「ニュータイプかもしれない」に隠された、甘い罠 5
元記事では、「生きづらくない環境づくり」という提言がなされている。しかし、私はこの提言を額面通りに受け取る気にはなれない。「田中氏も近代社会をつくっているうちの一人」という発想がなされているのだろうか?疑問を感じる。
田中氏は、「近代社会は不寛容性を持つものである。だから環境づくりを。」という主張をなさっているようである。しかし、この主張は、次のような本音を隠蔽するための「甘い罠」だと私には思える。
・「近代社会の不寛容性」とみなされているものの、「具体的な中身」や「不寛容さが生み出されてしまう社会的な過程」や「不寛容さの可変性」について考えるなんて面倒だ。
・同様に、「近代社会以前は本当に精神や発達障害者が排除されていなかった」という見解が正しいのか? ただ単に、問題が明るみに出なかったというケースはないのか? などと言ったことについても考えるのは面倒だ。
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障がい者支援制度の対象として、「専門家と本人と家族のみが対処すればいいというだけの問題」に落とし込みたい。
障がい者支援制度の対象として、「専門家と本人と家族のみが対処すればいいというだけの問題として落とし込む」という策のもとでは、「障害の有無を問わず私たちすべてに抑圧を強いている社会」の構造は温存される。
精神障がい者や発達障がい者を「近代社会の成立を妨げる者」と名付けた側からは、「精神障がい者でも発達障がい者でもない者」は、「近代社会を成立させるというレールから、外れていない者」を意味する。
このレールから外れないということは、その人にとっては、実は苦しいことでもありうる。何故なら、レールから外れた(或は外れざるを得なかった)人々に対する羨望のまなざしと裏返しのことにもなりうるから。
「私たちすべてに抑圧を強いている社会」のもとで、苦しみながらもこのレールから外れていないと自認している人が、「支援を受けた精神障がい者や発達障がい者」を目の当たりにしたときに、次のような思いを抱くのではなかろうか?
「自分勝手にふるまってのうのうと暮らしている、お気楽なご身分の奴ら」と自分が同じように扱われるのは理不尽だ。という思いを。
そして、このような思いが支配する世界では、「生きづらくない環境づくり」は実現可能なのか? 疑問を感じる。
(次回、まとめ記事を書く予定)