karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

意外な場所で、ラ・フォンテーヌ作品を知った

今回は、「奇妙な偶然が重なって、ラ・フォンテーヌ寓話を読みたくなった」という記事。

奇妙な偶然とは

  1. はてなハイク(注 株式会社はてなが運営するポータルサイトで提供されているサービス。2019年3月27日サービス終了とのこと)で、去年の12月26日から今年の1月初めにかけて、『打ち切り童話』なるお題が盛り上がっていた。
  2. 今年1月中旬から、母が入院している。

ということである。

「意味不明」と思われたかたがほとんどだと思う。これらについて書いていく。

 

母が入院している病院、院内に「談話室」のような場所がある。そこには、いろいろな本がある。

それらの本の中に、「世界童話文学全集 講談社」(昭和30年代発行)の本があってびっくり。全18巻のうち、5冊が置いてある。

白状すると、私は子供の頃、「世界昔話」の類の本をあまり読まない子供だった。例えば、『ジャックと豆の木』とか『ヘンゼルとグレーテル』とか『王様の耳はロバの耳』とかいった話を、実は本で読んだことがない。大人になってから、いきなりこの種の本を読むチャンスが出てきたといったところである。

大人になってからだと、「解説のページから読んでやろう」とか「時代背景がどうなのか。それを考えると読みやすくなるかもな。」などと、変なことも考えてしまう。子供の頃に全然興味を持てなかったタイプの本を、50代半ばになってから「面白いかも」と思って読んでいく。自分がこういうことをするとは、思ってもいなかった。

とりあえず、短編の話から読んでいくことにした。

 

それらの本の中に『8 フランス童話集』がある。この本に、ラ・フォンテーヌの作品も3編収録されている。『おおかみといぬ』『かしの木とあし』『かいめんをつんだろばとしおをつんだろば』だ。私はそれまで、ラ・フォンテーヌという人も作品も意識したことがなかった。

読んでみて、最初に思った。「これらの作品、作風がはてなハイクのお題『打ち切り童話』っぽいぞ。」と。

 はてなハイクお題「打ち切り童話」は、次のようなものである。(注 はてなハイクは2019年3月27日サービス終了とのこと)

打ち切り童話 - はてなハイク

 

この本を読んだのが、今年の1月下旬。その少し前に、はてなハイクで、お題「打ち切り童話」が盛り上がっていた。もしも、このお題がそのタイミングで盛り上がっていなかったら、「ラ・フォンテーヌか。ちょっと変わった作風だな。」と思っただけで終わっていたかもしれない。作品に興味を持つまでには至らなかったかもしれない。

また、「昭和30年代発行の、世界童話文学全集」を読むチャンスなんて、そうそう簡単には遭遇できない。しかも、遭遇した場所は、「読書家がたくさんいそうな場所」というわけでもない。病院の談話室という、意外な場所だった。

これらの奇妙な偶然が重なって、ラ・フォンテーヌ寓話を読みたくなった。

もしも、母が違う病院に入院していたら? これらの本が、母のいる病棟ではなく他の病棟の談話室に置かれていたら? これらの本が、談話室に置かれていなかったら? そもそも、この本にラ・フォンテーヌ作品が収録されていなかったら? 私は一生、ラ・フォンテーヌという名前を意識しないでいたかもしれない。

神様のくれたタイミング? に感謝。

 

今月に入ってから、病院に「面会制限」が出された。正当な理由がない場合、原則として面会不可となる。
住んでいる県でインフルエンザ警報が発令されたことを受けて、出されたものらしい。
正当な理由がある場合も、「手指消毒をしマスク着用の上で、面会前に看護師に申し出て許可を得る」ことが必要となる。

制限前は、面会を終えた後にそれらの本を少しずつ読んでいた。しかし、制限が出されてからは、読みづらい。患者さんらにとって必要な制限だから、当然のことではあるが。

「バレンタインデー」で思い出した本

今週のお題「わたしとバレンタインデー」

 

お題を見て、この本を思い出した。 

OLたちの「レジスタンス」―サラリーマンとOLのパワーゲーム (中公新書)

OLたちの「レジスタンス」―サラリーマンとOLのパワーゲーム (中公新書)

 

