karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

白あんの回転焼

今週のお題今年買ってよかったもの

 

期間限定商品「回転焼 白あん(4個入)」(ニチレイ)が、父に好評だった。

だが、考えてもいなかった変な問題も同時にできてしまった。

 

私の父は甘党である。特にあんこ系菓子が好きらしい。小豆あんよりも白あんが好みということだ。

9月から、近所のとあるドラッグストアで、期間限定販売の冷凍食品「回転焼 白あん」(ニチレイ)が販売されるようになった。この商品が手に入るのは、私の生活圏ではこの店だけのようだ。姉妹品「回転焼 あずきあん(4個入り)」もあった。この姉妹品も期間限定商品とのことだ。

父は、機械や道具の類に対して苦手意識が強い。電子レンジもオーブントースターに対しても、「どうせ、使えっこない」と決めつけているようである。

これまで私は、冷凍の回転焼の類を買ったことがなかった。加熱処理が必要な「ミニたい焼き」なら買ったことがあるが。店で実物を見て、「白あんの回転焼か。珍しいな。電子レンジを父が使えるのなら、買って帰るのに。」と思った。

しかし、その後すぐ、「ひょっとしたら、自然解凍で食べられる商品かもしれないぞ。大手メーカーのものだし。」と思って商品を手に取った。自然解凍可能だった。これなら父も食べられる。そして、試しにこの商品を買ってみた。

父は気に入ってくれた。「また買ってこい」と言われた。

 

と、ここまではよかった。

父は「説明書きを読まない人」でもある。どうやら、父は「どんな冷凍食品でも、自然解凍すれば食べられる」と決めつけてしまったようである。冷凍食品の中には、「加熱処理が必要なもの」もあるのだが。

白あん回転焼を全部食べ終わった頃、冷凍庫には「加熱処理が必要なミニたい焼き」も入れていた。父が、そのミニたい焼きを自然解凍で食べようとしていた。

父には認知症傾向もある。「冷凍食品には、加熱しないとダメなものがある」と何度説明しても、自然解凍で食べようとする。

これじゃ、「加熱処理が必要な冷凍食品」は、もう買えない。冷凍食品が使えないとなると不便だ。

 

ニチレイのサイトを調べたら、何故か「回転焼」はなかった。そして、「今川焼 あずきあん(5個入)」があった。白あんの今川焼はなかった。例のドラッグストア以外の店では、「今川焼 あずきあん(5個入)」が売られている。

「回転焼 あずきあん」と「今川焼 あずきあん」の違いは何なのだろう? 限定販売期間が終わるまでに、両方買って調べたい。そういうくだらないことをついつい考えてしまう。

食わず嫌いだったゼリー

今週のお題今年買ってよかったもの

  

今週のお題「私がアツくなる瞬間」 - karotousen58のブログでも書いたことがあるが、私は、いろいろな店の「お買い物上手コーナー」の類を使う買い物が好きである。

今年5月終わりに、とあるディスカウントショップで半額シールのついたゼリーを買った。半額シールがついていなければ、ゼリーの類を買うことは、私の場合滅多にない。

「ホワイトピーチ」の類だと思って買ったのだが、うちに帰ってから一口食べて「あれれ?」。

フジッコ フルーツセラピー スイートピンクグァバ(期間限定商品)」という商品だった。

 

「グァバは甘そう」というイメージを私は持っていた。ゼリーにはいろいろと種類がある。ゼリーを買うとしたら、わざわざグァバゼリーを選ぶという行動には出なかった。そのときまではずっと。

だが、私の予想は大外れだった。食べてすぐ「ホワイトピーチよりも、こっちのほうが好みだ。」と思った。

ゼリーはグァバとライチの果汁入り。ピンクグレープフルーツの果肉とナタデココも入っていた。食べてみたら、「果汁入りゼリー」と「ピンクグレープフルーツの果肉とナタデココ」とが面白い組み合わせとなっていた。後味もよかった。気に入った。「夏場になったら、要チェックだな。」と思った。

 

9月頃だったか、販売期間終了直前に、この商品が格安で売られていた。「今シーズン最後だろうな。」と思って何個か買った。今の時期は、この商品は売られていない。この商品は、去年も期間限定商品として売られたようだ。また売ってほしい。

もしも、このゼリーに半額シールが貼られていなかったら、他の誰かに買われていたら、私がその時間帯にその店に行かなかったら、スイートピンクグァバゼリーであることに買う前に気が付いていたら、きっと食わず嫌いのままで終わっていただろう。面白いものだ。

「『病気や障害の受容』(とやら)が出来ていない」と言われるけどさ 2

  

口唇口蓋裂を受け入れられなかった家族 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

家族の感情を、私的行為として切捨てなら疑問。それを引き起こした原因の1つは、「身体的差異への社会的意味づけによって起こされる、否定的感情」では?その場合、政治的公的な問題(障害の社会的制約)としても要検討

2017/11/18 02:15

  

はてなブックマーク - 口唇口蓋裂を受け入れられなかった家族 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

"治すことができます"の内容は、医師と世間一般とで認識が異ならないか?私はてんかん患者。てんかんの場合は異なっている場合多。「治る」の世間一般認識は「薬なしで発作も無」。医師側は「薬で発作抑制」認識

2017/11/18 02:46

 

 Yahoo!ニュースについたブクマ。こちらのほうがコメント多数。元記事が削除されている。

はてなブックマーク - 奇形の顔「受け入れられない」…家族が手術拒否、ミルク飲めず赤ちゃん餓死 (読売新聞(ヨミドクター)) - Yahoo!ニュース

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元記事より引用

考えたくはありませんが、もしや医師の中にも、手術を拒否した家族に共感した人がいた、ということはないでしょうか?

