karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「アスペルガー症候群バッジ」に対する疑念 3

アスペルガー症候群の人間には、そうと分かるバッジを付けさせろ - Whatever

私のブクマコメント

「理解」像が不明。誰がどういう立場から理解しようとして、どんなことがわかったら理解したことになるのか?それらの内容によっては、「理解」は危険な言葉になりうる。他にも疑問あり。後で拙ブログに書く予定。

 

前回書いた、「生きづらさ」→「問題化」→「解放」のイメージ

 

before:生きづらさを抱えた、アスペルガー症候群本人

問題をたてる:「生きづらさはどこからくるのか」という問題がたてられる。

問題解決の方法を検討

after:生きづらさが軽減された状態

 

つまり、「生きづらさ」はまず、「問題」と変換される必要が出てくるということになる。

この「問題化」については、次のことに注意する必要がある。

・問題解決は、必ずしも、「生きづらさへの直接的な対応」となるとは限らない。あくまでも、「問題に対する答え」である。

・どのようなことを「問題」と認識するかによって、解決の方向が変わってくることもある。

アスペルガー症候群本人が「問題」と認識する事柄と、本人以外のそれとは、必ずしも一致するとは限らない。

・たてる問題は一つとは限らない。「どの問題を中心に考えるか」によっても、解答や軽減の道筋が変わってくる。

・問題は必ずしも、意識的にたてられるとは限らない。「気が付いたら自分はその問題に囲まれていた」というケースも多々ある。

 

「アスペルガー症候群バッジ」に対する疑念 2 - karotousen58のブログで書いた「残念な二択」状態で「問題」をたてる場合、次のようなことになると考えられる。

・たてられる「問題」は「専門家やマスコミ報道などによってつくられていったもの」であり、「アスペルガー症候群本人以外の思惑、集団や制度等の絡んださまざまな言説や行動」が積み重なっている。

・「アスペルガー症候群本人の生きづらさ」という観点よりも、「アスペルガー症候群本人が何とかして、非アスペルガー症候群のうちらの世界を侵さない言動を身につけてほしい」という願望の下に問題をたてる

アスペルガー症候群本人にとっての問題」は、「何とかして言動を変えてほしい」という問題へと変えられる。つまり、ここでの「解決のイメージ」は、アスペルガー症候群本人以外の人に都合の良い言説によって作り上げられたものになる。

 

このような展開の下では、「生きづらさ」→「問題」→「解決」という道筋をたどるというよりはむしろ、「最初に解決のイメージありき」→「そこから問題が探られていく」という道筋をたどることになる。

この「解決のイメージに連なる問題」は次の発想から成り立っている。

アスペルガー症候群本人の心や能力」によって「非アスペルガー症候群のうちらの世界」が乱される。彼(女)らが言動や心をなおせば、それが解決の方向に向かう。という発想から。

 

この発想は次の視点が軽視されている。私はそう考える。

・「時代や社会の中に、生きる人間」という視点

・「『状況から問題が発生する』ことも、ありうる」という視点

そして、それらが無視された場合、「社会・経済・政治的側面から発生する問題があった場合でも、それらが発見されにくくなったり無視されたりしていく」危険性がある。私はそう考える。

そのようなことがあった場合、「本人の自助努力」は徒労に終わる危険性があると思う。

 

まとめ

・「アスペルガー症候群に関する知識」を「社会規範や社会的状況や周りの人との関係性で捉えなおしたうえで、いろいろな関わり方を考えていく」という方向性も必要。それらが軽視された状態で、「アスペルガー症候群バッジ」を使うことは危険。私はそう考える。

・「アスペルガー症候群本人が抱えている生きづらさ」の裏には、「アスペルガー症候群本人を貶め、苦しめている価値観」や「それを支持する社会や人との関係性」がある。それらの価値観や関係性について、次のような考え方もできるのでは? 私はそう考える。

1.その価値観は、非アスペルガー症候群の人をも苦しめている場合もありうる。

2.  1の視点に立ったとき、「アスペルガー症候群本人の抱える生きづらさ」は、彼(女)らと同じ社会に生きる人すべてにとってかかわりのある問題となりうる。

3.つまりは、「アスペルガー症候群本人の抱える生きづらさ」について考えるということは、翻って非アスペルガー症候群の人自身に生き方や社会のありようを問い直し、非アスペルガー症候群の人の生き方をより豊かなものにしていく機会にもなりうる。

 

(ひとまず完結)