karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

読書について

正直言って本を読まない人を見下している

私のブクマコメント

高校までは読書嫌いで、大学で好きになった私。高校までは、「本を読まなきゃ心の豊かな人になれない」とか「読んだだけではだめ」とか言われ続けて嫌いになった。大学でそれらを強要しない読書家と仲良くなった。

 

 元記事を読んで、いろいろなことが頭に浮かんだ。「本を読まない人の価値観を知りたい」という記述が特に印象に残った。私は高校卒業までは「本を読まない」人間だった。

元記事では、「本を読まないこと」と「本を読んでも自分の頭で考えないこと」が見下しの対象となっているようだ。高校までの「本を読まない」私は、「本を読むのは苦痛なこと」と「どうせ、私が考えたり感じたりすることなんて、まともなものは何もない。」という思いにとらわれていたのだ。

 

 それらの思いから解放されたのは、大学時代に幸運に恵まれたことにあった。

 大学時代に、「本当に読書好きな友人」に恵まれて、気がついたら私も読書好きになっていた。「その友人に気に入られよう」とか「読書しなければバカと思われる」とかいった思いを持つことなく、気がついたら読書好きになっていた。

 その友人は、読んだ本やこれから読んでみたい本について、実に楽しそうに話していたのだった。聞いている私も楽しかった。そして、その友人の周りには、やはり読書好きな人が集まってくる。その集まってきた人の話を聞くのも、私にとっては楽しいことだった。

 私が読んだ本やこれから読んでみたい本について、その友人に話したことも何度もある。高校卒業まで読書嫌いだったのだから、本についての意見や感想も稚拙なものしか言えなかった。しかし、その友人は、稚拙なコメントでもバカにした態度を取らないで聞いてくれた。友人の周りに集まってくる読書好きな人も、「稚拙なコメントをバカにする」人はいなかったように思える。

  

 高校卒業まで(特に小学生時代)、私は親から読書をしろとうるさく言われていた。しかも、「親の好みに合った本」でなければだめだと言われていた。大人になった今推測するに、どうやら親は読書好きではなさそうだが。

当時、身近な大人は、私のことを「情緒的な面での成長がみられない子供」とみなしていたようだ。「karotousen58に年齢相応の豊かな心を持たせるためには、本を読ませなければいけない。人の心が描写されている本でなければならない。」と、親や教師は思っていたようだ。

 一方、私のお気に入りの本は、「図鑑(解説のページも詳しいもの)」や「科学的な本」だった。それらの本は、「情緒面の描写のほとんどない、karotousen58にとっては悪書」と、親や教師は認識していたようだ。

「情緒面の描写がなされている本」を、親や教師は何度も私に読ませた。当時の私には、それらの本は面白くなかった。読解力もなかった。

 それだけではない。特に初等教育では、読書感想文をはじめとして「本を読んだ感想」を言わされる・書かされることがよくある。感想を求められても、私は固まってしまうだけだった。あらすじ程度しか言えなかった。

固まっている私に対して、「お前には本当に心があるのか」とか「読むだけではだめ。感じたことが全然ないのではだめ。」と親や教師は言い続けた。

 「感想」なるものが私の頭に浮かんだ場合でも、その感想は、「年齢相応(と親や教師が認識している)のもの」ではなさそうだった。その「感想」を正直に述べると、「その感じ方や考えはおかしい、間違っている。どうしてまともに読めないのだ。」と怒られた。

 こういうことが続いて、私は読書嫌いとなった。

 

 「本を読まない人」の中には、「本を嫌いにさせられた人」とか「本の魅力を伝えることのできる人にめぐり合うチャンスが、ほとんどなかった人」とか結構いるんじゃないだろうか?

 そう思えて仕方がない。