目次
序章 OLという存在
第1章 「女の敵は女」のウソ
第2章 ゴシップ
第3章 バレンタインデー
第4章 OLの抵抗の行為
第5章 男のストラテジー
終章 ジェンダーの落とし穴(gender trap)

 

 20年以上前に出た本である。労働や雇用などの状態が今とはだいぶ違っている。現在は、「男性社員とOL」というより「正規雇用と非正規雇用」では? と思う。とはいえ、「この本に出ている(20年以上前の)、男性社員とOL」と「現在の、正規雇用と非正規雇用」との関係は似ていると思う。

お題を見て、この本の第3章を思い出した。

第3章の内容、とにかく「エグい」。社員間のここまで複雑な心理的背景は、私なら読めない。というより、「心理的背景が存在する」ということすら、わからない状態でいるだろう。この本が手元にない(図書館で読んだ)から、詳しい内容について書けない。残念だ。

この本について検索していたら、次の論文が見つかった。

http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/hans/124/4_yamada.pdf

 この論文、続きが読みたいのだが見つからない。私の検索方法がまずいのか?

認知症高齢者の入院と身体拘束

今年1月下旬から、母(認知症高齢者)が入院している。入院診療計画書によると、「骨折で歩行困難な状況、2~3ヶ月の入院予定」とのことだ。

今月に入ってから、歩行がやりやすい状態になったようだ。

 

ところが、歩行がやりやすくなったらなったで、また新たな問題が出てきた。「無断で、ベッドから出て歩行していた」とのことだ。

認知症で、ナースコールについて、理解困難な模様。転倒、転落の危険があるため、「緊急やむを得ない身体拘束に関する説明書」が出された。勿論、書面記載事項に関する説明も、丁寧になされた。

 

認知症高齢者が入院する場合、「緊急やむを得ない身体拘束」についても考えておく必要があると思った。

「緊急やむを得ない身体拘束に関する説明書」の中に、「身体拘束の方法(場所・行為・部位・内容)」に関する記述がある。拘束具の名称がいろいろと出ている。コールマット、うーごくん、座コール、安全ベルト、閉鎖4本柵など。今まで見聞きしたことのない名称で、最初、面食らった。

身体拘束について最初に私が思ったことは、「コールマットの知名度について、医療/介護関係者の認識と一般人のそれとに、ギャップがあるかもしれない。」だった。

 

私が知る限りでは、今までに母は3回入院したことがある。過去2回は内科系疾患での入院だった。過去の入院で、私は初めて「コールマット」なるものを知った。

しかし、そのときは、コールマットに関する説明はなかった。病院側から「これを使いますので」と言われただけだった。「これと言われても、どんな目的でどんなふうに使うのだろう? わからない。」が、そのときの私の正直な思いだった。知識がないまま、私が不用意に、このマットを何度か踏んでしまった。そのときの看護師さんの行動から、このマットの目的や意味を推測した。

「コールマットについて説明がなされなかったため、最初、戸惑った」という人、私だけではないかもしれない。高齢者が入院する際、家族も知っておいたほうがよいと思った。

母(認知症高齢者)の骨折入院

今年1月下旬から、母(認知症高齢者)が入院している。転んだことから始まった。

入院診療計画書によると、「骨折で歩行困難な状況、2~3ヶ月の入院予定」とのことだ。

「高齢者の転倒は、しっかり予防しなければならない。骨折以外にもいろいろな面で大きな影響を及ぼすから。」と、よく言われている。現在、それを痛感している。

「大きな影響」以外にも、「家庭内の特定の人に介護や家事の仕事が集中。それ以外の人は『無関心、無責任』な態度を取り非協力的。」という問題も、これまでに輪をかけて大きくなっている。

こういうわけで、なかなかブログを更新できなかった。

この「大きな影響」や「特定の人に丸投げ問題」について、今後、ある程度時間が取れるときに書いていきたい。

これらのテーマ以外に、「短時間で書きやすい、全く関係のないお題」が見つかったら、それを優先して書くかもしれない。

 

入院の1週間近く前に、ある病院(昔からの持病のために定期通院している)玄関付近で転んだ。その直後から「歩けない」とうったえ、病院内では車椅子使用。診察終了後、看護師さんに車でうちまでおくっていただいた。

