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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「学校内でのいじめ」のまわりにあるもの 1

 いじめてた経験のある俺が、いじめを無くす方法考てみる。

  

学校内での「いじめ」は、渦中にある本人にとっては「生きづらさを生じさせるもの」である。

生きづらさはどこから来るのか、問題をたてる→問題解決の方法を検討→生きづらさの軽減

の過程において、「問題」や「解決」はどうイメージされるか?

そのイメージは、おそらく、次の2種類のものが語られることがほとんどだろう。

・いじめをなくそう

・いじめはなくならない。だから、エスカレートさせない方法を考えよう。

 

これらは、「いじめた子との関係」から生じた生きづらさと考えられる。

ここで、私の中に疑問が起こる。「生きづらさを生じさせる原因となるのは、いじめた子やその場にいた他の子だけなのか?」という疑問が。

義務教育を受けていた頃、私はいわゆるいじめられ者であった。からかいや暴言などの、コミュニケーション操作系のいじめを受けた。学卒後も、「あんた、子供の頃いじめられっ子だったでしょ?」と言われることがよくある。

私の場合は、「生きづらさを生じさせる問題」は、前述の2点以外にもあった。その問題には、「身近な大人」が絡んでいた。

「学校内でのいじめ」のまわりにあるもの・こととして、「身近な大人が、いじめについてどのような解釈をしてどのように子供に接したか」ということが重要な意味を持つ場合があるのでは? と私は疑っている。

 

いじめられた子供にたいして、身近な大人がとる態度として、次のものを考えてみる。

1.いじめを受けたからといって、へこみ続ける必要はない。いじめた人による自分勝手な解釈に、わざわざ自分を合わせる必要もない。跳ね返して生きていく強さを持つ方法を、考えていこう。

2.いじめられたというけれど、それは単なるからかいだ。ジョークのわからない暗い子供ではいけない。つまらないことに目くじらを立てるな。笑ってやりすごせばいいだけのことだろ。

 

1と2とは大違いだと私は思う。

1では、「自らの存在の、大切な部分を否定された」という思いに対して、身近な大人も向き合おうとする態度が感じられる。向き合うことによって、いじめにまつわる排除や差別などの問題性を考えることもできる。

2では、「自らの存在の、大切な部分を否定された」という思いを感じ取ろうという方向性が感じられない。「単なるからかい」の中に「排除や差別などの問題性」が隠されている場合でも、それらについては無視されてしまう。それだけではない。いじめられた側が応酬や反撃をしようものなら、大人げないとか考えすぎだとか大袈裟だとか精神的に弱すぎるとか言って、更にからかいの対象としていく。いじめにまつわる排除や差別などの問題性を考えることは、なされないままである。

 

私の身近にいた大人は、2の態度を取り続けた。

大人になってからの後知恵ではあるのだが、「いじめをやめないという問題」「エスカレートするという問題」よりも、「いじめに対して、身近な大人が2の態度を取り続ける問題」のほうが、私にとっては重要な問題だったのだと思えて仕方がない。

もっとも、子供だった頃はそれを意識していなかったのだが。当時は「相手がいじめをやめない」という認識しかなかった。

2は、「身近な大人によるいじめ」と捉えてもいいと思う。大人が子供をいじめる場合は、「教育的指導」という大義名分もつく。だから、子供は反駁が困難である。それだけではない。他の子供に対して、「こいつはいじめてもいい奴だ」というお墨付きが与えられたようなものでもある。

私がこの「身近な大人によるいじめ」に気づいたのは、30歳頃だった。気づいたときに、ほっとしたのを覚えている。

 

他の人の場合は、この「からかいに対する過剰反応として、片付けられ続けること」がいじめにおける最大の問題とはならないのだろうか?

私以外にも、「本当は最大の問題となっていた。しかし、それに気づかないように抑圧していた」という人は少なからず存在するのだろうか? もしも存在するとしたら、どうして意識化されないままになっているのだろう?

といった疑問が、私の中に浮かんでいる。