「アスペルガー症候群バッジ」に対する疑念 1
アスペルガー症候群の人間には、そうと分かるバッジを付けさせろ - Whatever
私のブクマコメント
「理解」像が不明。誰がどういう立場から理解しようとして、どんなことがわかったら理解したことになるのか?それらの内容によっては、「理解」は危険な言葉になりうる。他にも疑問あり。後で拙ブログに書く予定。
元記事を拝読して、「ダビデの星」という言葉が頭に浮かんだ。
正直なところ、「アスペルガー症候群バッジは、狡猾な人に悪用される危険性が大」だと私は思う。
狡猾な人がどのように悪用するか? その悪用は、次のような思惑を隠した形で「アスペルガー症候群を理解する」ということで始まると、私は思う。
・アスペルガー症候群の本人は、「非アスペルガー症候群の人による、うちらの世界」を侵す。
・アスペルガー症候群の本人には、「専門家や周りの人にとって都合の良い、アスペルガー症候群役割」を押し付ける必要がある。その際、アスペルガー症候群の本人側が、己を恥じて(←ここ重要)精進することが必要となる。
・しかも、アスペルガー症候群の本人側が押し付けに無自覚でいられるようにする必要がある。否、むしろ、本人に「自発的にアスペルガー症候群役割を選択した」と認識させる必要がある。
つまり、「アスペルガー症候群の本人以外の人」が、「非アスペルガー症候群の人による、うちらの世界」の常識を学び取らせようという立場から理解しようとして
「アスペルガー症候群の本人」が「非アスペルガー症候群の人によるうちらの世界にとって都合がよくなるように、振る舞いを変えさせるための方法」がわかったら
理解したことになる
という形の「障害理解」となって危険だと、私は考えている。
次回は、「理解」という言葉に対して私が持っているイメージ等について書く予定。