 私は今になって思います。もっと別な方法はなかったのだろうかと。たとえば、障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たちを実際に見てもらえば、赤ちゃんの家族も手術を受けさせる気になったのではないか。

 この部分について、前回、次のように書いた。 

私は、家族の行動を支持できない。しかし、「行動の裏に隠れていた感情」を、「ひどい人が持っていた、私的な感情。この感情に共感する人は残酷。」として切り捨てたくない。「行動の裏に隠れていた感情」のうちの一つが、「『身体的差異に対する社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)』によって起こされる、否定的感情」だったのでは? と私はひそかに疑っている。

更に、「社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)」にまつわる困難の軽減や解消は、本人だけに課されるものなのか? 「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性はないのか? という疑問が私の中にある。

「『病気や障害の受容』(とやら)が出来ていない」と言われるけどさ 1 - karotousen58のブログ

 元記事中の「障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たちを実際に見てもらえば」部分で、どういうモデルが想定されているのか? それが私は気になる。

前回記事で書いた、「社会的な要因」や「いろいろな人による、異なる状況判断」。それらについて考慮しない状態で想定がなされた場合、次のようなことに容易になりうるのでは? と私は思う。

「障害児や、先天性の病気を治して(?)生きている子供やその親」というカテゴリーが作られ、「それにあてはまる個人が、社会の中でどのようにふるまうべきかという」合意が一般社会で形成され、その期待通りにふるまった個人が評価される(そうでなければ排除)。ということに。

こうなった場合、「病気や障害の受容(とやら)」には近づかないのでは? と私は思う。

 

「カテゴリー形成→ふるまうべき像の形成→その通りのふるまいに向けて障害者や家族を叱咤激励、ふるまいがうまくできなければ排除」の図式

私の経験から言うと、福祉系/障害者支援系/障害者自助会や家族会系/教育運動(「全ての子を普通学級に運動」等)系団体のほとんどで、この図式は採用されていた。

このブログの過去記事でも書いたが、「障害者による語り」の中には、「周囲に歓迎され、採用される語り」と「周囲からは無視黙殺や非難がなされてしまう語り」が存在する。

「歓迎され、採用される語り」は、次のようなエピソードで構成されている場合が多い。

  • 「一時的な不運」に見舞われたが、本人が前向きにひたむきな努力を続けている。
  • 「けなげに努力を続ける本人を、仲間達や家族等身近な人があたたかく支えている。
  • 仲間や家族以外の人に助けを求める必要がある場合でも、そのためのスキルを身につけている。つまり、サポートを受けるための「援助要請や説明責任」を、本人が引き受けて適切に実行している。

 更に、「周囲からは無視黙殺や避難がなされてしまう語り」が、政治的に利用されることもよくある(というより、ほとんどだった)。次のようなことはザラだった。

  1. 「うまくいっていない状態」の人を引き合いに出し、それとの対比で「自分達はあの人とは違う、社会できちんとやれている『普通』の人。」というカテゴリーに入れて叱咤激励。
  2. 「社会の特定の状態が困難を生み出している、そういうケースもあるのでは?」「現場や社会環境を考え直すという方法もないか?」「この社会で主流(或は支配的)となっている解釈体系に問題はないのか?」といったような問題提起をした場合、問題提起をした人を「図々しい反逆者」に仕立ててしまう。
  3. 2.で「図々しい反逆者」に仕立てられた人を、引き合いに出して1.の行動に出る。
  4. いろいろな人が発言をしている背後には、「語れない状態にある」人も多く存在。しかし、「語れない状態」を、「『歓迎され、採用される語り』や『語りの政治的な利用』の追認」にすりかえる。
  5. 「障害者自助会や家族会」内部での権力関係を隠す→権力を持った者が、それ以外の人を自分たちの色に染めていく。

 

 「政治的に利用されること」について書いていく。

1.について

引き合いに出して叱咤激励した人達がどういう態度だったか? 「うまくいっていない状態」とされた人の状況について、調べたわけでもなく、詳しい意見を聞こうという姿勢を見せたわけでもない。また、「きちんとやれている『普通』の人」の内実について、吟味したわけでもない。いろいろな意味での「シカト」状態である。

2.と3.について

「これらの『問題提起』を受けて、社会編成や生命観等の捉えなおしに向けていろいろと考える」なんて面倒。面倒なことを我々に押し付ける、厄介な人達。問題の軽減や解消は、本人の「前向きな努力」中心でなされるもの。という見解に問題はないのか? 「社会的な要因」等が変わらなくても、本人が必ず適応(順応?)できるという確信がおありなのだろうか? 疑問を感じる。

 「社会(世間?)に負担をかけようとするなんてダメ。」「思い通りにならないからといって、不平ばかり言うんじゃありません。」「せっかく治療してあげたのに。」「言葉尻をあげつらうようでは、サポートは得られません。他の人がサポートを受けるときにも邪魔になります。」等の言葉で無効化するのが、常套手段となっている。

