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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「ひきこもり」のまわりにあるもの 2

はてなブックマーク - ひきこもりを地域の力に  - NHK クローズアップ現代

私のブクマコメント

「集団でうまくやれない個人の、病理が原因。何とか外に出せば解決。」という見解のようだな。集団というものは、ときとして暴力的な性質を持つ。「その暴力性への対処法が見つからないから外に出られない」のかも。

 

 ニート学部から“黒歴史学”“奇業学”が誕生!?「NEET株式会社×ひきこもり大学」の化学反応|「引きこもり」するオトナたち|ダイヤモンド・オンライン

私のブクマコメント

記事中の「自分哲学」が、「黒歴史を自虐的にネタにすることに、抵抗有」の場合はどうなのか?私の場合、黒歴史の意味づけや社会規範や価値規範との距離への折り合いを熟考することが必要だった。

 

 

今回は、ひきこもりをめぐる「社会問題化のプロセスと、それに対する対策」についての疑問について書きなぐる。

 

世間一般の見解(と私が捉えているもの)

「ひきこもり」は、「社会参加」への動機づけに欠けている。そのことが最初の問題である。

「社会参加」への動機づけとして、「生活態度の見直しや(実は労働法の適用されない場で)人と交わる経験を通じて職業意識の向上を目指す」という方針が立てられる。

「働けば何とかなる。頭でっかちだから動けないのだ。動くためのきっかけとして、まず、生活のリズムをたてなおして生活ルーティンをつくるんだ。」という類の助言を続ける必要がある。

 

私の見解

「社会参加」への動機づけに欠けているというわけではない。むしろ、そうした動機を強く持っているにもかかわらず、「それでも動けない」というジレンマを感じている。そのことが根本的な問題である。

「生活態度の見直しや人と交わる経験を重ねる」プロセスで、「ひきこもり経験を解消させる」ことは、ごく一部の人を除いては難しい。「そのプロセスで解消できない苦しみ」について考えることが、実は必要である。

 

 

私の経験談

 

1.子供の頃、次のようなことに困難を感じていた。

・不器用で運動下手で、手先の器用さやスピーディーさを要求される作業や身体動作を伴う作業に難儀していた。

・非言語性情報のやり取りに難があり、そのため状況把握や適切な行動について判断がうまくできなかった。

・複数の物事を同時進行することが苦手だった。

・上に挙げた事が、他人の怒りを誘うこともしょっちゅうだった。

 

2.このような状態故、次のエピソードのようなことを何度か経験した。

クラス全員で文化祭の準備に勤しんでいるときに、自分が行動しても何一つうまくいかない。ついには何かに躓いて倒れこみ、他人の作業の成果まで破壊してしまう。自分ひとりで後始末できるわけもなく、予定を延長して他の生徒が補修するハメになる。こうして、他人の怒りを買うことになる。

「あいつは他人に迷惑をかけている。何故俺たちがとばっちりを食わなければならないんだ。許せない。」と。

このようなことが何度も続くと、「最初から何も手を出さない、いわゆるお客様をやってくれ」という態度をとられるようになる。特に、初等教育の場合は、「いわゆるお世話係」の子供がつけられることがよくある。

 

3.学校という場では、このエピソードのようなことは、登校から下校までのいろいろな場面で付きまとうことになる。勉強以外にも給食や掃除等の様々な行動で、班を作って集団行動をやらせるから。

班は6人程度を単位としてつくられることが多い。6人中4人位が要領よく活動すれば、とりあえずは日常生活はなんとかまわる。つまり、「いわゆるお客様」状態でいれば、「みんなががんばって成果をあげているのに、自分一人だけが足を引っ張っている」という罪悪感を持ち続けることになる。

 

4.それだけではない。「学校は、勉強だけをするところではありません。集団生活を学ぶ場です。」とか「人に迷惑をかけないこと。これが一番大切。」とか「たった一人が悪いだけでも、集団全体が悪いという評価がされることになるのです。」とかいった言葉が、世間一般ではしょっちゅう言われる。

