karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

家族に盗み食いされないチョコミントアイス

今週のお題「チョコミント

 

私の家では、「アイスクリームを冷凍室に長時間入れておく」ことは危険な行為である。家族に盗み食いされる危険性が極めて大であるから。しかし、チョコミントだけは盗み食いを免れるアイスである。私以外の家族は、チョコミントを嫌うから。

 

私がチョコミントアイスを食べるようになったのは、15年ほど前からだったと思う。それまでは、チョコミント系スイーツを特別に意識していなかった。

チョコミント系スイーツを初めて食べたきっかけは、ある日、何も考えずに母がチョコミントアイスを大量に買ってきたことだった。完全閉店直前の店で、とんでもない値段になっていたから買ったということだった。

私を除いた家族全員が、一口食べて「これいらない。おまえにやる。」と私に言った。一方、私は「面白い味だな。氷菓でもなく、普通の乳製品系とも違う。別ジャンルとして気に入った。たくさんもらえてラッキー。」と思った。それ以来、新製品を見るとチェックするようになった。

チョコミント以外のアイスなら、買ってきたらすぐに食べなければヤバい。店でおいしそうなアイスを見かけたとしても、そのとき空腹でなかったら買わない。その点、チョコミントアイスだと安心して買える。

「チョコミントが好きだが、居住地域ではそれらは人気がない」という人の中に、同じようなことを考えている人や経験した人もいるのだろうか?

 

どうやら、私の居住地域ではチョコミントは人気がないようだ。

今シーズンはまだ、チョコミントフレーバーのお菓子を見かけない。

チョコミント系アイスは、2種類だけ見かける。スーパーカップのチョコミントと、とあるドラッグストアのみで売っているものとである。スーパーカップのチョコミントは、置いているスーパーとそうでないスーパーとが半々といった感じである。コンビニではほとんど見ない。

チョコミント系ドリンクを、コンビニで見かけることが稀にある。しかし、その場合でも、他系列のコンビニに行くとその製品が置かれていない。

今週のお題紹介ページでは、「今、チョコミントが旬な季節。店頭にはチョコミントフレーバーのお菓子がずらりと並びます。」と出ている。他の地域ではそうなのか? うらやましい。

『おしゃべり階段』を思い出した

修学旅行でのヘアアイロンの持込み

はてなブックマーク - 修学旅行でのヘアアイロンの持込み

記事とブックマークコメントを読んで思った。

今は、「『コンプレックスとどう向き合うか』というテーマでの会話がやりにくい時代なのかもな」「容姿にまつわるコンプレックスを煽る空気、私が子供だった頃よりもずっと強いんだろうな」と。

そして、『おしゃべり階段』(くらもちふさこ 作)という漫画を思い出した。最近、NHKの朝ドラ『半分、青い』関連でも話題になった漫画である。初出は、別冊マーガレット1978年9月号~1979年3月号。私の姉が、当時、別冊マーガレットを買っていた。

この漫画は、中学から高校、予備校を経て大学受験までの、主人公の成長を描いた作品である。主人公は、「いろいろなコンプレックスを抱えた女子中学生」としてスタート。主人公がいろいろな出来事を経験したりいろいろな人と交わって、コンプレックスと向き合いながら成長していく話である。

 

初出のとき、私は中2だった。リアルタイムで読んでいた。精神的な成長の遅れていた私は当時、この漫画での「コンプレックス」というテーマをほとんど意識していなかった。悪役的な人のうちの一人が、「国分寺さん」という人だった。

この「国分寺さん」、作品中の存在感は大きい。しかし、顔や姿は全然出てこない。活字だけの登場である。

「この国分寺って人、いったいどんな奴? どうして活字だけの登場なんだ?」ということが、当時の私の関心ごとだった。私の感性は、やはりズレている。

 

1990年の盆、私は帰省した。姉も帰っていて、古本屋で『おしゃべり階段』の単行本を買った。当時私は25歳。久しぶりにこの漫画を再読した。そして、「コンプレックスに対する描写、スゲー。やはり、別冊マーガレットの看板作家となるだけの実力派だ。」と思った。

この漫画に次のようなシーンがある。単行本が手元にないから、うろ覚えの記述になるが。

主人公は、「コンプレックスのかたまり」という感じの女子中学生でスタート。主人公にときどきちょっかいをかける男子生徒がいる。主人公はその男子生徒に対して、「いつも自信満々にふるまっている人」というイメージを持っていた。

しかし、あることがきっかけで、「その男子生徒もコンプレックスを抱えている」ことを知ってしまう。また、「それでも、その男子生徒は努力を続けている」ということも意識する。

そして、主人公は決心する。「私も、自信を持てるものを探していこう。私の巻き毛はきれいだ。」と。

(主人公の抱えていたコンプレックスのうちの一つが、天然パーマであることだった。)

「男子生徒のこと」→「決心」となる経過などについては、ネタバレになるから書けない。私が、「コンプレックスに対する描写、スゲー。やはり、別冊マーガレットの看板作家となるだけの実力派だ。」と最初に思ったのは、この場面だった。

変な説教に走らない、安易な解決策を持ち出さない。そういう描写だった。そういう描写で、結構大切なことを伝えていると思った。この場面に限らずいろいろな場面で。

 

リンク先記事を読んで思い出したのは、脇役のことだった。とんがらし、光咲子、立川先生、いい人だなあ。脇役のほうが頭に浮かんでしまう人って、他にもいるのだろうか? 単に私の感性がズレているだけかもな。

 

初出のときは、コンプレックスというテーマをほとんど意識しない状態で読んでいた。当時の私は、精神的な成長が遅れていた。しかし、「コンプレックスを感じることじたいは悪いことではない。コンプレックスとどう向き合うか、これも大切。」というメッセージを、当時の私も心のどこかで、この漫画から感じていたのかもしれない。

