以外にどういうことが書かれていたっけ? と思って検索したら、「『おさるのキーコ』からすこしずつつぶやきます」というTwitterが見つかった。

ツイートを読んでいて、「そうそう、このシーン確かにあった。」と思ったこと数回。

 

ネットをやってなかった頃なら、この本を思い出したとしても、「ああ、こんな話があったな。」で終わっていただろう。地元図書館で閲覧できるかどうか調べる程度の事しかできないで。

ところが、最近この話を思い出したときは、状況がまるっきり違っていた。「昔読んだ本に関する記憶をたどる際に、Twitterが使える場合もある」なんで、全然想像がつかなかった。作者名や出版年も初めて知った。

更に、ネットを使って「図書館の蔵書検索」もできる。検索したところ、隣の市の図書館で帯出も貸出もできるとのことだ。

思い出したきっかけも、また、「ネットが関係したこと」だった。漢字のことを知りたくて調べていたわけではない。偶然辿り着いた記事がきっかけとなった。この記事にたどり着かなかったら、この本を思い出すことなんてあっただろうか?

ネットの力を感じた。

 

この話、「おさるのキーコは学校がきらいです」で始まるんだな。ちょっと意外。

「学校や団体行動と相性が悪い」といった類の記述、児童文学ではほとんど見かけなかったような気がする。子供の頃の私が児童文学や読書を好きになれなかった理由は、たぶんその認識にもあると思う。

思い出した。『つる姫じゃ~っ!』(土田よしこ 作 1973~1979年にかけて『週刊マーガレット』で連載)という漫画を画像検索したことがある。そのときに、「どーも私、団体行動が性格的に合わないの」という内容の科白が書かれたコマが見つかった。

「案外、昔は、タテマエしか許さない場とそうでない場の両方が存在していたのかもな。漫画が後者の役割を果たしていたこともあるのかもな。」とそのときに思った。

「児童文学が、タテマエの場の役割を果たしている」という認識、ひょっとしたら、私の思い込みもあるかもしれないな。『おさるのキーコ』が、想像もつかなかった見解とつながってしまった。面白い。

1970年代の目録や出版案内まで読みたくなった

今週のお題「読書の秋」

 

1970年代やそれより前の児童書に対して、思いがどんどん暴走していく。暴走していって、「1970年代の目録や出版案内まで読みたくなってしまったこと」について、まとまりのない文を書いてみる。目録や出版案内が「読書」にカウントできるかどうか、微妙ではあるが。

 

前回書いた「世界名言集(全20巻 ポプラ社)」で終わらないで、図書館で近くに置いてあった他の本まで思い出してしまった。近くには、「私たちはどう生きるか」シリーズ(全20巻 ポプラ社)や「君たちの未来のために」シリーズ(偕成社)もあった。当時の私には、難しそうな本に思えた。

「私たちはどう生きるか」シリーズは1960年頃に初版が出たようだ。ラインナップは、次のようになっていた。

  1. 吉野源三郎集 星空は何を教えたか 石だんの思い出
  2. 寺田寅彦集 団栗 柿の種
  3. 谷川徹三集 人生案内 雨ニモ負ケズ
  4. 天野貞祐集 おむすびの思い出 今の世を生きぬく力
  5. 武者小路実篤集 真実の美しさ 人生の名人
  6. 亀井勝一郎集 友情について 達人のことば
  7. 小泉信三集 平生の心がけ 国土のすがた
  8. 西尾実集 ことばの生活 ことばの芸術
  9. 高村光太郎集 生きたことば 智恵子の半生
  10. 渋沢秀雄集 父 渋沢栄一 心のアンテナ
  11. 笠信太郎集 ものの見方について 日本人としての教養
  12. 串田孫一集 雪の森の一夜 博物誌
  13. 本多顕彰集 わたしの好きな人、トルストイとわたし
  14. 金田一京助集 アイヌの話 啄木の話
  15. 清水幾太郎集 孤独な少年、愛国心について
  16. 池田潔集 スポーツに学ぶ 世界の窓から
  17. 辰野隆集 青年とわれら、たたかう心ゆるす心
  18. 井上靖集 あすなろ物語(抄) ある偽作家の生涯
  19. 伊藤整集 おていさいの真心 言論の自由と平和
  20. 中谷宇吉郎集 黒い月の世界 白い月の世界

「これらの本が図書館の児童書コーナーに置いてあったんだな。スゲー。今の私がこれらの本を手にとったとしても、内容を理解できる自信がないぞ。」「『生き方について、本を読んで考える』という態度も、当時は許されていたのだな。今なら、『本に頼った頭でっかちはダメ。友達をたくさん作って人間関係から学ばないとダメ。』とか言われまくるぞ。」と本気で思う。

小学校卒業直前に、このシリーズの『吉野源三郎集 星空は何を教えたか 石だんの思い出』を借りた。

「小6国語教科書に『石だんの思い出』が出ていた。他にどんなものがあるのか読んでみよう。」と思ったからである。読んでみたが、当時の私には難しすぎた。「君たちの未来のために」シリーズは、真面目な人生訓のような内容だったのでは?と想像している(読んでいない)。

これらのシリーズ、ろくすっぽ読んでいないのに、背文字の人名だけは覚えた。「精神的な成長の遅れた、読解力のない子供」だった私が、何故、これらの本が置いてあるコーナーに視線を向けていたのだろう? 不思議だ。

 

最近、ある知事や政治家による「アウフヘーベン」発言が話題になった。「アウフヘーベン? この言葉の意味をきちんと理解できている自信は、私にはないぞ。高校の倫理社会(注 私が高校生だった頃の科目名)で習った言葉だけど、資料集を読んでもわからなかったぞ。」と私は思った。

ここで、私の頭は変なことをついつい考えてしまう。「ひょっとしたら、昔の児童書なら、哲学とかヘーゲルとか弁証法とかアウフヘーベンとかいったことについてふれた本もあるかもしれないな。」と。

「哲学 ポプラ社」で検索したら、アイドル・ブックス(全60巻)60『哲学ノート』がでてきた。著者は勿論三木清。『人生論ノート』もでてきた。発売年月1967年1月となっていた。他の本のラインナップから考えるに、アイドル・ブックスは中学生も対象となっているようである。

『人生論ノート』?中学生がこれを読むのか?スゲー。

 

 

1970年代、ポプラ社からは「理科の実験観察シリーズ全50巻」「子供向けの古典文学全集」も出版されていた。これらのシリーズの内容も興味深い。検索したら、「ポプラ・ブックス」や「ポプラ社の少年文庫」というシリーズも見つかった。

 

古典文学全集 (3) 竹取・落窪物語

古典文学全集 (3) 竹取・落窪物語

 

 

「1970年代のポプラ社児童書目録なんてあるんだろうか?もしもあるのなら、たくさんの面白そうなシリーズものをチェックしてみたい。本によく挿んである出版案内とかもあったんだろうか?それも読んでみたい。」「ポプラ社以外の出版社についても、昔の目録や出版案内を読んでみたい。」なんてことを考えてしまった。