karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「ニュータイプかもしれない」に隠された、甘い罠 3

 「『ニュータイプかもしれない』に隠された、甘い罠 1 と 2」 を読んだ人の中には、次のような反論が浮かんだかたもおられるかもしれない。

 「対岸の火事を見物するような立場」という表現には悪意を感じる。そうではなくて、アーヴィング・ゴッフマンの提唱した「儀礼的無関心」のような立場なのでは? 非発達障害者が発達障害者に対して、「障害名やカテゴライズを無視した状態で過度に関心を持つ」が故に、両者間の関係が険悪になるのでは?

ウィキペディア 儀礼的無関心

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%80%E7%A4%BC%E7%9A%84%E7%84%A1%E9%96%A2%E5%BF%83

 

その反論に対しては私は、「非発達障害者が発達障害者に対して持つ反感は、次のようなことが背景となって浮かんでくるものだと考えている。

前者が、「後者を、自分たちとは異質な存在として遠ざけたい」と思う一方で、「前者と共通する部分も、実は自分たちの中に存在しうる」という思いも心のどこかにある。存在しうる故、前者に対する「近親憎悪的な反感」が湧いてしまう。

 

  発達障害者は現在、労働市場や社会サービスやいろいろな社会関係から、結果的には排除されているケースが多いと考えられる。 こうした中で、挙句の果てには自分で自分を責めるという事態となっている。多くのものから排除されながら、誰よりも厳しく自分たちに対して厳しいまなざしを向け、自分自身の存在価値を根本から疑っている。

   そして、それらの排除とつながっている社会は、発達障害の有無を問わず私たちすべてを苦しめている社会でもある。この点においては発達障害者も非発達障害者も地続きの存在であると、私は考える。

 

  非発達障害者が発達障害者に対して厳しい目を向ける背景には、往々にして、「この社会で生きるのは誰にとってもつらくて苦しいことだ。それでも、自分は頑張っていろいろなことをこなしている。」という訴えが隠れているのではなかろうか。このような中にあって、「発達障害者」は、「自分勝手にふるまってのうのうと暮らしている、お気楽な奴ら」に見えるのかもしれない。

発達障害者への反感や非難の裏には、不寛容な社会で生きざるを得ない人々のいらだちが隠れている。そしてそこには、「自分だって、発達障害者のように自分勝手にふるまっても平気になりたいぐらいだ」という思いも隠れているのではないか。私はそう考える。

つまり、基本的には「発達障害者と重なる部分も存在しうる」とみなしているからこそ、「自分たちにはできるのに、どうしてお前ら発達障害者にはできないのか」という思いに向かっていくのではないか。私はそう考える。

こうなってしまうと、「双方で問題意識を共有する」という方向にはおそらく向かわないだろう。

 

   非発達障害者が発達障害者に対して感じる(ということになっている)迷惑性は、どのようなものであるのか。おおざっぱにいえば、次の2点となると私は思っている。

 1.自分の置かれている状況が読めず、物事の効率的処理を妨げ、予定調和を狂わせる。

 2.いろいろな人のメンツや人格に傷をつける。そのことによって、被害意識が喚起される。

 (例  拙ブログ2013年4月18日付記事 挨拶を「条件反射的にできない」 )

 http://karotousen58.hatenablog.com/entry/2013/04/18/024944 

 

  では、この「迷惑性」について発達障害者はどのような思いを抱いているのか? このことについて、発達障害者側の意見がなかなか見つからない。次のような思いを抱いているのでは? と私は認識している。

 ・この「迷惑性」を本人は「自己否定」として認識している。「自分にはこういうダメなところがある」という部分否定ではない。「自分はダメな人間だ」という、全否定である。

 ・そして、しばしば彼(女)らの自己否定は、周囲の人間との関係の中で、「申し訳ない」という負い目や罪悪感の性質も同時に持つ。そこで、彼(女)らはただ単に自分に能力がないからという理由だけで自分を責めるわけではない。自分の「至らなさ」によって周囲の人々に迷惑や負担や不快感を与えているという思いにとらわれて自分を否定し、自分を責め、自分を貶す。

 ・これらの「自責」と「集団行動」が絡んだ場合、「みんなががんばっているのに、自分だけががんばっていないような結果しか出せない。自分だけがこんな状態であるのは申し訳ない。」という思いとなっていく。つまり、「自分自身の至らなさ」だけが問題となるわけではない。「他人や集団との関係の中での、自分の至らなさ」を問題としてより強く認識する。

  

  ここで、「関係性」を変えることができたら、同じ「至らなさ」でも自虐の強さを減ずる方向へ進むことができるかもしれない。しかし、相手が「対岸の火事を見物するような立場」でしかない場合は、正直言ってそのことは期待できない。

発達障害者に対して安易な共感を示すよりも、「彼(女)らと何を共有できて、何を共有できないのか」を見極めようとすることやそこから思考を組み立てていくこと」のほうが大切だと私は思う。

 

  田中氏は、この、「『迷惑性』についての、発達障害者の思い(と私が認識していること)」について、ほとんど眼中にないのでは? と私は疑っている。「能力の問題」としかみていないのでは……と私には思える。そして、世間一般において「発達障害」について語られる場合も同様ではないかと、私は思う。

 

 (まだまだ続く)