その当時、リアルの世界では、次のような言葉を私は受けていた。

「悩むなんてこと無駄だからやめなさい。いつもにこにこと楽しそうに暮らせないようではダメ。」

「そんなくだらないことで悩むなんて、バカとしか言いようがない。考えるならまともなことを考えろ。」

「スポーツに没頭しろ。そうすれば、くだらない悩みを持たなくてすむ。」

これらの言葉とは違ったメッセージ、「貴重だ」と思った人は他にもいるかもしれない。

修学旅行もどき

今週のお題「修学旅行の思い出」

 

修学旅行か。私が「1970年代に鳥取県の公立小学校に入学」したことを意識させるお題だな、これは。

私は小学校入学から高校卒業まで、公立校にいた。私のいた学年では、小中高いずれも、「修学旅行」なる行事は存在しなかった。

 

小学校と中学校では、修学旅行ではなく「宿泊研修」なるものだった。「青年の家」の類に泊まった。

私が高校に入学したのは1980年。当時、その地域の高校には修学旅行なる行事はなかった。高2のとき、授業中にある教師が、「その昔、新聞の三面記事にのるようなことをやらかした生徒がいて、それ以来修学旅行をやらなくなった。」と語った。その証言については、真偽のほどは定かでない。

私は1983年に大学に入学した。大学で、富山県の高校でも修学旅行がないと知った。(当時の話である。今はどうなのかわからない。)「えっ、富山だけだと思っていた。」と、富山県出身者が驚いていた。

「北陸東海地区の大学なら、富山出身だとわかったら、『修学旅行、どこ行った?』とからかわれる。」と、その人が話していた。その人の証言によると、富山県の場合は、「そんなことをするよりも勉強しろ」という理由で修学旅行が行われないということだった。

 

1970年代後半、鳥取県内の公立中小学校では、何故か「修学旅行のありかたを再検討」ということが流行していたらしい。その再検討とやらの結果、「宿泊研修」に変わった学校が何校かあるらしい。

小学生のときは、私がいた学年から「宿泊研修」に変わった。その前の年までは、京都へ修学旅行に行っていた。

中学生のときは、私より1学年上から「宿泊研修」に変わった。その前までは、四国へ修学旅行に行っていた。

私には2つ上の姉がいる。姉はぎりぎりで両方の修学旅行に参加したことになる。「京都や四国へ行けないなんて、かわいそうだな。」と、当時姉からよく言われた。

しかし、私の思いは違っていた。宿泊研修のほうが気楽だった。やるべきことがはっきりしていて、他の生徒とべたべたくっつく必要が、修学旅行よりもなさそうだったからだ。

  

中学の宿泊研修では、次のようなことが予定されていた。

カッターボート漕ぎ(男子)、テーブルマナー(女子)、「会議の持ち方」というタイトルの講習受講、レコード鑑賞、施設内にある本を読む、天体観測、各クラス単位での出しものがあるレクリエーション(学校での集団行事につきもののやつ)等。

この研修は、1979年6月下旬に、西日本某所で行われた。この時期の西日本といえば、梅雨の真っ只中。しかも、強い雨の降る時期だ。だから、カッターボート漕ぎ(男子)と天体観測は、なされなかった。

この宿泊研修については、どういうわけか、変なことばかりが印象に残っている。

目的地には貸切バスで行った。バスの中では某男子生徒がマイクを独占し、石野真子(当時のアイドル歌手)の歌を歌いまくっていた。狼なんか怖くない、私の首領<ドン>、失恋記念日、日曜日はストレンジャー、プリティー・プリティー、全部歌っていた。

レコード鑑賞では、なぜかアルゼンチンタンゴを聴くことになった。ラ・クンパルシータやエル・チョクロがあったのを覚えている。隣のクラスの担任が音楽教師だったのだが、その教師が、「好みの曲(が入ったレコード)がたくさんある」と異様にはしゃいでいた。

各クラス単位の出し物、クラスというクラスで、『魅せられて』(歌 ジュディ・オング)を歌う展開になっていた。勿論、生徒本人が作った衣装をクラス代表に着せて。

他のクラスの某男子生徒が「当時のプロ野球選手の真似をする」という、出しものもあった。王貞治小林繁掛布雅之竹之内雅史江川卓山本浩二衣笠祥雄星野仙一平松政次大杉勝男といった選手の真似をしていた。江川卓が出てきて岡田彰布が出てこない。このことと『魅せられて』(歌 ジュディ・オング)とで、「1979年の話なのだな」とわかる。

 

「修学旅行もどき」というタイトルだが、私の本心は「この宿泊研修、よかった」である。

2018年4月放送発達障害啓発NHK番組、視聴者の感想に興味あり 3

今回は、「カテゴリー支配された状態での、(特に成人)当事者の意見」周辺にあるものについて書く。

カテゴリー支配については、その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 2 - karotousen58のブログを参照。

 

番組に対する視聴者コメントは、他に、 「中山氏は、当事者の意見を聞こうとしない」「中山氏も、この番組出場で専門家と一緒に勉強して、見解を変えてほしい」というものもあった。

2018年4月放送発達障害啓発NHK番組、視聴者の感想に興味あり 2 - karotousen58のブログ

 個人の言葉は、その人の生きている複数の文脈において、複数の意味を持つ。

「当事者の意見」も、実際には、多様な力関係の中で話されたり書き記されたりしたものである。しかも、本人自身もそのことには無自覚になっていることも少なくない。特に発達障害関連現場では、発達障害者本人も家族も「専門家主導の性格が強くなっている」文脈に入ることが考えられる。

「当事者の意見」に関しては、発する側も受け取る側も、そのことを意識する必要があると思う。

 

ここでいきなり、発達障害とは違う話だがあまりにもひどすぎるたとえ話をあげてみる。

  1. 重度身体障害者を街中で見かけることが稀なのは、「公共輸送に頼ることを嫌い、街にも出たがらない」という独特の文化を彼(女)らが持っているからだ。我々の常識からは想像のつかない文化だが、そういう文化もあるということを知る必要がある。 という発想からの「障害者理解」と称したトンデモ。
  2. 黒人差別の横行する場で、差別に対する批判をスルー。その上で黒人に対して、「君たちが不利な立場に置かれないように、黒人に見えないようなメイクのやりかたを教えてあげる。また、君たちのために、肌の色を変える医療技術について研究を進めている。」などと言いくるめるトンデモ。