翌日、整形外科の個人病院受診。レントゲン検査を受けた。

「レントゲン検査の結果からは、骨折とははっきり断定できない。しかし、痛がり方がひどいことから骨折も考えられる。骨折疑いということで紹介状を書きますので、総合病院でCT使用の検査を受けてください。」とのことだった。

 

その2日後の午前中、総合病院で検査。その日の午後、整形外科の個人病院を再受診。勿論、午前中の検査結果を提出して。

検査結果について、「骨折でした。ただ、『どうしても手術しなければならない場所』というわけではありません。治るまでは1ヶ月程度かかります。次回は2週間後に来てください。」と告げられた。

そして、その後すぐ、「どうしても生活が成り立たないようなら、希望すれば、ある総合病院(CT検査を受けた病院ではない)に入院できる状態です。入院希望の場合は、まず当院に連絡してください。」と告げられた。

ただ、告げられたのが金曜日だった。土曜日曜を挟んでいるから、入院は月曜以降となる。この土曜日曜が大変だった。

そして月曜、個人病院による紹介状などを持って、ある総合病院で入院手続き。実際に入院して、「1ヶ月程度」どころか「2~3ヶ月の入院予定」と診たてが変わっていた。な、なんて話だ……。

といった経過で、入院診療が始まった。

 

入院までの受診、入院時、入院後、それぞれの場面で、「『無関心、無責任』な態度を取り非協力的」な父を痛感した。これについてブログに書くことも、父と私を反面教師にする意味があるかもしれない。

実際にブログをやってみたら、想定外のことがいろいろと

今週のお題「ブログ初心者に贈る言葉

 

私がブログ初心者に贈る言葉、それは、「『シジャギ パニダ』という諺を実感できるかもしれない。」である。

もっとも、私も初心者みたいなものだが。

 

以前書いたことがあるが、私は、この諺に背中を押された感じでブログを始めた。

はてなブックマークを使って意見発表をするために、アカウントを取ろうと思った。そのとき、ついでに「はてなブログを始めよう」の部分も読んでしまった。

読んだ後、「シジャギ パニダ」という韓国の諺が脳裏をかすめた。そして、その勢いではてなブログ開設を決めた。

ということになる。

「シジャギ パニダ」を直訳すると、「始まりが半分だ。」となる。「何かを始めたとき、すでに半分到達している。」という解釈になるらしい。

はてなブックマークと関連させてブログ記事を書くこともできるな。ここで、この諺が頭に浮かんでしまったんだ。よし、やってしまおう。」と思ってしまったのだ。

本当は、この「シジャギ パニダ」という諺には、二つ意味があるらしい。もう一つの意味は

「準備段階がとても大変だけど、始まったら結構スムーズに進むものだよ」というイメージを持ったもの(つまり、「準備が大切」「始めが肝心」というような意味合い)らしい。

後になってからそれを知った。

 

では、「シジャギ パニダ」とはどういうことなのか?

実際にブログを書いてみて、「アクセス数の少ないブログでも、ROM専と実際にやってみるのとでは、感触は全く違うものなのだな。想定外のことってあるもんだな。」と思った。この思いが、私にとっての「シジャギ パニダ」である。

そのうちの一つについて、今週のお題「私がブログを書く理由」 - karotousen58のブログで書いた。

また、他の人によって書かれた記事を読んだときに、拙ブログの過去記事を思い出すこともあった。そして、過去記事を書いたときには「ほとんど頭の中になかった事柄」が、私の頭の中に新たに浮かんでくることもあった。こういう、意外な発見もあった。

いろいろなブログにアクセスする場合でも、感触が違ってくる。

拙ブログ記事にスターやブックマークをつけてくださった方々のブログ、読者登録してくださった方々のブログ、私が読者登録をしたブログ。それらのブログにアクセスしてみる。ブログにはそれぞれの個性が現れていて、面白い。

例えば、どこかの美術館で「丸山応挙展」をやっていたときだった。アクセス先のいろいろなブログで、その「丸山応挙展」について記事が書かれていた。

それぞれのブロガーさんの、ご自身の感性と言葉で、「丸山応挙展の魅力」が書かれていた。特に強く惹かれた部分とか、文章表現の仕方とか、ブロガーさんによって異なる。違いが個性として感じられて楽しかった。私がブログを書いていなかったら、「丸山応挙展」の存在すら知らないままだった。