結局のところ、本人や家族は、「社会が要求するようにふるまい、できるだけ『普通』の人に近づくべく、『同化』に向けて努力する。そうすると、社会の側は、従順な者へのご褒美として『普通』の人として仲間に入れてあげる。」という見解を受け入れるよう方向づけとなる。そして、その行為は「善意でなされた慈悲深いもの」として語られている。

これは、実に巧みな排除である。「門前払いという形で問答無用の排除を行う」というより、「『同化努力にいそしむ』という条件を提示して、それに従わない者を選別して排除。」という方法である。

4.について

「機能的制約」を除去するために「医学的処置」がなされた→治った という解釈では終わらない。私はそう思う。

「機能的制約がなくなった」にも関わらず、社会的障壁(他者による侮蔑的敵対的態度等)によって、「ある種の活動制限」が発生する場合はないのか? これも踏まえる必要があると、私は思う。

「蔑視や侮辱によって叩きのめされ続けた人達が、社会に向けて語り始める。」これを行うためには、相当な勇気や時間が必要となる。いろいろな発言をする人達の背後には、「語れない状態にある人達」も存在する。これは無視できないことである。

「『機能的制約』をなくすために、『医学的処置』を施す→治る」が、どのような文脈で語られるか? 

  • 「医学的処置」によって、「機能的制約」が存在しなくなった。しかし、社会的障壁(他者による、侮蔑的敵対的態度等)は存在しうる。存在する場合、それによる「ある種の活動制限」が発生する場合もありうる。その場合、「障害の社会的制約」「合理的配慮」も要検討。
  • 「医学的処置」によって、「機能的制約」が存在しなくなった。この場合には、社会的障壁は存在しないことになる。この場合、「ある種の活動制限」が発生したとしても、それは個人の問題となる。だから「社会的制約」「合理的配慮」の対象外となる。

後者の文脈で語られ続けることによって、「蔑視や侮辱によって叩きのめられ続けた→語れない状態」となった障害者や家族がいるのでは? そして、「語れない状態」が、「『歓迎され、採用される語り』や『語りの政治的な利用』の追認」にすりかえられるのでは? 私はそう考える。

5.について

自助会や家族会の構成員間には、どうしても、「ある種の力関係」が出来てしまう。先にそれらへ参加した人と、それらへの参加を始めたばかりの人との間には、知識や技術や交渉経験等の差がどうしても存在してしまう。「先に参加した人が、後から参加した人を染めていく」可能性(危険性)もゼロとは言い切れない。

「知識や技術や交渉経験を持っていて、権力を行使しうる状態にある人」と「それが不十分な状態にある人」という関係性が存在しうること これに無自覚な状態で「障害者や家族の語り」が流通するのは危険だと思う。置かれている環境や成育歴等が個々人で異なっている。この事実を重視する必要がある。

 

制度的/技術的な支援からこぼれ落ちた状態にあった。そして、この状態が長い間放置されてきた。その中で本人たちは対処戦略を工夫してきた。

だが、「それらの対処戦略のほとんどが、資源や選択肢の極めて乏しい中で開発してきたもの」である場合もザラ。それだけではない。社会的障壁(他者による、侮蔑的敵対的態度等)については、無効化されることもザラという状態である。「配慮の平等」「合理的配慮」がほとんど得られないことを前提と考えて、開発してきたものである。

この前提のもとに提示された、「障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たち」像は、どういうものになりうるか?

それは、「本人たちが学習させられた、一つの社会的役割」であって、「等身大の像」ではない。

期待される「障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たち」像である。「期待される」像では「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性がある。私はそう考える。

 

「職業等社会との関係、それにまつわる人権問題から社会認識、進路や人生相談」までを医療等の専門家が引き受るとなると、当然無理がある。

しかし、前回記事で書いた

  • 「病気や障害/そうではない状態」の間に引かれている(と思われている)境界。境界の移動を決めるのは「医学的処置」だけではない。「社会的な要因」や「いろいろな人による、異なる状況判断」も多く入り込んでいる。
  • その「多く入り込んだもの」にまつわる困難が存在するのでは? そしてそれらの解消や軽減は本人や家族だけがするものなのか? それらの検討を外して「病気や障害の受容」と主張するのなら、無理がある。 
  • それらの検討がなされない場合、「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性がある。

も意識する必要があると思う。

 

(ひとまず完結)

「『病気や障害の受容』(とやら)が出来ていない」と言われるけどさ 1

 

口唇口蓋裂を受け入れられなかった家族 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

家族の感情を、私的行為として切捨てなら疑問。それを引き起こした原因の1つは、「身体的差異への社会的意味づけによって起こされる、否定的感情」では?その場合、政治的公的な問題(障害の社会的制約)としても要検討

2017/11/18 02:15

  

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"治すことができます"の内容は、医師と世間一般とで認識が異ならないか?私はてんかん患者。てんかんの場合は異なっている場合多。「治る」の世間一般認識は「薬なしで発作も無」。医師側は「薬で発作抑制」認識

2017/11/18 02:46

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断っておくが、この家族が取った行動を私は支持しない。ただ、「治るんだから問題ないだろ」トーンのコメントや 元記事の一部に疑問を感じる。

患者や家族以外の人には、「治る」という言葉は「客観的な表現」と解釈されているのかもしれない。しかし、私にはそうとは思えない。「強い権力を有する側から発された、『治る』という言葉」が、「しばしば政治的意味を持つ(客観的ではなく、個人的主観的世界に基づいたものとして作用する)」ことがある。