2つとも、滅茶苦茶な見解である。しかし、発達障害関連においては、これらの見解の「発達障害バージョン」コメントも世間でしょっちゅう語られている。そして、これらのコメントは、「多様な力関係」の中で、重要な位置を占めている。私はそう考える。

 

成人発達障害者の多くは、発達障害に関する知識や情報を知らないまま成長していった。当然、他の発達障害者が「どういうふうに生きている(きた)かということについては、わからない」ままである。「生きていくうえでの指針」につながるものはなかなか見つからない。

こうした「情報不足と孤立」は、自己否定感を抱いた状態での無力化へとしばしばつながっていく。しかしその後、「発達障害児に関する情報」にアクセスしやすくなった。発達障害という説明モデルの獲得は、「生きづらさの原因は何なのか。今後どんな経過をたどるのか。」といった多くの疑問に対して、生活状況を切り開くきっかけとなるかもしれない。彼(女)らはそう考えたのかもしれない。

発達障害児に関する情報」では、次のことが力説される。成人発達障害者も、それを内面化しているケースが多々ある。

「早期発見早期介入のなされた発達障害者は予後がよく、将来社会に適応できる。それに対して、未診断や未介入の発達障害者の予後は悪い。今、成人発達障害者が苦戦しているのはそのためである。」

そして、「早期介入(特に療育)が学校教育以上のものを与えてくれる」という期待を、周囲が抱くようになった。

更に、「成人発達障害者が、反面教師として語られる。発達障害がトラブルリソースとして語られる。」ケースもよくある。多くの成人発達障害者も、療育の意義を自明視している。「早期発見早期療育」の効果が本当に実証されているのか? 私は疑問に思っているが。

 

成人発達障害者の多くは手探りで生活し、対処法も経験的に身につけていった。そこで直面した問題は、技術的や制度的な解決がなされていたわけではない。人並みの結果に近づくために、人並み以上の時間と労力を費やしてきた。

現実的には、「多勢に無勢」という言葉を思い知らされ、一生懸命にこの社会に合わせようと努力するという形だった。その努力方法とは、通常とは異なるルートとは違うことが多かった。つまり、「直観的レベルで社会的な機敏を身につけていった」のではなく、「本人自身による観察/思考/分析で、『多数派はどう認識/行動するか、というパターン的知識と運用技術』習得努力」戦略を取っていった。

「早期発見早期療育」が力説される場では、成人発達障害者による「これらの努力」について語られることはほとんどない。否、「自己認知の出来ていない成人発達障害者が、見当違いの努力をする。それは無駄なだけではなく、周囲の迷惑だ。専門家の言うことをきかないとダメだ。」などと言われることもよくある。成人発達障害者自助会でも、私は何度か聞いた。

それだけではない。「成人発達障害者は、『周りの人が理解しろ』と主張するだけで自助努力をしようとしない。」などという非難もしばしば浴びている。

その結果、「早期発見早期療育」神話を内面化してしまうケースが出てくる。

 

発達障害が何故問題であるのか? 専門家言説ではそれについて2つの語られ方がある。

1.トラブルリソースとして発達障害が用いられる語られ方
発達障害は、少年犯罪のみならずありとあらゆる教育問題の「隠れた誘発因子」として語られる。この場合、教育的介入は「単なる個人の困難に対する介入」ではない。「教育問題を予防するための介入」である。
2.「困った子は困っている子」という語られ方
個人の「教育的なニーズ」が見いだされ、それに応じた「教育的配慮」がもたらされるとして、語られる。しかしながらその一方で、このような教育的配慮や支援のありかたは、多くの場合、「非発達障害者」である大人が、「障害児」のありかたを特定の方向へ向けていく。そういう作用を持っている。

成人発達障害者が、これらを内面化しているケースもよくある。

発達障害者が、「周囲に援助を求めること」についても、難しい面が存在する。これについては「人に迷惑かけていい」と「障害者が声をあげる」の間にあるもの 2 - karotousen58のブログで書いたことがある。

 

続いて、「当事者の意見」を受け取る側の周辺について書く。

発達障害者の「問題や困難」という「リスク」を、医療に委ねることによって「分散する」という発想を、持っている人が少なからず存在する。「自分たちのまわりに発達障害者がいると面倒。専門家や家族が分散して扱ってくれたほうがありがたい。」という発想。その発想の下で、「発達障害が疑われるから、受診や治療をさせたい。」という主張がなされるケース、これは少なからず存在する。

発達障害というカテゴリーは曖昧さを持つ故、「とんでもない力」も持ちうる。曖昧であるからこそ、その場の状況と文脈に応じて、様々な不可解(と認識された)行為を発達障害に帰属させ、「つながりを作る」ことを可能にする。慣習や文化といった一定の枠内で、容易に可能となる。

つまり発達障害とは、そのカテゴリーの持つ曖昧さを基礎として、人々が他者の行為を「発達障害として、つながるに適切である」と評価した結果ということになる。

 

障害者に対する「教育/発達可能性」に対する期待。それが「支援」とよばれる行動の基本となっている。そのような期待や志向が「支援」という実践を成り立たせている。しかし、その一方で、「教育/発達可能性」等の「美しい言葉」は、「個人の障害の克服」という、限定的な(←ここ重要)将来のみを志向しているのなら危険。私にはそう思える。

また、それらの延長上にある言葉として、「成長」も存在する。障害者が、「成長した」と専門家や周囲によって評価されたとき、その障害者本人の行動変化が何を意味するか? もしも、「正体不明の権威への、抵抗を諦めただけ」ということならば、危険だと思う。 

