karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「学校内でのいじめ」のまわりにあるもの 2

いじめてた経験のある俺が、いじめを無くす方法考てみる。

私のブックマークコメント

いじめの陰には、「身近な大人の価値観」が隠れていることも大あり。コメント1079と1345には、それが反映されていると思う。身近な大人が「集団の空気を乱す子」と解したのを見抜き、いじめではなく矯正という感覚へ。

 

「学校内でのいじめ」のまわりにあるもの 1 - karotousen58のブログで、

>「からかいに対する過剰反応として、片付けられ続けること」がいじめにおける最大の問題とならないのだろうか?

>「本当は最大の問題となっていた。しかし、それに気づかないように抑圧していた。」という人は少なからず存在するのだろうか?

>もしも存在するとしたら、どうして意識化されないままになっているのだろう?

という疑問について書いた。

今回の記事では、これらの3つの疑問の背景となっているものについて書く。

 

「学校内でのいじめ」は、実は、子供たちが「大人たちにとっての正義」を忠実に読み取った上で行われている。私はそう考える。

それらの「正義」を強く持った大人が、特定の子供を「正義に反する子供」とみなす。→その子供は、大人によって「制裁を加えられてもいい存在」と認定される。

そして、子供は、社会で権利を制限されている。また、子供にとっては大人は権力者である。その大人が「正義」という正論の下で特定の子供を攻める。→「その特定の子に、制裁を加えてもよい。」というお墨付きが得られたと、子供が解する。→「いじめ」ではなく、「矯正のために、やってあげている」という感覚に、子供も大人も陥っていく。

いじめられた子供も、「正義」故に「大人が率先して、自らの存在の大切な部分を否定した」と認識できない。認識したとすれば、それは本人にとってはとても辛いこととなりうる。

といったところだと、私は思っている。

 

では、「大人たちにとっての正義」は、いったいどのようなものであるのか。それについて書いていく。

私の場合は、当時の大人が、いじめの原因や解決イメージについてを次のように捉えていたのだと思う(大人に確認したわけではないが。確認しようにも、「昔のことは忘れた」とか「過ぎたことを蒸し返すな」としか言われないだろうと思う)。

1.  いじめがエスカレートしていく原因を、「集団行動の場で協調的態度を取れない、子供個人の性格や人格や技能」に帰属させる。ここで、「大人たちにとっての正義」が適用された場合、「いじめられている子供本人がいじめ問題の主因、他の子供がプラスアルファ」と、みなされる。

2.  性格や人格や技能を、(特に大人にとって)「望ましい」状態に変えることによって、問題は解決される。変わらない・変わろうとしない子供は、「わがまま」である。不平を言わず、自分のやましい心を見つめて自分を責めることが、最低限必要である。

3.  1と2から、「学校内でのいじめ」は、「子供(特にいじめられた側)が、貴重な教訓を得られる体験」である。

 

当時の大人が捉えていた(と私は認識している)、いじめの原因や解決イメージにおいては、「大人たちにとっての正義は、本当に(どこまで)正しいのか」「その正義に対する逸脱は、どのような意味で問題なのか」については、吟味されることはほとんどないと思われる。

また、「状況を再度分析して、問題をたてなおす・新たな選択肢や解決案を考え出す」という方向性は、閉ざされている。「自分の身の安全」を求めることでさえも、「自分勝手」とみなされてしまう。

  

「大人たちにとっての正義」を支えている見解は、次のようなものだと私は思っている。

・「子供たちを、集団の中で常識的な振る舞いができる人になるように、教育する必要がある。集団行動で協調性を身につけるようにさせなければいけない。集団行動はとても大切。」という使命感に満ちているものである。だからこそ、大人にとっての正しさが疑われる可能性は極めて低い。

・自己イメージや自尊心といったものを支えてくれるのは、友人関係などの身近な人々とでの直接的な関係である。

そして、その見解の下で、大人たちは子供に対して次のような解釈をする。私はそうとらえている。

・(特に、いじめられる側が)自分の感情をコントロールする力が弱すぎる。また、TPOに応じた「適切な感情」を持てていない。「感情の表出を抑えること」と「ある感情を別の感情で代用すること」と「自分の感情をアピールすること」の使い分けができていない。

・(特に、いわゆる「傍観者」とみなされた側が)自分の「本当の」気持ちを相手に伝えようとせず、自分の心を閉ざしている。友人関係を成立させようとする意欲に欠けていて、上辺だけで適当に付き合おうとしている。「いじめ・いじめられ」の関係にある子に対して、「関心がない」という態度だ。集団活動を通して、「自分勝手はやめよう」とか「人のために尽くそう」という道徳心を身につけさせるようにしなければいけない。

 

では、大人たちにとっての、「集団の中での、子供の常識的な振る舞い」像とは一体どんなものなのか?

実はこの「常識的な振る舞い像」が、「最大の問題となっているのに意識化されないままになっている、主因」である。私はそう考えている。

次回はこのことについて書く予定。