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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

挨拶を「条件反射的に」できない 2

「挨拶のできない人は人間失格だ」という言葉が使われるとき、私は次の2種類のイメージを想像してしまう。

 

1.挨拶は「相手からの呼びかけに応じる気持ちがありますよ」という意思を表明する行為である。だから、挨拶をやらないということには、「そのような気持ちなんかないよ」と表明する行為とみなされる危険性がある。

2.挨拶は、「相手に好印象を与え、相手から承認を引き出すためにする」行為である。つまり、「他者とうまく取引するための商品」としての性質を持つ。

「他者に好印象を与えるために、他者に配慮したことがわかるように振舞うこと」などが要請される。「他者をいかにして、いい気持ちにさせるのか」ということに(時として)過度に関心が向けられることもある。

そのため、「配慮されてうれしい」と表明する姿勢が他者から感じられなかった場合に、怒りが湧くケースもありうる。また、「避難や処罰を避けるため」に行うというケースもありうる。

 

「挨拶が苦手だ」と語る人は、2.のような挨拶をさんざん叩き込まれてきた人なのではなかろうか? 私はひそかに疑っている。

 

これまで私は、1.のイメージで挨拶がなされているケースも結構あるのではないかと思っていた。

私に対して、「ぎこちないけど、挨拶という行為を軽視しているわけではなさそうだ」という解釈をしてくださった人は、おそらく1.のイメージでも挨拶をとらえている人なのだと思う。

「呼びかけというのは一方的な行為であって、必ずしも他者が応じてくれるとは限らない」という、解釈をしてくださったのかもしれない。

 

ブクマコメントを読んでいて、「私の考えは甘いんだな。1.はタテマエの世界だ。やはりホンネは2.なのだ。」と思えて仕方がなかった。

「思想がお花畑だ」と言われそうだが、敢えて書く。

「挨拶が苦手と思っている人が、抱えている生きづらさ」の裏には、「2.のような価値観によって彼(女)らが貶められても不思議はない、という態度」や「それを支持する人や社会との関係性」がある(と私は思う)。

それらの価値観や関係性は、「挨拶に苦手意識を持たない人をも苦しめる」事態となることもありうるのでは?

そしてその視点に立ったとき、「挨拶に苦手意識を持つ人が抱える生きづらさ」は、そうでない人にとってもかかわりのある問題となりうる。

つまりは、「挨拶に苦手意識を持つ人が抱える生きづらさ」について考えるということは、翻って、そうでない人にも生き方や社会のありようを問い直し、いろいろな人の生き方をより豊かなものにしていく機会にもなりうるかもしれない。

私は密かにそう思っている。