karotousen58のブログ

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「学校内でのいじめ」のまわりにあるもの 3

「学校内でのいじめ」のまわりにあるもの 2 - karotousen58のブログで、

>では、大人たちにとっての、「集団の中での、子供の常識的な振る舞い」像とは一体どんなものなのか?

>実はこの「常識的な振る舞い像」が、最大の問題となっているのに意識化されないままになっている、主因」である。

と書いた。

今回は、

・この「常識的な振る舞い像」が、「集団は、ときとして暴力性を持つものになる」という発想を否定した状態で、子供に要請されている。

・「学校内でのいじめ」は、この「常識的な振る舞い像」が、「暴力化して退行した集団」と表裏一体の関係にある状態でエスカレートしていく。

この2点が「学校内でのいじめ」のまわりにあるものだと、私は思う。

 

大人たちは、「子供にとっての、学校や集団が持っている意味」をおそらく次のようにとらえている。

・学校は、集団とのかかわりを学習するための場として、最重視されるべき場だ。

・自己イメージや自尊心といった「自分の核」となる部分を、支えてくれるのは、身近な人々との関係である。

・「自分は誰かから必要とされている」ということによって、自分のアイデンティティーが保たれる。

・「自分の判断を貫いて物事を決めて行動する」とか「自分の頭で考え抜いて結論を出す」といったことは、わがままな態度である。「偉い人はどういう意向なのか」「周りの人はどう考えたり感じたりしているのか」ということを手掛かりにして、物事の判断や決断はなされなければならない。

・「集団活動では、誰か一人だけでもダメだったら、全員がダメだと思われる。集団活動ができないのは怠けだ。」ということが、重視されなければならない。「円滑な集団活動の妨げになった者」は、罪悪感を持って己を恥じて精進しなければならない。

・「業績達成での失敗」よりも「対人関係での失敗」が重視されるべきだ。「自分自身で何かを達成させるということ自体」よりも、「達成できたことで周囲が喜ぶ」とか「周囲が喜んでいることを知って、自分も嬉しくなる」といったことが重視されなければいけない。「業績が達成できなかった」という事実よりも、「できなかったことで、大勢の人に迷惑をかけた」という罪悪感をもつことが大切だ。

 

「学校や集団の持っている意味」がこのようなものである場合、集団内ではどのような振る舞いが要請されるか。

それは、次のような要請となる。

・自分自身の判断で物事を決めて行動するのは危険だ。群れて周囲の行動をうかがい、互いに調子を合わせた行動をとれ。

・「自分に自信が持てない」という無力感から来る不安を、「周囲に好意をつなぎとめておく」ことによって紛らわせろ。

これらの要請は、「人は基本的に、個を持ったひとりである。ひとりであるという孤独を受け止めて、他者と程よい距離を模索しながら繋がろう」という発想とは距離がある。寂しさや責任から逃れようとして、群れをなして徒党を組むという行動に近い。

 

次に、この要請が、「暴力化して退行した集団」となっていく背景について書く。

 

「周囲に好意をつなぎとめておく」ための戦略としては、次の2点が考えられる。

1.同調行動をとり、群れの中に埋没し、周囲の調子に合わせることによって相手の好意を得る。

2.いわゆる「ウケ狙い」をマイルドにした戦略。すなわち、「一緒にいるその時その場の状況を、明るく楽しい状況として維持するよう心掛ける。他人に関心を持たないのは悪いことだ。最悪でも関心があるそぶりを見せなければいけない。場を盛り下げシラケムードを作るような行為は、論外だ。」

→場を盛り上げるような「オーバーな感情表現や、表面的に楽しい気分を表出」する。

 

この戦略は、一個人として取られる場合、暴力性は弱い。しかし、彼らが集団となったとき、すなわち、この戦略が集団の基本的な空気となったときは、相互にエスカレートしあうことになってしまう。

 

このような集団では、例えば、

「嘲笑」はある種の社会的コントロールをするうえで、一つの強力な手段となる。

他人から見下された態度を取られた場合は、

相手にへつらえ。たとえそれが理不尽なものだとしても、「内心の怒りが伝わると、相手や周りの人の機嫌を損ねることになる。そうなれば、自分の安全はさらに脅かされることになる」という方向に走ることになりうる。

集団内の他のメンバーも、「横暴な少数者」の行動に歯止めをかけることが極めて難しくなる。「場を盛り下げ、シラケムードにしてしまう」ことは、避けるべきことであるから。

「自分自身で何かを達成させる」とか「自分の頭で考え抜く」とか「自分ならではの独自のものが何であるのか、じっくりと考える」とかいう態度が悪とされる状態では、「自分自身の力量を向上させる」という発想は否定される。「そんなことよりも、お前の性格をなおせばよいだけのことだ」攻撃がかかるだけである。

更に、「人に好かれるというのは、大切なこと」とか「明るく楽しい集団は、よい集団」とかいう言葉は、正論である。だから、子供の側も否定できない。いじめられた子がこの暴力性を自力で見抜くのは、極めて難しい。

こうして「いじめた子とその場にいた子以外が絡んでくる、生きづらさを生じさせる原因」は姿が見えなくなってしまう。

 

つまり、

「集団の持ちうる暴力性を学び、それをコントロールすること」を学び取る機会がほとんど提供されない状態の下、「寂しさや責任から逃れようとして、群れをなして徒党を組む」ことが推奨される環境で

「集団の中での、常識的な振る舞い像」の正当性や「集団内での存在以外の、人間の在り方について、考える」といったことがほとんどなされない状態で

「集団行動の場で協調的態度を取れない(とみなされた)子の、性格や人格や技能」がいじめの原因とされ、それらを(特に大人にとって)「望ましい」状態に変えることによっていじめ問題は解決。という見解が支配している。

という状態が、「学校内でのいじめの、まわりにあるもの」だと私は思う。

そして、「学校内でのいじめ」のまわりにあるもの 2 - karotousen58のブログで書いた、「大人たちによる、子供たちに対する解釈像」は、火に油を注ぐものになりうる。この解釈像のまま子供に接しても、「いじめ問題が、教育的なものになる」ということにはならないと思う。

(ひとまず完結)