発達障害者は、非発達障害者が要求するようにふるまい、できるだけ非発達障害者に近づこうと自助努力する必要がある。自助努力をすると、社会の側は従順さへの報酬として仲間に入れてくれる。そして、それは善意に満ちた恩恵的なものとして語られる。従わないのなら排除される。つまり、排除は問答無用でなされているわけではない。」

こういう価値観を内面化した上での「当事者の意見」となっている可能性。これも『当事者の意見」の中にはありうる。意見を受け取る側は、そのことに自覚的になる必要があると思う。

 

(このシリーズひとまず完結)

2018年4月放送発達障害啓発NHK番組、視聴者の感想に興味あり 2

  

発達障害について知られていないことが問題。だから、知ってもらうことが必要。」という意見も根強いんだなと思った。「知らない」こと以上に、「何をいかにして、知ったつもりでいるか」ということのほうが問題なのでは? と私には思えて仕方がない。

Twitterでは、「去年の『井ノ原氏と有働アナ』のほうがずっといい。中山氏はミスキャスト。」という類のコメントも多く見られた。 次回は、これらのことについて関連させて書く予定。

2018年4月放送発達障害啓発NHK番組、視聴者の感想に興味あり 1 - karotousen58のブログ

 

発達障害というカテゴリーを、本人以外が支配している」のでは? そして、そのカテゴリーにくっつけられた「価値や意味」などと、あてはめられた本人が生活する現実との関係性はどうなっているのだろう?

その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 1 - karotousen58のブログ

  

本日、「超実践!発達障害 困りごととのつきあい方」なる特別番組が放送されるようだ。 発達障害カテゴリーが本人以外の人に支配された状態では、 「誰にとって、どんな点で、困りごととなっているのか」ということが問われないまま、本人が悪人とみなされる。 支配されたカテゴリーに従って、本人たちが個人的な同化努力に励んで対処している限りは、周りの「見せかけの寛容さ」がバレることはない。周りの人が「発達観や価値観を再考」する必要性を感じることもない。 番組を見る際には、「このあたりの誘導」に警戒する必要がありそうだ。と、私は考えている。

その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 2 - karotousen58のブログ

今回も、オブラートに包まない表現を使う。2017年度の発達障害啓発NHK番組は、結果的には次のような事態につながりうるものだった。と私は捉えている。

2017年放送の発達障害啓発NHK番組が、あまりにも「発達障害者本人以外によるカテゴリー支配」に共感をよせすぎたものだった。

「周囲にとって都合の悪いことは、なんでもかんでも『発達障害の特性が原因』として片づける」というコメントが可視化されやすくなった。

まさかとは思うが、2018年4月16日放送の番組には、「『なんでもかんでも発達障害に関連付ける』という空気もできていないか?もしもそうなら、危ない。」という見解を取り入れた台本が作られていたのかも?

 

井ノ原氏と有働アナによる進行の「発達障害啓発番組」と、中山氏の登場したそれとは、テーマが異なる。

  •  井ノ原氏と有働アナによる進行の「発達障害啓発番組」テーマ
  1. 2017年5月放送 「自分の苦手とどうつきあう」
  2. 2017年7月放送 「ほかの子と違う? 子育ての悩み」
  3. 2017年9月放送 「どう乗り越える?コミュニケーションの困りごと」
  4. 2018年1月放送 「読み書き計算が苦手…どう向き合う?学習障害
  1. 2018年4月16日放送 「子どもが"発達障害かも"と言われたら」("グレーゾーン"の親の悩み)
  2. 2018年4月30日放送 「超実践!発達障害 困りごととのつきあい方」

 

「これらのテーマ、一つだけ微妙にタイプが違うぞ。」と私は思った。その「一つ」とは何か?

答えは、2018年4月16日放送 「子どもが"発達障害かも"と言われたら」("グレーゾーン"の親の悩み) である。

違う理由は、

他のテーマでは、「観察/分析/支援をされる対象となるのは発達障害者。それらをするのは周りの人。」というレールが敷かれている。しかし、このテーマでは、「(発達障害者の身近にいる)自分自身が持っている、発達観や価値観。それらを見つめる必要もありそう。」というメッセージが隠れていたのでは? と思えたからだ。

もう一点。「グレーゾーンというテーマ、(他のテーマではスルーされていた)おっかない要素にも向き合う必要があるぞ。」という思いを、私が持っているからだ。

「おっかない要素」とは何であるか? それは、「トラブルリソースやリスク管理の対象として、発達障害が持ち出される」ことである。「発達障害者本人が問題や困難を抱えているから、それらを軽減させるために介入」というよりも、「問題を未然に防ぐことや、一般人が持つと予想される社会的不安の解消を、目的として介入」が優先される。

専門家や集団内での強者が、特定の発達障害者に関する仮説(実は障害者側に不利益を強要するもの)を主張。しかも、仮説は専門家や集団内強者の一方的な解釈体系に基づく→本人は反駁困難(医療の持つ権力は大)、という危険性もある。

 

井ノ原氏と有働アナによる進行の「発達障害啓発番組」は、中山氏登場番組よりも好意的に評価されているようだ。「井ノ原氏と有働アナのほうが、気持ちに寄り添っていてよかった。発達障害への理解を求める進行だった。」等のコメントをいくつか見た。しかし、私はそれらに疑問を持っている。

本当は「理解」というより「例外として認める」といったところだったのでは? 「気持ちに寄り添った、理解に近づいた」と思うことによって、「例外扱い」であることの直視を回避したのでは? という解釈を私はしている。

「怠けているとか特別に性格の悪い極悪人だから、彼(女)らは私たちを困らせるのだ。」という見解をくつがえすという狙いを持った番組構成ではあったのだと思う。しかし、厳密に言えば、見解は「くつがえされた」わけではなかった。何故ならば、「世俗的常識や規範や、それにはらまれている問題」について再考していくという方向については示されなかった(と私はみている)から。