「治る」の定義権を握っているのは、患者の側ではない。また、「診断名が付く、告知する」という行為は「医学的事実」を述べているだけではないことも多い。社会的処遇についての所見も同時に述べることになる場合も多いからだ。例えば、「インフルエンザ」という診断名ならば、「『解熱後2日が経過かつ発症後5日が経過』という条件を満たさないと、登校できない」というふうに。

この「社会的処遇」が「医学的処置」だけで決定されるとは、私には思えない。多くの「社会的な要因」や「いろいろな人による、異なる状況判断」が入り込むと思う。「入り込んだもの」の中に、家族を追い詰めたものがないのか? それも考える必要があると思う。

元記事の次の部分に、私は疑問を感じている。

考えたくはありませんが、もしや医師の中にも、手術を拒否した家族に共感した人がいた、ということはないでしょうか?

 私は今になって思います。もっと別な方法はなかったのだろうかと。たとえば、障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たちを実際に見てもらえば、赤ちゃんの家族も手術を受けさせる気になったのではないか。

私は、家族の行動を支持できない。しかし、「行動の裏に隠れていた感情」を、「ひどい人が持っていた、私的な感情。この感情に共感する人は残酷。」として切り捨てたくない。「行動の裏に隠れていた感情」のうちの一つが、「『身体的差異に対する社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)』によって起こされる、否定的感情」だったのでは? と私はひそかに疑っている。

更に、「社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)」にまつわる困難の軽減や解消は、本人だけに課されるものなのか? 「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性はないのか? という疑問が私の中にある。

 

私はてんかん患者。「赤ちゃんの顔を受け入れられない」という記述で、「てんかん発作はグロテスクだから受け入れられない」といろいろな人から言われたことを思い出した。また、「治るんだから問題ないだろ」トーンのコメントで、「薬を飲みさえすれば、てんかんは治る」という言葉に隠れた「医学的処置」「社会的な要因」「いろいろな人による、異なる状況判断」に振り回された過去を思い出した。

これらの経験から、「『身体的差異に対する社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)』によって起こされる、否定的感情」は、この家族にだけ存在するものとは私には思えない。また、「社会を免罪」空気も感じる。

 

「『病気や障害の受容』(とやら)が できていない」という類の発言が、患者や家族に対してなされることがしばしばある。その際、「患者や家族の中にあるかもしれない思いを、想像してみよう」という態度が取られることは稀だと私は思っている。「前向きに受け止めればいいだけじゃありませんか。差別というのも、後ろ向きな感情の問題ですよ。」というふうに処理されることが、しょっちゅうある。

では、「患者や家族の中にあるかもしれない思い」とはどんなものなのか? 私の場合は、次のような思いについて考える必要があった。

  1. 「治る」というのはどういうことなのか? 医師や家族や周囲の人が語る「治る」像が、時や場所や場合が変わると二転三転するぞ。
  2. 「治るんだからいいでしょ」という言葉が、患者を黙らせるために使われるケースもある。
  3. 合理的配慮を受けるには、自分に障害や病気があることを相手に知らせる必要がある。しかし、そのことが差別や偏見につながる場合もある(特に、外部からはわかりにくい障害や病気)。こうした状況では、差別や偏見のリスクと引き換えに合理的配慮を要求するか否かという、苦しい選択を迫られる。
  4. 「相手に知らせる努力や自助努力は不要」と主張しているわけではない。ただ、それを担っているのが「もっぱら個人である」というのはどうなのか?

 元記事に出ていた「食道閉鎖や口唇口蓋裂」について、1.や2.の追い詰め方がなされていないか? それが気になる。

 

私の経験について書く。

 1981年、高2のときに発症。当時、てんかんの人は自動車運転免許取得が禁止されていた。取得が認められていない資格や就くことができない職業も少なからず存在した。当時は、薬剤師などの医療系資格も取得できなかった(制度上は、大学や短大の医療系学部への進学と資格試験合格は可能だった。しかし、資格取得は禁止されていた)。

患者によっては、「家族の持つ偏見」という条件も加わる。私の親もそうだった(今でもそう)。「おまえのはてんかんなんかではなく、心因性てんかん性発作だ。」と今でも言い続けている。高校へ提出する診断書には、「てんかんではなく「けいれん発作」と書くように、親が希望した。主治医も、私には病名をはっきりと告げなかった。

「ほぼ間違いなく、てんかんだろうな。病院で受ける検査用書類に『抗てんかん剤』と書いてあるし。てんかん関連の本で見た、検査や治療方針から考えても。」と私は思っていたが。

そして、月1回地元の総合病院への通院が義務付けられていた。その診療科で診察がなされるのは火曜と木曜だけだった。だから、特定の曜日の授業を欠席することになった。また、水泳やマラソンや登山や一部の校外行事への参加を禁止された。そのことについて、高校に報告する必要が出てきた。

親は私に、「学校には、てんかんなんて言うな。」と命令した。この病名を隠した報告を試みたら、特定曜日の授業担当教諭や体育教師や担任から、嫌疑をかけられた。「校外行事をサボってガリ勉か。」と嫌味を言われたこともあった。

 