状況把握や適切な行動判断がどうすればうまくできるのか、どうすれば上手に作業ができるようになるのか、一緒に考えてくれる人なんかほとんどいない。

つまり、「業績達成の失敗」プラス「対人関係での失敗」を認識してしまうことになる。

「他人を不快にさせた。手間を取らせた。」→「迷惑をかける人は極悪人。性格の悪い人。己を恥じて精進しなければならない。」という解釈がなされる。これが何度も繰り返されると、本人はこの解釈を内面化してしまう。

 

5.これらの経験を積み重ねた「学校という場」は、「学校内でのいじめ」のまわりにあるもの 3 - karotousen58のブログで書いた、「暴力化した集団」と考えられる。この「暴力化した集団」以外の集団が、イメージできない。

「暴力化した集団」でも何とかやっていくための、処世術やスキルやセーフティネットがイメージできない。

また、「いわゆるお客様的順応」が通用するのは、長くても高校卒業までである。その後は、手のひらを返したような態度を取られることになる。「あんた、いったい今まで何をやっていたの。何もできないじゃないの。あんたみたいな人のことをなんというか知ってる? フリーライダー(「ただ乗りする人」の意)と言うんだよ。」などと言われ続けることになる。

 

6.「『暴力化した集団』でも何とかやっていくための、処世術やスキルやセーフティネットがイメージできない。だから、就労という場に出られない。」という思いがあるのだが、周りの人は、その思いを無視する。「自信のなさとプライドの高さ」が原因だと決めつける。

「他の人の目を気にするなんて、うぬぼれるのもたいがいにしろ。他の人のことなんて、そんなにかまっていないものだよ。」などと言われまくる。

しかし、その言葉をかけた張本人は、舌の根も乾かないうちに次のような言葉も言うのだ。

「もっと他の人のことを考えて行動しなさいよ。他の人からは見られているものよ。」などと。

 

7.このような状態で何度かアルバイトに挑戦。しかし、挫折経験が積み重なるだけだった。積み重なるたびに、「やはり自分はおかしい」という思いが強まっていった。

「アルバイトという、金の絡む場で挑戦したから、うまくいかないんだ。それなら、ボランティアという形で修行だ。」と目標を変えても、結果は同じだった。

授産施設で訓練したい」と申し出たこともあったが、断られた。

 

この体験談から読み取ってほしいのは、次のことである。

・「動けなさ」には、「怠けやさぼり」には収まらない「重大な 何か」が潜んでいた。

・私は、「他者と交わる世界」に「単に、外傷をもたらすだけの迫害的な場」というイメージしか持てない状態にあった。そして、当の「他者と交わる世界」が、「ひきこもり」に対する非難に満ちた世界である。

・それ故、そこは私にとっては針のムシロとしか思えなかった。そして、この針のムシロの世界で、自己否定感を抱えたまま、「利益の得られる行動を、積極的にする」ことが要請されている。

 ・それでも「ひきこもり」を白眼視する社会で生きていくには、相当の覚悟が必要。

「自己否定感を抱えながらも、自分の内面についての認識を考えて決着をつけていく」という過程をスキップしたうえで、自らを「強引な社会参加」に駆り立てても、挫折し続けるという悪循環が続くだけ。

 

「頭でっかちだから動けないのだ」という見解とは、私は意見を異にする。

むしろ、「ひきこもっていることの意味づけ」を問わざるを得ない状態にある。

「自らの置かれた状況を適切に(←ここ重要)問題化し、対処するための指針を、社会に流通している様々な言説から事後的に得る」必要性を感じている。

激しい自己批判や、他者や社会に対する不信感と、いったいどのようにして折り合いをつけていくか?

ひきこもったことへの意味づけや、社会規範や価値基盤との距離をどのように意識化して折り合いをつけていくのか?

それらを考える際に、「いろいろな人の生き方」を「自分に重ね合わせて」少しずつ組み立てる、自分なりに考える、納得する、ことが必要となる。

私はそう考える。

 

ひきこもっている本人を評価する基準が、「対人関係や就労の有無」のみに置かれていたならば、このような「意味づけ」に対して否定的な感情が本人にぶつけられる危険性がありそうだ。

その場合、ひきこもっている本人が内面の変化を感じ取っていたとしても、本人がそれを低く評価してしまうかもしれない。

このように自らを貶め、また他者からも貶められ続けるのならば、「社会参加」を果たす道は造れるのだろうか?疑問を感じる。

(次回に続く)