確かに、「怠けや極悪人なんだから自己責任」ではなく「障害かもしれないから、配慮してあげなきゃ。」に変えようという方向性は感じた。しかし、「障害ではないのなら、やっぱり怠けや極悪人だ」とする規範は生き残っている。そして、発達障害者側が社会的に弱い立場に置かれたままになるであろうことも変わらない。

支配されたカテゴリーに従って、本人たちが個人的な同化努力に励んで対処している限りは、周りの「見せかけの寛容さ」がバレることはない。周りの人が「発達観や価値観を再考」する必要性を感じることもない。

もしも、その状態にとどまらず、非発達障害者側が「自分はカテゴリー支配をしているのかもしれない。そして、発達障害者側が感じている『生きづらさ』は、そのことと関係があるかもしれない。」という思いが出てきたらどうなるだろう? 「辛い」とか「混乱」とかいった感情が湧くこともありうる。

中山氏登場の 2018年4月16日放送 「子どもが"発達障害かも"と言われたら」("グレーゾーン"の親の悩み) では、「障害かもしれないから、配慮してあげなきゃ」というよりも、「個性では? 診察室という環境に長時間いるといった条件等はどうよ?」といったトーンで語られていた。

この言動が、「個性なんだから自己責任」という主張だと、視聴者に解釈されたのかもしれない。しかし私は、次のように解釈している。

「『個性だから自己責任』で終わらせたのではなく、社会関係的な面もゼロではない」という主張だったのかもしれない。

 

番組では、「外国で早期発見や早期対応がなされ、かつ、家族が協力的だった」成人発達障害者がゲストとして登場。「自分研究」という方針を、好意的に紹介。自分研究と援助要請とを結びつけた語りもあった。

しかし、援助要請に関しては

「人に迷惑かけていい」と「障害者が声をあげる」の間にあるもの 2 - karotousen58のブログ

で書いた問題についてはスルー状態。

発達障害について考える際に、「生物学的、心理学的、社会関係的」の3種類の方向から考える必要がある。勿論、「社会関係的」側面が、もっとも複雑である。私はそう捉えている。それらのうち、番組で着目されたのは、「生物学的、心理学的」方向がほとんどだったのでは?「社会関係的」な面はシカト状態だったのでは? というか、「社会関係的な面についてふれたら、カテゴリー支配を視聴者に意識させることにつながりうる。それを意識することは、視聴者にとっては気分を害することだ。だからシカトする。」といったところだったのでは? と私は思う。

 

「特にひどい」と私が思ったのは、2017年7月放送 「ほかの子と違う? 子育ての悩み」である。

#あさイチ [2017年7月24日(月)] : ツイ速まとめ

番組の感想を見て、「信じられないことが起こっている。」と私は思った。

「そうそう、あの小6の子、信じられない行動でしょ。」と思った方もおられるだろう。

違う。「『そうそう、あの子絶対普通じゃないよ。親御さんは熱心なのに。』という類のコメントで盛り上がること」が、「信じられないこと」と私には思えた。

  • 「外からカメラを使って小6の子を顔出しにして、『問題行動(とみなされたこと)』を全国放送でさらす」という発想。そして、それを「親御さんの熱心さの表れ」と解釈。
  • 「外からカメラとかがやってきても状態が変わらないわけじゃないですか」という司会者のコメント、これを受けて、「そうそう、だからあの子は普通ではない」というコメントがなされる。それに共感する人続出。
  • 「外からカメラを向けたら、状態を変えるだろ」と、「そんなことをすると、あのおばちゃんに怒られるよ」といった類の言葉、どう違うんだろ? 後者は「悪い叱り方」と言われることがよくあるのだが。
  • 「『自分が直接働きかける』という方法を取らないで、『他人(特に世間様)の目』という外圧を使って、子供の言動を変えようとする。」こと。この方法を正当と解する人が多そう。では、どのような知識/論理/感覚/情緒を以て、それを正当とみなすのか? それらについて検討することなく、「普通の小6ではない」と決めつけていいのか?

と私には思えた。(10年前なら、「問題行動(とみなされたこと)」を顔出しにして全国放送でさらすという行動はとられなかったと思う。私の観測範囲では、寸劇という形で表現がなされていた。)

「あ、これ、平成の『積み木くずし』だ。」と私は思った。『積み木くずし』は、ある俳優が書いた本で1982年にベストセラー本となった。「非行に走った娘との、葛藤を書いた作品」である。「非行は、自分の愚かさと娘の弱さが原因だった。しかし、自分は昔の愚かさを悔い改めた。そして人間的に成長した。あとは娘が変わるだけ。」という内容だった。

 この本の出版に関して、娘のことを相談した警察の人から助言があった。「出版を考えるなら、3年経ってから」と。しかし、その俳優は「娘が承諾」と主張し出版。当時14歳の娘は反響が想像できなかった故承諾、その俳優は娘に責任転嫁。

この本はよく売れた。当時、俳優に共感する声がたくさん寄せられていた。娘のほうは、いろいろな人から色眼鏡で見られて辛かったらしい。「親はきちんと反省して立派に行動しているのに、反省もせず行動も変えない。親不孝な娘。」という類のことを、見ず知らずのいろいろな人から言われたらしい。(本人が成人してから出版した本によると)

 

また、番組では、次のような形で「カテゴリー支配を意識させない工夫」もなされていた。

困難の軽減や解消をせざるを得なかった発達障害者。「彼(女)らのとった対処方法の豊かさや努力を称賛する」という形でなされていた。

「称賛のどこが悪いんですか?本人の気持ちに寄り添った行為じゃないですか。」と思われるかもしれない。しかし、この「称賛」に私は危険なものを感じている。「豊かさや努力を称賛することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった側を免罪」という方向にも使われうるからだ。また、本人が対処に次ぐ対処を重ねていった結果、「問題は軽減したものの完全な解消にはいまだ至っていない 」という場合も多々ある。