1.てんかんの場合、「薬を飲みさえすれば治る」という物言いがなされることが多い。私もそのように主治医から言われた。

だが、当時は、「どういう状態になることを以て『治る』というのか?」これがあいまいにされてしまうことがほとんどだった。「薬を飲みさえすれば治る」と告げられた直後に、「自動車運転免許を取ってはダメだよ」とも告げられた。「本当に治るのなら、ずっと後に自動車運転免許が取れるはずだろ? 」「結局、病名はてんかんなのか? それとも違うものなのか? てんかんだからダメということなんだろ?」と私は思った。

主治医に尋ねたら、「『治る』というのは、『服薬によって、発作が長期間起こらない状態が続くこと』」という答えだった。「長期間」という表現が、曖昧ないいかげんなものに私には思えた。

自動車運転免許との関係について尋ねたら、「自動車運転免許が取れるのは、『薬を飲まなくても発作が起こらない』場合だけ。だからあきらめなさい。」という答えだった。

「それなら、『治らない』と考えたほうが正しいということですか?」と「結局、病名はてんかんなのですか?」と私は尋ねた。主治医は答えた。「世間一般の『治る』は、薬を飲まなくてもよくなることなの。あなたはしつこい。」と。

 高2といえば、多くの人にとっては将来への具体的進路検討や決定と重なる時期である。私は理数系科目が好きだった。担任は私に、医療系学部進学を勧めた。親もそれに賛成した。てんかんだと、医療系資格は取れなくなる。だから私は、医療系進路を拒んだ。

親が偏見を持っているから、高校には病名を明かせない。病名を知らない高校側は、医療系学部進学に対して障壁はないと考えただろう。「てんかん」を認めない親も、「医療系資格が取れない」なんてことは夢にも思っていなかっただろう。

てんかんだと医療系資格が取れない」ことを、確認する必要がある。私はそう考えて、主治医に相談した。しかし、このときも主治医は「治る」解釈を変えてきた。

「薬を飲んで発作が長期間起こらないのなら、入学も資格試験合格もできる。だから、進学に問題はない。資格取得についてはその後の問題。」という答えが返った。それなら、私の病気は「てんかん」ではないということなのか? てんかんではないのなら、自動車運転免許関連話のときと説明が矛盾するぞ。私は思った。しかし、そのときも病名はうやむやにされた。

 

2.「『治るんだからいいでしょ』という言葉が、患者を黙らせるために使われるケース」について

「薬を飲みさえすれば、発作は起こらなくなる。そして普通に暮らせる。つまり、治るんだからいいでしょ。」と世間一般では思われているようだ。
本当のことを言うと、この言葉は正しいとは言い切れない。
しかし、「正しいとは言い切れない」という発言を、患者本人や患者の家族がすることは、タブーとされている。

「治るんだからいいでしょ」という言葉によって、次の3つの事柄は「存在しない」ことにされてしまう。

  • 「薬を飲んでいても、発作が出てしまう」難治性のてんかん患者もいること
  • 障害者手帳障害年金などを検討しようにも、「薬飲みさえすれば、普通に暮らせるんでしょ」で片づけられて利用できないケースが多いこと
  • 服薬中の状態にある場合でも、移動手段等について便宜がはかられることがほとんどないこと

「薬を飲んでいても、発作が出てしまう」難治性の患者は、本当に隠された存在になっている。
30年以上前からの患者である私でも、ネットが普及して初めて、難治性の患者によるコメントを知ったぐらいだから。彼(女)らのほとんどが、「ネットが普及して初めて、意見を発表できるようになった。『きちんと服薬しているが、時々発作がある』発言は、リアルでは許してもらえない。」と書いていた。

(念のための注 ネット上の記述を読む限りでは、その難治性患者らが不摂生な生活をしていたとは思えない。むしろ、きちんとした生活習慣を心がけていたと思われる人がほとんどだった。)
難治性の患者が、タブーを犯して発言→他の患者や患者の家族や、医療関係者から叩かれる→ブログやサイトを閉鎖
という実例を、私は何度か見た。

その後、「全身けいれんではないタイプの発作」や「薬を飲んでいても、発作が出てしまう」患者について、思いもよらないことがきっかけで可視化されてしまった。2012年4月、京都祇園でのワゴン車暴走事故である。逆に言うと、この事故までずっと、「隠された存在だった」ということになる。

「他の人に、余分なことをベラベラしゃべるんじゃありません。『発作は派手だけど服薬さえすればいいのです』これ以外のことは、知られなくていいのです。」と彼(女)らは言われまくっていたらしい(ネット上の記述によると)。

 

3.配慮や「相手に知らせる努力」について

 日本の田舎では、「成人は車を運転することが前提となっている」と言わんばかりの生活設計がなされている。日本の田舎に住んでいる成人が自動車運転免許を持たない場合、「持たない理由を説明する責任」を課せられることになる。

田舎では、「自動車運転免許を持たない人が職を得る」ことは困難である。職を得たとしても、業務の上でいろいろと支障をきたすことがある。「取らなきゃ不便だよ。あなたのために忠告しているんだよ。」という言葉、いろいろな人から発せられる。取らない理由もしょっちゅう訊かれる。

他の人が運転する車に同乗する際に次の言葉を浴びたことのある人を、私は複数知っている。「加害者になる危険性を持たないポジションにいられる、優雅なご身分だな。そこまでして善人ヅラしたいのか。」

