「ニュータイプかもしれない」に隠された、甘い罠 1
発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない~アスペから自閉症スペクトラムへ(田中 俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース
私の付けたブックマークコメント
いろいろな疑問を感じる記事。それらについてブログに書いてみたいのだが、文章がうまくまとまらない。
文章がうまくまとまらないまま、強引に書いてみる。「暴力的読解に基づいた暴力的見解」と解されるかもしれない見解を。
「ある種の空気を忠実に読んで、お書きになったんだろうな。田中氏は。」と、元記事を読んで最初に思った。
ある種の空気とは
・発達障害者と直接全面的に向き合うなんて面倒。
・発達障害者本人と家族或は本人と支援者の間に、対立や葛藤なんかが発生するのは面倒。だから、一枚岩になるように発達障害者本人を懐柔する必要がある。
↓
・精神医学の問題にしてしまえば、その専門家と発達障害者本人と家族のみが対処すればいいというだけの問題に落とし込むことができる。そして、それ以外の人は、関わらなくてもよい「我々非発達障害者の世界」に逃げ込める。
「ただし、これらの空気についてストレートに書いたら反感を買うことも予想される。そこで、元記事では次のような表現を使った。」といったところなんだろうな。と私は考えている。
1.発達障害者を取り囲む問題のありかが、「不寛容な近代社会」と「発達障害者」間の二者関係にある。
2.アスペがせっかく市民権を得始めたのに非常にもったいないと思う。
3.当事者やその家族が、ある程度の障害名とカテゴライズを受け入れることで、近代社会がもつ「障がい者支援」制度のサービスを受けることができる。
(他にもあると思われるが、現時点ではとりあえずこの3つだけにしておく。)
私の見解
1.について
この二者関係に対して、田中氏はどういう立ち位置におられるのだろう? 正直言って、田中氏は、「対岸の火事」を見物するような姿勢でいるように、私には思える。
「二者関係にある」というのは、ミスリーデイング(misleadingである。misreadingではない)に思える。
2.について
アスペが市民権を得ていれば、自らの生活から『不寛容な近代社会と、発達障害者やその家族』を締め出しても、平穏に暮らすことができる。「不寛容な近代社会と、発達障害者やその家族」なんかに絡まれるのは面倒だ。
という意思表示の、婉曲表現だと思う。
3.について
「発達障害者も非発達障害者も、近代社会を構成する一員として肯定する。『発達障害者は主体的にハンディキャップをもっているというよりも社会からハンディキャップを与えられている』と捉える寛容さを、我々は持っているのだな。」と、田中氏は主張なさりたいのだな。と私は思った。
しかし、この主張の裏には次のような思惑も隠れているのではないかと、私は考えている。
「発達障害者本人やその家族と障がい者支援サービス関係者について、思いを巡らす必要なんかない、我々の世界」と「発達障害者本人やその家族と障害者支援サービス関係者の、世界」の2つが存在する必要がある。これらには、明確な線引きが必要である。何故なら、前者における快適さが、後者によって侵される恐れがあるからだ。
つまり、この主張には、非発達障害者と発達障害者との間に「抑圧―被抑圧」という関係が存在しうるということを、隠蔽する働きがあるということになる。
そして、ここで主張されている近代社会は、「発達障害者も非発達障害者も存在する、一つの世界」ではなく、「我々の世界」と「彼(女)らの世界」の二つの世界である。
「ある種の空気を読んで、対岸の火事を見物するような態度で発達障害を見る」という方針でなされる、「発達障害者支援」は、誰のニーズが優先されるのだろう? 誰のニーズが優先されたかということについても、うまく隠蔽がなされるんだろうな。
と私は疑っている。