 

「やっぱり、ROM専と実際にやってみるのとは、全く違うものだのだな」と、ブログを書いてみて思った。

知名度が低いかもしれない「豆腐餅」

私の母は認知症で、要介護2と認定されている。毎月1回、ケアマネージャーさん(以降、ケアマネさんと表記)が訪問に来られることになっている。12月の訪問日には、「餅」のことがよく話題になる。

「餅」関連の話題を初めて聞いたのは、6年前の12月だった。

 

6年前の12月、ケアマネさんから訊かれた。「正月はどんな食事にしますか?」と。

私は答えた。「餅を食べさせるのは、正直言って怖いです。だけど、母から『餅がない。買ってこい。』と毎日言われます。」と。

そのとき、ケアマネさんが、「豆腐と片栗粉で、餅に似たものを作るという方法があります。」と教えてくださった。「ネットで調べたら、作り方が出ていそうだな。」と思った。

検索したら見つかった。「豆腐餅」とよんでいる人もいた。それ以来、うちでは、餅を買わないで豆腐餅なる「代用餅」を作ることにしている。家族からも、特に抵抗はない模様である。貧乏舌の私には、「餅」で通用する食べ物と思える。

 

今年は、「作り方を教えて」という展開になった。私は即答した。道具も材料も技術も、特別なものは必要ないし。「電子レンジ」が特別だといえば、そうかもしれないが。

ところが、ケアマネさんから意外なコメントが返ってきた。「作り方がわからないという人がほとんど。検索の仕方がわからないという人も多い。そもそもネットを使わないという人も結構いる。」とのことだった。

試しに、「高齢者 餅 代用」といった感じで検索してみた。すると、いろいろな代用餅関連記事が見つかった。しかし、「豆腐と片栗粉」を使ったものは、クックパッド関連記事以外ではなかなか見つからない。「大根餅」や「おから餅」や「いも餅」や「ご飯シートで代用」や「高齢者向けとうたわれた市販品利用」という記事は簡単に見つかるのだが。

そして、それらの代用餅については、コレジャナイ感を訴える人も少なからず存在するようだ。更に、道具や材料や技術について、「私が作る豆腐餅」よりも高度なものもあった。

クックパッドには、「『料理の基本がわかっていない人』が手を出したら、うまくいかない」レシピも少なからず存在する。だから、「クックパッド以外の記事」から試してみるという人も、いるかもしれない。

「これじゃ、『豆腐餅』のレシピにたどり着かない人も結構いそうだな」と思った。

 

「豆腐餅」の知名度は低いかもしれない。「私の家族以外の人には、豆腐餅に対してコレジャナイ感を持っている人もいるのだろうか? 知りたい。」と、私は前々から思っていた。しかし、検索してもコメントはほとんど見つからない。クックパッド中のコメントは、おおむね好評のようだが。

 

うちでは、次のようにして豆腐餅を作っている。

材料

絹ごし豆腐150g 片栗粉 大さじ4(好みによって調整を。アバウトでも結構うまくいく。)

作り方

  1. 豆腐を容器(電子レンジ使用可能なもの)に入れ、フォークの背でつぶす(豆腐の水切りはしない)。
  2. 1に片栗粉を入れ、しっかり混ぜる。
  3. 2にラップをかけ、電子レンジで2分加熱。
  4. 取り出して、再度ラップをかけ、もう2分加熱。
  5. 豆腐の白い部分が残っていたら、再度数十秒加熱。
  6. 少し透明感が出て、弾力が出たら出来上がり。

検索したら、砂糖で甘味を付けた「豆腐餅」のレシピも見つかった。

豆腐と片栗粉でできる!もっちもち豆腐餅の作り方 | nanapi [ナナピ]

 

日本の雑煮は、地域によって大きく違う。餅についても、「四角い形か、丸い形か」「焼いてから入れるか、煮るか」という違いがある。

大雑把にいえば、東日本は「角餅を焼いて入れる地域」が多く、西日本は「丸餅を煮る地域」が多いということらしい。

角餅と丸餅|探る|日本鏡餅組合

私も親も、東日本を生活圏としたことがない。私の親は、「角餅を焼いて入れた雑煮」にはなじみがないようだ。

「丸餅を煮る文化圏」なら、豆腐餅でも抵抗は少ないかもしれない。しかし、「角餅」や「焼いて入れる」場合は、豆腐餅だと使いにくいんだろうなと思う。

豆腐餅関連記事がなかなか見つからない理由、こういうところにもあるのだろうか?