かと言って、病名をカミングアウトするのも危険である。解雇される危険性が高い。病名を隠したうえで取らない理由を説明する、ややこしいことになる。

もう一つ。運転免許証は、本人確認書類としてよく利用される。田舎では、本人確認書類として運転免許証以外のものを提示すると、嫌な顔をされる。
「運転免許証が取れないような、変な理由を持った奴に違いない」という認識がなされるらしい。

 

長々と書いたが、今回の記事で主張したかったのは次のことである。

  • 「病気や障害/そうではない状態」の間に引かれている(と思われている)境界。境界の移動を決めるのは「医学的処置」だけではない。「社会的な要因」や「いろいろな人による、異なる状況判断」も多く入り込んでいる。
  • その「多く入り込んだもの」にまつわる困難が存在するのでは? そしてそれらの解消や軽減は本人や家族だけがするものなのか? それらの検討を外して「病気や障害の受容」と主張するのなら、無理がある。 
  • それらの検討がなされない場合、「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性がある。

次回は、「拍車がかかる危険性」などについて詳しく書く予定。

「得意と言えるようにしたいが、うまくいかない」料理

今週のお題「得意料理」

 

正しく言うと、「得意と言えるようにしたいが、うまくいかない」料理である。

それは「ナムル」である。

ナムルについて私は、「野菜をたくさん食べることができて体によさそう」というイメージを持っている。

 

私は所謂「メシマズ」家庭で育った。親は嫌いな食べ物が多い。特に野菜と乳製品を嫌っている。硬い食べ物やにおいの強い食べ物も嫌う。また、1970~1980年代にかけて、マスコミで「塩分の取りすぎはいけませんよ」キャンペーンが盛んに行われていた。親はこのキャンペーンを拡大解釈している。香辛料も嫌う。

「野菜も食べないといけないから、浅漬けも出しとくよ」などと言っても、「塩分は体に悪い」と言い訳をして食べたがらない。

親が高齢になって、「介護食」なるものも意識する必要がでてきた。こういうときに、「嫌いな食べ物の多い親」だといろいろと面倒なことになる。

うちの場合、特に「カルシウム」を取らせることに難儀している。乳製品なしでカルシウムを取るとなると、高野豆腐や野菜等から取ることを考えなければならない。また、野菜は生で食べるよりも加熱して食べるほうがたくさん食べられる。

そこで、「うちの親でも食べやすいナムル」って作れないだろうか? と思うようになった。

 

私がナムルなる料理を初めて知ったのは、1992年。バルセロナオリンピック直前に買った料理本で知った。

当時、私は一人暮らしをしていた。どんな味がするのか知りたくて、試しに作ってみた。正直言ってマズかった。私の料理が下手だったからであるが。その後、しばらくの間ナムルを作ることはなかった。

10年近く前、スーパーマーケットのお買い物上手コーナーで「ナムルの素」を見た。

「これで作ったら、おいしいかもしれない。」と思ったから、買って使ってみた。

「おいしい。初めて作ったときにマズかったのは、私が料理下手だからだ。」とわかった。

 

カルシウムの多い野菜といえば、小松菜、チンゲンサイ、オクラ、ホウレンソウなどがある。これらのナムルについても、検索すればレシピが見つかる。

検索すると「ニンニク抜きナムル」のレシピも見つかる。体質的にニンニクと相性の悪い(例 胃があまり丈夫でない)人もナムルを楽しめそうだ。

ただし、「料理の上手な人なら」という条件がつくことになる。私は料理が下手。市販の「ナムルの素」を使わないとうまく作れない。自力でおいしいナムルを作れるようになりたい。

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

 

ブログ名の下にブログの説明がある。

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

である。この矢印部分でいろいろなことが私の中で起こる。

そのプロセスが興味深いと思えたときや、そのプロセスについて「現段階ではうまくまとまらないが、なんとかしてまとめたい」と思ったときに、私はブログを書きたくなる。

この矢印部分でしょっちゅう頭に浮かぶのは、「『普通』と『排除』の関係性」や「『普通』の持つ権力性」である。

「普通」って何なのさ? とか 「普通」と「排除」の間にあるものが気になるぞ とかいったことが発端となるケースが多い。

 

「そんなもの(こと)が好きなんて変。普通はそんなもの(こと)好きになるはずがない。普通の人が好きになるもの(こと)を好きにならなきゃいけません。」

私が子供の頃、当時身近にいた(多数の)大人からしょっちゅう言われていた言葉である。子供の頃の私は、この言葉がとても怖かった。そして、この言葉に囚われていた。高校卒業までずっと、「私が考えたり感じたりすることに、ロクなものなんかない。考えたり感じたりしたことが他の人にバレたら、こっぴどく否定されるに決まっている。」と思っていた。

大学入学後、おそるおそる自分の考えや感情を他の人の前で出してみた。そうでもしないと、間が持たなかったからだ。実際にやってみて、「私の考えたり感じたりしたこと全部が全部、否定されるとは限らない」とわかった。

逆に、面白がってくれる人が出てくることもあった。

こういう経験を何度か積んだからだろうか、今では、「変」という言葉について考えることが、子供の頃とは違う意味を持つようになった。

 

「変だ」と思ったとき、それで終わらない。

「何故、どこが、どのように変?」「『変』と思ったものやことの内実は、本当に変なのか?」「『変』と思った私の感覚や常識は、『変』ではないと言い切れるのか?」

など、いろいろな推論を暴走させていくこと。私にとっては、それが面白い。

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 4

   

