謝罪は本当に難しい 3
謝罪を受けることも、私にとっては本当に難しいことだ。
「許しを表現するスタイル」の中には、私が当惑してしまうものもある。
・「トラブルに関する状況分析や本人の事情について、詳しい説明をする」という行為を、「過ぎてしまったことを蒸し返すだけだ。お互い気持ち悪いからそんなことはあまりやらないほうがいい。」とみなす。
プラス
・「魔が差した」とか「巡り合わせが悪かった」とかいったことで、「はい、おしまいにしましょうね。」となる。
このような「許しを表現するスタイル」が採用されることが、おそらく多々ある。
私は、このスタイルに当惑してしまう。
謝罪をする側が「このスタイルに基づく許しを、私に臨んでいる」場合、私はきちんと「自分の真意を相手に伝えること」ができるかどうか、確信が持てない。
下手をすると、「理屈をこねて、謝罪をした側をイビリ倒そうとしている」と解釈されかねない態度をとってしまいそうだ。
謝罪は本当に難しい 1 で、『反省させると犯罪者になります』という本で書かれていることは、「『許しに関するスキル』を磨いたうえで『反省』という行為をとらえなおすことが、大切だ」という意味なのだろうか? と書いた。
この本を読んで頭に浮かんだ「許しに関するスキル」は、「私が当惑するスタイルの許し」とは違うタイプのものである。
この本では、次のように書かれている。
事件の加害者であるはずの受刑者が、むしろ自分が被害者であるという認識を持っており、被害者に対して攻撃的な感情を持つことさえある。例えばある受刑者は、自分が殺した相手に対して「あいつさえいなければ、俺は刑務所に来ることはなかった」などと語る。
「自分が悪事を働いたくせに反省が足りない」と怒りを覚える人も多いだろうが、これは心の反応としては自然であると、著者は認識している。
受刑者は確かに加害者であるが、受刑者の心の中の「被害者性」にも目を向ける必要がある。
最初から「形式的な反省文を書かせて、事件の被害者のことを考えさせる」という方法は、受刑者の心の中にある否定的な感情に蓋をして更に抑圧を強めさせることになる。
従って、まずは「加害者の視点」から始める必要がある。自分が傷つけた相手に対する「否定的な感情」を否定せず、本音で否定的な感情を吐き出し、自分の心の痛みを理解する。
否定的な感情を吐き出すということは、今更見たくもない過去の自分の「心の痛み」と直面することである。
受刑者が自分の心の痛みを理解して初めて、自分が傷つけた相手の心の痛みに思いが至る。そこから真の反省を始めることができる。
自分が傷つけた相手に対する「否定的な感情」を否定せず、本音で否定的な感情を吐き出し、自分の心の痛みを理解する。
という行為は、ひょっとしたら、
「どういう条件が満たされたら、相手を許せるか。或は、許せないにせよその思いと何とかうまくつきあっていけそうか。」をじっくり考える。→「許しに関するスキル」を磨く ということにつながるのかもしれない。
受刑者が自分の心の痛みを理解して初めて、自分が傷つけた相手の心の痛みに思いが至る。そこから真の反省を始めることができる。
という記述は、
「許しに関するスキル」を磨いたうえで、「反省」という行為をとらえなおす ということにつながるのかもしれない。
私はそう思った。
ここでまた、新たな疑問がわいてきた。
この2つのタイプの「許しを表現するスタイル」を、他の人は使い分けているのだろうか? だとしたら、どうして私はうまく使い分けられないのだろうか? この2つを分けるものはいったい何なのか? という疑問が。
この2つをわけるものには、「外界を把握するスタイル」も含まれているのかもしれない。
「私が当惑するタイプ」の場合は、謝罪がなされているいま・ここの状況を、「直感的・感覚的・全体的に把握」して「感情や外界の状況と一体化」して、行動がなされているのだと思う。私は、このような把握や行動がうまくできない。
「もうひとつのタイプ」の場合は、「いま・ここよりも前の状況について、じっくりと考えていく」ことから始まっているのだと思う。「私が当惑するタイプ」の場合よりも、「反応が遅く、動きがぎこちない」とみなされるかもしれない。
「もうひとつのタイプ」の「許しに関するスキル」が高いと思われる人が、私の身近には結構いる。
しかし、彼(女)らは、「自分にはコミュニケーション能力がない」と認識しているようだ。実際、そのように言われることもあるらしい。
「自分は集団になじめない人間だ」「誰かの行動に対して、素早い反応ができない」「ノリが悪い」だから、コミュニケーション能力がない。というふうに。
「もうひとつのタイプの、許しに関するスキルが、高い」ことも、コミュニケーション能力の一つだと私は考える。
「許しに関するスキル」という観点から、「コミュニケーション能力を評価する軸」について再考してみてもいいのでは? と私は思う。
(次回に続く)