ピザはあこがれの食べ物だった

「ピザにまつわる思い出やエピソード」ではあるのだが、「ちょっとしたパーティー感をさりげなく演出する素敵なピザのストーリー」とは大きくかけ離れた記事になる。

「1960年代半ば生まれの、田舎出身者」である私にとっての、「ピザにまつわる思い出やエピソード」。それは、田舎出身ではない人やお若い人にとっては、「何それ? 変。」と思われるお話かもしれない。

 

私の記憶では、地方でも「ピザのデリバリー」が始まったのは、バブルの頃だったと思う。「10回クイズ」が流行ったのも、確かこの時期だった。

1970年代後半、私にとっての「ピザ」は、「マスコミで時々報道されるが、実体がわからない」食べ物だった。また、「ピザ」ではなく「ピザパイ」と言われていた。ピザパイ関連のマスコミ報道に、都会や青春のイメージを私は持っていた。

1980年代前半には、私にとっての「ピザ」は、「冷凍食品のピザ」や「ピザまん」や「ピザトースト」や「ファミレスのメニューにあるもの」となった。

バブルの頃からやっと、「専門店のピザ」イメージが浮かぶようになった。

 

私が「ピザパイ」なる食べ物を知ったのはいつだったのだろう? たぶん、1976年頃だと思う。1976年、この年はアメリカ建国200年の年。私は小6だった。「アメリカのことで、何故日本が騒いでいるのだろう? 不思議だ。」などと考えている、かわいげのないガキだった。

その当時のマスコミでは、「ピザパイとコーラを前に青春を謳歌している、都会の若者」「欧米イメージとしてのピザパイ」という感じの報道が、アメリカ建国200年騒ぎと一緒になされていた。ラジオの深夜放送でも、そのような話がなされていた。姉が買っていた少女漫画にも、「レストランで働いている女の子が、彼氏へ食べさせるピザパイに大量のトッピングをする」シーンがあった。

私が高校を卒業するまで、私の出身地には、「ピザパイの外食ができる店」が(たぶん)なかった。私の家族が、ピザパイに使われる食材を嫌っているという条件までついていた。親が2人とも、チーズ、ピーマン、オニオンなど「ピザパイ定番の食材」を嫌っていた。こうなると、「ピザパイを食べる機会」なんてものは想像つかない。

「親が嫌う、都会にしかない、青春イメージを煽る」といった感じで、私にとってピザパイは、「都会と青春を感じさせる、あこがれの食べ物」だった。

 

1983年、私は実家から遠く離れた大学へ進学した。大学のゼミで一緒だった学生の中に、女子寮に入っている人がいた。その女子寮では年に1回、「寮祭」なるイベントがあった。大学1年のとき、その寮祭に行った。

その女子寮生は、寮祭で「ピザトースト」なるものをつくっていた。私はそのとき初めて、ピザトーストを知った。そして食べた。高校までなら食べる機会すらなかったその食べ物が、気に入った。その後、喫茶店やファミレスで、「ピザトースト」を意識するようになった。

 

バブルの頃、私は一人暮らしをしていた。その頃から、「ピザのデリバリー」関連チラシも見かけるようになった。

「たくさんの種類がある。ポテトやシーフードというものもあったのか。ソースもいろいろある。面白い。ピザトーストとは比べ物にならない。」が、チラシを見たときの感想だった。

当時、ピザを食べるときは、「『一人じゃ食べきれないから、一緒に食べない?』と誰かが声をかけ、複数人で食べる」というケースがほとんどだった。気に入った人と一緒に食べるピザは、私にとってごちそうだった。

 

現在、私は家族と暮らしている。ピザを食べるとしたら、「自分一人で食べきる」しかないケースがほとんどである。今では、プルコギとかカルビとか牛タンシチューとかいったものもあるようだ。これらは、私が一人暮らしをしていた頃にはなかったと思う。新しい味も試してみたい。

1枚で4種類の味が楽しめるタイプのものが、特に食べたい。