職員会議で担任の叱責問題視せず 福井県池田町の中2男子自殺 - 共同通信 47NEWS

"ほとんどの教員が問題視していなかった。担任は調査に「生徒に期待していて、叱責に応え得るとみていた」「叱責した後、頻繁に家庭訪問して指導の思いを伝えていた」と説明"「教育的指導」という口実を他教員も共有

2017/10/19 15:48

  

中2が自殺、「教師の指導や叱責でストレス」 福井:朝日新聞デジタル

"福井大大学院教授は「叱責を繰り返したことは指導の範囲を超えていた」と述べた"教師のパワハラというより「生徒を強くするための刺激や叱咤激励。正当な指導」と確信→教師が反省せず過激化 かも。「確信」の正体は

2017/10/19 16:16

  

福井・中2自殺で再発防止策「地域全体が協力し合う」:朝日新聞デジタル

寧ろ、「生徒を強くする為の方法として必要なのが厳しい叱責。ストレスに感じるようじゃ生徒の将来はない。」という思いを、担任や副担任以外の大人も共有していたのでは?と私は疑っている。パワハラの告発が困難に

2017/10/21 00:04

  

中学校生徒自死に係る報告書概要について | 福井県池田町

"「小さな町だからこそ」「小さな学校だからこそ」が生かされる子育て・教育環境の再生、向上化に向け"怖い。

2017/10/19 23:55

 今回は、「感情理解や他者への配慮も、確かに大切なこと。しかし、『それだけでは解決困難』という場合もよくある。」ということについて書く。過去記事 いじめと裏社会性 3 - karotousen58のブログでも少しふれている。

 

 

トラブルにあったとき、どう対処するか?

「トラブルの全体像を把握し、自分にとっての安全策を練る。自分に落ち度がなかったか否かを考えるのはその後。」という対処法が考えられる。

しかし、自分自身を必要以上に厳しく見つめることに慣らされた人の場合は、この対処法を取るのが困難となってしまう。

トラブルの全体像を探る余裕も、善後策を練る余裕もない。ましてや、自分自身の身を守る策を練る(よい意味での)ずるさもない。自分自身の落度(と本人がみなしたもの)に脅えきって、頭の中が真っ白になってしまうだけである。

いじめと裏社会性 3 - karotousen58のブログ

  

トラブルにあったときの対処スキルを磨くには、何が必要か?

それが、いじめと裏社会性 1 - karotousen58のブログで述べた「裏社会性」である。

いじめと裏社会性 1 - karotousen58のブログであげたいじめ・不登校総合対策センター/とりネット/鳥取県公式サイトでは、対人交流について美しく語られている。 そのサイトに限らず、対人交流では、「心が開かれた」とか「他の人と仲良くなれた」とかいう表現がしばしばよいものとして語られる。

しかし、私は考える。対人交流はそのような美しいものだけで成り立っているものではないと。

・自分を見せなくすること ・他人と距離(物理的・心理的両方の意味)を置くこと ・他人を疑うこと ・他人を選り好みすること ・他人に怒りを感じること ・他人を嫌うこと ・ウラとオモテを使い分けて人と接すること ・上手に嘘をつくこと などの、ブラックな面も対人交流には最低限必要であると。

このブラックな面は、「窮地に追い込まれたときに、自分の身を守る」上で必要だと、私は考える。 これらの事柄を私は、「裏社会性」とよんでいる。

裏社会性は、

・必要最小限なら、認められる。心の中で思うだけなら悪とは言えない。

・心の中で思うにとどまらないで、自分も他の人も傷つける行動に出るのならまずい。

という条件のもとで、対人交流に必要になると思う。

いじめと裏社会性 3 - karotousen58のブログ

つまり、「感情理解や他者への配慮について考えるだけでは、窮地に追い込まれたときの対処スキルを身につけることは困難。本人は、『対人交流のブラックな面』についていろいろと向き合っていく必要に迫られている。」ということである。

  •  逃げることが極めて困難、或は、一応可能だが逃げた場合には多大な不利益を被る危険性が大きい場で
  • 地位や権力が非対称な関係の、圧倒的下位にあって
  • 徹底的な自己否定を反復継続することを強要される

 という状態に、この生徒はおかれていたと考えられる。この環境は、無実でも自白してしまう、冤罪が生まれるメカニズム」の存在する環境と似ている。「当該生徒は傷つきやすい子」という認識には、「誘導によってなされた虚偽自白」的な面も隠れているのでは? 私はそう思っている。

「無実でも自白してしまう、冤罪が生まれるメカニズム」について書かれた本に、『心はなぜ不自由なのか』(浜田寿美男 著 PHP新書)がある。私はこの本について、次のように解釈している。

取り調べの場では、事件とは直接関係のないこと(例えば、過去の出来事や身近な人との関係のことなど)まで話題にされ、責任を追及されたり罪悪感を刺激されたりする。そしてこれが何度も繰り返される。また、時間的な展望が持てない」という要因も大きい。「いついつまでがんばったら、解決する」とわかっている場合とそうでない場合では、影響力が大きく異なる。

そして、自白に落ちてしまってからは、「虚偽自白に基づいた犯行ストーリーをどんどん語っていく」という事態になってしまう。「実際には犯行をやっていないにもかかわらず、自発的に(←ここ重要)犯行ストーリーに自分自身を合わせてしまうようになってしまう」事態が生まれる。「話せば話すほど、自分がどんどん犯人らしくなっていくように思えた。」という言葉は、虚偽自白をした人からよく語られる。

→冤罪や虚偽自白とまではいかなくても、地位や権力が圧倒的に上位にある人から執拗に、「人格否定や、言動についてを否定される」ことがなされた場合も似たようなことが起こりうる。「そうさ、自分は傷つきやすい無力な子さ。」と自己規定をしてしまう。そして、その後何か諍いが起こった場合にまで、「自分が傷つきやすく無力だ」という自己規定を強化してしまう。この生徒の場合、「地位や権力が圧倒的に上位にある人」として「親や地域の大人」が、「性格的に傷つきやすい子」というまなざしをむけている状態にもあったのでは? そして、他の子供にもそれが伝わっていたのでは?