また、(この番組に限らず)障害啓発番組で伝えられる「障害者の声」は、「非障害者と価値観を共有しようとする障害者」のそれであるケースがほとんどである。

「家族が楽になると、本人も楽になる」と力説する。そういう形でもなされていた。この発言が、「『問題や困難軽減のための介入』というよりも、『問題を未然に防ぐことや、一般人が持つと予想される社会的不安の解消を、目的として介入』を優先」する際に悪用される危険性があるのでは? と私は思う。

この番組に限った話ではないが、発達障害関連の話題になると、「困った子供は困っている子」なる言葉がよく使われる。この言葉は、好意的に解釈されているようだ。

しかし、私はこの言葉が嫌いである。「『困っている子』と解釈しているあんたらの、解釈体系はどうなってんだ? それを示さないで恩着せがましい態度をとるんじゃねーよ。」などと、ついつい思ってしまう。

 

定型発達症候群って何?|発達障害プロジェクト

というサイトもある。「あ、これも意識させない工夫だな」と正直なところ、思った。

「有働アナによる発言なら、この内容は相手にしてもらえるんだ。同じことを発達障害者が言ったら、『だから何?』程度の答えであしらわれるだけだ。否、『こんなことを言うなんて、本当に認知力が弱すぎるんだね。認知力を付けないと、我々が迷惑するんだよ。』などと言われる。」と思った。

「定型発達症候群」なるものを持ち出した意図は何なのだろう? 「『発達障害』と『定型発達(非発達障害と私は表現)』とは、異なる文化を持つ。『異文化接触』を経験するようなものかも?」という問題提起なのかもしれない。

「自分かに存在する「文脈」で、他者の言動を推測しようとする→それがトラブル発生の原因に」という方向から考えようという意図を持つものかもしれない。

ここまでの見解はよいと思う。ただ、このサイトでは「この見解の続き」が示されていない。続きは、次のどれなのだろう?

  1. 人は皆、多かれ少なかれ異なる文化を生きている。発達障害もその一つ。「自文化の正当性」を疑ってみることや「異文化の『文脈』」を学ぶ必要が出てくることもありうる。そして、その学びは、必ずしも「苦痛」とつながるとは限らない。
  2. 世間一般という同じ『文化』に属する以上、発達障害であろうとなかろうと、その同じ文化を受け入れ、そこの『文脈』を学び取らなければいけない。
  3. その他

「本心は2.なんだろうな」と、正直なところ思う。

 

長々と書いたが、私がこの記事で主張したかったのは、次のことである。

「『発達障害をめぐる医学的心理学的知識』をもって、発達障害者に関する問題が取り除かれる。」というわけではない。「無知」よりも、「生活する世界の中に存在する『カテゴリー支配』に意味を見出し、それを何らかの形で受容している」ことの影響が大きいと、私は思う。

そして、それらを「無理解や不寛容」として批判するだけではなく、その「カテゴリー支配」にどのような意味を持たせているのかを再考する必要があると、私は思う。

 

番組に対する視聴者コメントは、他に、

「中山氏は、当事者の意見を聞こうとしない」「中山氏も、この番組出場で専門家と一緒に勉強して、見解を変えてほしい」というものもあった。

次回は、「カテゴリー支配された状態での、当事者の意見」周辺にあるもの(特に、トラブルリソースやリスク管理の対象としての発達障害) について書く予定。

2018年4月放送発達障害啓発NHK番組、視聴者の感想に興味あり 1

前回、「発達障害カテゴリーが本人以外の人に支配された状態」での「発達障害啓発活動」について書いた。オブラートに包んだ表現(当社比)で。この記事の最後で、次のように書いた。

 

本日、「超実践!発達障害 困りごととのつきあい方」なる特別番組が放送されるようだ。

発達障害カテゴリーが本人以外の人に支配された状態では、 「誰にとって、どんな点で、困りごととなっているのか」ということが問われないまま、本人が悪人とみなされる。

支配されたカテゴリーに従って、本人たちが個人的な同化努力に励んで対処している限りは、周りの「見せかけの寛容さ」がバレることはない。周りの人が「発達観や価値観を再考」する必要性を感じることもない。

番組を見る際には、「このあたりの誘導」に警戒する必要がありそうだ。と、私は考えている。

その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 2 - karotousen58のブログ

 この特別番組について、Twitterなどでいろいろな反応が見られる。「発達障害カテゴリー支配が強固なものであることを感じさせる反応多し。」「やはり、このあたりの誘導に要警戒という内容だったな。」が、私の正直な感想である。

今回は、オブラートに包まない表現を使う。おそらく、多くの人を不快にさせる内容になるだろう。

 

「中山秀征、自分より劣っている人達を理解してあげるという上から目線。」「中山秀征、『僕ら』って主語が問題。」

という内容のコメントが支持されると同時に、

「中山氏は、劣っている発達障害者のことがわかってないんだね。わかってないから、発達障害者に対して的外れな助言をしているのだね。そんな助言じゃなくて、効果的な助言の一例を教えてあげる。発達障害者は助けられる側の人、私たちは助ける側の人。」とでも言いたげな(と私は認識)内容のツイートが、たくさんRTなされている。

これは興味深い。私には、これらのコメントが相似形に思える。

 

チャビ母 on Twitter: "発達障害の人「会話のルールがわからず話についていけないのが辛い」発達障害をよく知らない人「気にし過ぎ。誰も大した事を考えず話してる」発達障害の人が言ってほしい事例「それは大変だね。どんな風にすれば助かるか教えて」中山秀… https://t.co/r05z5EYgwB"

中山氏や一般の人よりも、このツイートに失望。「教えて」と言いながら、聞き手の想定する「発達障害関連のモデルストーリー」から外れない話を要求されそう。モデルストーリーを外れた故、中山氏は非難された。

2018/05/06 02:26

「どんなふうにすれば助かるか教えて」という問いへの答えとして、次のような回答は認められるのだろうか?

 

誰かのある行為を、いかなる状況でどの程度「問題化する」のか、それともそもそも「問題化しない」のか。それを決める権利は誰にあるのでしょう?「そんなもの、発達障害者側にはない。専門家を中心とした私達非発達障害者にある。 」とでも言いたそうですね。

発達障害者の言動を否定する、劣ったものとみなす(「私達が合わせてあげる」という形で表現されること多し)。そのとき、どのような知識/論理/感覚/情緒を以て、否定したり劣ったものとみなしたりするのでしょう?

「大変だね」の裏には、「私達と違って、脳機能の特殊条件が原因で大変なんだね。私達に問題はないんだよ。」という思いがお隠れなのでしょうか? 「本人以外の人達にとっての、あるべき相互作用」に沿って本人を観察/分析→決めつけ。それによって、本人の「できなさ」が強調されてしまう という面はないのでしょうか?

「どんなふうにすれば助かるか」という以前に、これらのことをはっきりと表明してほしいです。表明後に「発達障害カテゴリー支配」について、真摯に向き合ってほしいです。そして、「こうすれば助かる」と発達障害者側が語った場合、 「人に迷惑かけていい」と「障害者が声をあげる」の間にあるもの 3 - karotousen58のブログ も踏まえてほしいです。

勿論、発達障害者側も「関係性をお互いが模索/創造」を目指しています。「一方的に、非発達障害者側が合わせるべきだ」などと主張するわけではありません。

 

発達障害への理解や支援って言うけどさ、発達障害者以外の人がカテゴリーを支配した上での理解や支援であって、内実は『私達が、劣ったあなたたちに合わせてあげる』というものだろ。あくまでも、『脳機能に障害を持つ、あなたたちの問題』であって『私たちの問題』なんかではない。そういう状態での、今の生活や関係性やポジションを確保した上での『配慮』の問題として捉えてるんだろ。」

こういう主張を、発達障害者側が非発達障害者側に向かって発することは、現実にはそうそう簡単にはできない。

しかし、「中山秀征、『理解してあげる』という上から目線」「中山秀征、『僕ら』って主語が問題。」というコメントが表に出された状態だと、発言が少しやりやすくなる。「あんたらも、やってることは同じ」と。

まさか、この番組、こういうことを狙って台本が作られていたんだないだろうな。と、ついつい変なことを考えてしまう。番組での中山氏のほうにむしろ、「専門家の見解をうのみにせず、自分なりにじっくり考えて向き合う」姿勢を私は感じた。現段階で「理解してあげる」「僕らを主語にする」状態であったとしても、後に「双方の関係性を一緒に模索/創造」にもつながることもありうるのでは? と私には思える。

 

発達障害について知られていないことが問題。だから、知ってもらうことが必要。」という意見も根強いんだなと思った。「知らない」こと以上に、「何をいかにして、知ったつもりでいるか」ということのほうが問題なのでは? と私には思えて仕方がない。

Twitterでは、「去年の『井ノ原氏と有働アナ』のほうがずっといい。中山氏はミスキャスト。」という類のコメントも多く見られた。

次回は、これらのことについて関連させて書く予定。

その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 2

 

あさイチ 発達障害グレーゾーンの特集に出演した中山秀征さんが炎上 #発達障害 #あさイチ - NAVER まとめ

中山氏の無理解というより問題提起と思う。発達障害を相互行為の中で捉えず、「彼(女)らの中の障害が原因、我々の『常識』を再考なんて不要」空気は無か?「社会性を育みながら能力開発」ではなく「同化を目標」?

2018/04/22 02:00

  

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「彼(女)らは私達とは別世界の、『偏りの激しい』子。専門家介入で様々な『歪み』をなくし、私達の世界を脅かさないよう、私たちの世界の枠組みの中に『収めて』あげなきゃ。」啓発。これを中山氏にも適用

2018/04/22 02:16

 

 発達障害啓発運動とは、どうやら、

 違和感や排除の意識を我々に抱かせる本人、対人関係に悩む私達、いろいろな場面で本人が起こす問題。それらへの打開策として持ち出された、「発達障害」というカテゴリー。専門家をはじめとするいろいろな人達が、「発達障害への、周囲による理解が足りない状態」と認識。→この障害への理解が高まり、症状軽減や問題解決がなされたらよい。

といった狙いを持ったものであるようだ。

では、この「発達障害カテゴリー」は、どのように構成されてどのように流通しているのだろう? 

 

発達障害というカテゴリーを、本人以外が支配している」のでは? そして、そのカテゴリーにくっつけられた「価値や意味」などと、あてはめられた本人が生活する現実との関係性はどうなっているのだろう?

その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 1 - karotousen58のブログ

 現状では、「発達障害カテゴリー」は、本人以外の人達が支配している。「発達障害カテゴリーをめぐる、相互作用」については検討がほとんどなされない。

発達障害者のありようを「本人以外の人達」が一方的に規定。

  • 違和感や排除やいろいろな場面で起こす問題や逸脱行動。それらの原因や理由を全て「発達障害者本人の持つ特性」と、本人以外の人達が決めつける。「観察・分析・解釈される対象となるのは障害者側、するのは健常者側」という非対称的な状態。
  • 一方的に決められた仮説が本人に不利益を誘導する場合でも、本人が反駁することは困難な状態にある。反駁を試みても、「発達障害者は認知力が弱いから、そのような間違った解釈をしてしまう。」などと無効化される。
  • 発達障害が「誰」にとって「どんな点で」問題か?が問われないまま、本人が悪人とみなされる。

早期発見や専門家介入の持つ「効果」を自明視。「支援」というよりは「風紀委員的なもの」を私は感じる。

  • 違和感や排除や問題や逸脱行動を解消するためには、「特性を抱えている」本人と専門家の世界を作って訓練させる必要がある。「私達の世界を脅かす特性を持つ発達障害者」を脱して、「私達の世界の枠組みに、収まるように」してあげなければならない。「個人を変化させる」という方向での(自称)支援。
  • 早期発見早期対応がなされた場合、学卒後の社会にも適応できる。「今の成人発達障害者が苦戦しているのは、運悪く早期発見ができなかったから。」と決めつける。成人発達障害者はしばしば、「発見や対応が遅れたら、あんな人になってしまいますよ。」という反面教師役を押し付けられる。
  •  本人以外の人達に伝えられる「発達障害者の声」の多くは、「本人以外の人達と価値観を共有している、発達障害者」のそれである。