それだけではない。人間は、他者からの語りかけや交わりからは自由にはなれない。

冤罪事件で無実の人が追及を受けるときも、被疑者は取調官を敵だと思って突き放してみることができれば自白に落とされないのだがそれができない。相手が悪意で自分を陥れようとしているのではないとして、まじめに向き合えば向き合うほど、相手の語りかけからは自由になれない。これは当該生徒にも当てはまると思う。

 

この状態で、「傷つきやすい子に対する配慮」や「あたたかな人間関係」型の問題解決を試みても、無理がある。否、対処スキル取得の妨げになる危険性が大だと私は考える。「あなたが心を開かないからいけないのよ」などと、的外れな叱咤激励を呼ぶ危険性があると、私は考える。

「傷つきやすい子に対する配慮」や「あたたかな人間関係」型のみの問題解決には、他にも危険な面が2点あると思う。

・「学校でおりなされる多様な社会関係、学校の制度的特徴等の周辺的なことも考えていく」という方向をふさいで、「傷つきやすい子」への対処と称して「問題を、生徒個人の内面に閉じ込めること」に繋がる危険性あり。

・「傷つきやすい子」という解釈は、実は、「傷つきやすい無力な子」というスティグマ的認識なのでは?その認識について、親や身近な大人はどのように向き合ってきたのか?(「何故、どんな点で、傷つきやすいと思ったのか?」「傷つきやすいと思った中身は、本当にそうなのだろうか?」「傷つきやすいと思った、自分の思考や感覚や常識は、本当に正当なものなのか?」等) 向き合うことを避ける口実にもつながる危険性あり。

 

この事件で気になることがもう1点ある。それは「生徒会副会長」というポストである。

生徒会役員や正副室長というポスト、実は「いじめ」が隠れているケースがある。それだけではない。「いじめだと訴えても、大人が、『いじめではない。優秀な子が選ばれるんでしょ。』と言って取り合わない」ケースもザラ。

「特定生徒を生徒会役員や正副室長に押し付け、集団内で他のメンバーが学級崩壊状態のような振る舞いを続ける」といういじめである。

私は過去に、このタイプのいじめを受け続けた。親に言っても、「いじめではない。役員をサボりたいと思ってるんでしょ。」と取り合ってくれなかった。「このタイプのいじめを受けたのは、私だけらしい」と、30代半ばまで思っていた。不登校の子を持つ親による手記に出ていて、「私だけではなかったんだ」と思ったのが最初だった。ネットを使うようになって初めて、「実はよくあるいじめで、しかも大人にとりあってもらえないことが多い。」とわかった。

この事件に関して、「生徒会副会長をやるような優秀な子」とか「生徒会副会長の仕事をこなせないなんて、副会長になれるほどお勉強はできるんだけど、それ以外の大切なことを学び損なった子」とかいうコメントもみられた。

「やっぱり、役員押し付けいじめが可視化されないこともザラにありそうだな。」と私は思った。

「可視化されないこと」の裏には、「感情理解、他者への配慮」メソッド偏重が隠れているのでは?と思えて仕方がない。

 

いじめ関連報道がマスコミでなされるとき、しばしば、「傍観者も悪い」コメントが出される。今回のことでは、「傍観者」についてはほとんど語られない。

では、今回の事では、「加害者=担任と副担任、被害者=当該生徒とその家族」と言い切れるのか? 私は言いきれないと思っている。

担任と副担任の行為に歯止めをかけられなかった「空気」、これについて考えることも重要。そう考えたから、このシリーズ記事を書いた。

当該生徒を、「自分たちとは異なるマイノリティ」として「傷つきやすい子認識」を持つ。学校で織りなされる多様な社会関係や学校の制度的特徴等の周辺的なことについてはスルーした上で。「自分たちは、担任や副担任とそこそこうまくやっているマジョリティ」として連帯感を持つ。

当然、「社会関係や制度的特徴など、システム関連について批判的な検討を試みる」とか「自らの『傷つきやすい子』観を振り返って捉えなおしてみる」といった契機発生なんて、期待できない。

当該生徒本人にしてみれば、「宿題や生徒会活動の問題に対して、具体的な解決や改善が得られない無力感」プラス「本人の資質をスティグマ的に決めつけられる」プラス「スティグマ的まなざしを、多数の人から向けられる」辛さがとてつもなく大きなものになる。

実は、この「連帯感」、今回のこととは直接接点のない「一般社会」にも広く支持されている。私はそう考える。再発防止を呼び掛ける場合、この「周りの人たちの(スティグマ的)まなざし」がなかったかどうかも、考える必要があると思う。

 

(このシリーズひとまず完結)