 

発達障害という言葉が流通していった理由はいろいろあると思われる。そのうちの一つが、「発達障害カテゴライズを歓迎した人たちがいた」ことである。私はそう考える。

「私達や所属集団が悪いわけではない。『個人の持つ障害』と考えることによって、うまくいっていない現状も、専門家介入による状況改善が期待できる。」という思いが、背景として存在する。

専門家から一般レベルへと専門知識が流される際、「情報が変容してしまう」こともありうる。情報が簡略化された形で伝わるということもありうる。そして、簡略化や変容のなされた専門知識に対して、個人個人が「どんな印象を持ち、どのように自分の言葉に変換していくか」という問題も出てくる。

発達障害の特徴とされているものが、自分に該当するか否か」は、実際のところは、主観にゆだねられている部分も大きいと思われる。歓迎した人達がいろいろな情報を得る。そして、得た情報は、「個人個人が、自らにとって都合よい情報だけ」ともなりうる。

「『普通』の基準が客観的に存在して、その基準から逸脱する人を『発達障害者』とみなす」というより、逆に、「発達障害者を逸脱者とみなすことによって、『普通』の基準を確定」という方向に走る。

このように、「発達障害カテゴリー」が本人以外の人達によって支配される。

 

本人が直面する問題には、いろいろな背景がある。そこでおりなされる多様な社会関係、取り巻く環境、所属集団の制度的特徴など、様々な要素がある。しかし、「本人の持つ生物学的特性」のみに着目してしまったら、「それらの要因にも着目する」という方向が閉ざされる危険性がある。

番組では、子供が診断されている様子も放送された。「みんなに意地悪される」→「意地悪されるというよりは……」という展開となっている。ここで何らかの誘導がなされていないか? 私は気になっている。

この「本人の持つ生物学的特性」はしばしば、「発達の遅れ」「不出来」という言葉で表現される。何を「普通」とし、そこからの「遅れ」「不出来」として「障害」とみなすのか? 「私達」の側が再考してみる。そういう方向も、発達障害カテゴリーが支配された状態では、閉ざされる。

「本人以外の人達にとっての、あるべき相互作用」に沿って本人を観察/分析→決めつけ。それによって、本人の「できなさ」が強調されてしまうこともありうる。

 

ここで、中山秀征の発言について考えてみる。中山氏の発言は、「番組の台本」を踏まえた発言と考えられる(必ずしも、ご本人の本心と一致しているとは限らない)。中山氏への人格否定(台本である可能性を無視したと思われる)コメントや内容非難コメントが多数寄せられているようだが、私の解釈は異なる。

むしろ、「『できない』とされることの意味、本人以外の側も『できる/できない』について考える必要ありでは?」という思いを持っていたのでは? 「子供の頃の捉え方を振り返る、『できないこと』を持つ人と自分の暮らしている世界とがどうつながっていたか振り返る、『子供内部の問題』で片づけず、『大人がどう捉えるか?』ということにも思いを巡らす。」といったことに、本人が向き合ったゆえに出てきた発言なのでは?

と私は捉えている。

そして、「ひょっとしたら、次のような問題提起も含まれていたのかもしれない。」と私は疑っている。

「社会性をはぐくみながら、本人なりに持っている能力を開花させる支援」というより、
「あの子達は私達とは違う、『偏りの激しい』、別世界の子。早期発見し別世界での早期療育をしてあげなきゃ。」「さまざまな『歪み』をなくし、私たちの世界を脅かさないように、私たちの世界の枠組みの中に『収めて』あげなきゃ。」
とういう方向への支援に関心が向いているのでは?

 

"周りから個性だと言われる方が、すごいつらい方がいる"

これは重要な発言。「つらさ」を生み出しているものは何なのか? 「つらい」と発言した本人の発達や成長や学びを、我々が解釈するスタイルはどうなっているのだろう? スタイルを含めた関係性はどうなっているのだろう?

など、いろいろと考えていく必要があると思うから。そして、新しい「発達観」や「価値観」を双方が模索/創造していくことに、意義があると思うから。

発達障害カテゴリーが本人以外の人に支配されているのなら、これらが検討されることは望み薄だろう。

番組では「周りの方が個性だよと言うのは、かなり慎重にされたほうがいいと思う」で片づけられたのでは? と私は疑っている。

 

診断がつかなくても、

「このような特徴があって、このあたりに困難を感じているようだ」→「よい部分を伸ばしていくことで、苦手な部分を補っていく。」とか「その後の発達過程の中で、少しずつ成長させていく道を模索する。」

という方針でいいのでは? 

と私は思っている。

私にとっての「理解」「支援」イメージは

「自分自身が発達障害者本人から、どんなメッセージを受け取っているのか」「今の自分の立場や役割において、何をすればいいのか」「自分は『発達障害』なるものをどのように捉えているのか」といったことを自問していく。

その上で自分の態度や行動を考えていく。

ことである。

発達障害カテゴリーを他人に支配されている状態」での、「発達障害啓発活動」は、排除や疎外の拡大再生産につながる。私はそう考える。

 

本日、「超実践!発達障害 困りごととのつきあい方」なる特別番組が放送されるようだ。

発達障害カテゴリーが本人以外の人に支配された状態では、

「誰にとって、どんな点で、困りごととなっているのか」ということが問われないまま、本人が悪人とみなされる。

支配されたカテゴリーに従って、本人たちが個人的な同化努力に励んで対処している限りは、周りの「見せかけの寛容さ」がバレることはない。周りの人が「発達観や価値観を再考」する必要性を感じることもない。

番組を見る際には、「このあたりの誘導」に警戒する必要がありそうだ。と、私は考えている。

 

(このテーマひとまず完結)