読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

平和教育と裏カリキュラム 2

発達障害

修学旅行生が長崎被爆者に暴言 横浜の中3男子生徒数人 - 47NEWS(よんななニュース)

私のブックマークコメント

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072701224.htmlを思い出した。生徒を庇うわけではないが、「教育目的は、平和に関する事よりも『ありがたいお話を心して聞き、大人が喜ぶ感想を返す』事」という、空気があったのだろうか?

 

初めに断っておくが、この生徒の言動を肯定するわけではない。

 

他の関連記事も読んでみたところ、この生徒に対しては、どうやら、次の見解が多数派となっているように見受けられる。

・この生徒が持っている問題として、「常識や想像力の無さ・悪意・幼稚さ・思いやりの心が育っていないこと」等がある。この不祥事の原因は、それらにある。

・修学旅行は、「勉強という目的を持った」ものである。単なる娯楽ではない。他の人はそれがわかっているのだが、この生徒にはわかっていない。

・この生徒は、社会化がなされていない。社会性のない生徒を、正しく教え導かないと将来が危ない。

・この生徒に、語り部の人や教員やその場にいる生徒等の立場や気持ちを、理解させる必要がある。

・立場や気持ちを理解させる→他者への「配慮」へとつなげる。「配慮」によって、行動を変化させる必要がある。

 

これらの見解は、次の2点について強く着目したものに思える。

1.この生徒「以外の人」の、立場や思い

2.立場や感情を理解する→他者への配慮という形で、この生徒を社会化すること

 

一方私は、この2点とは違った観点で、この生徒のことをついつい見てしまう。

1'.この生徒がわざわざこのような行動をとった、本人なりの理由は何なのだろう? 周辺事情を考えてみるのもいいかもしれない。

2'.「他者への配慮」という形以外にも、「社会性を、一種の『スキル』として身につける」という方向で考えるのも一つの策なのでは?

 

この生徒と、「この生徒には、していいことと悪いことの区別がついていない。我々とは全く別世界の人間だ」とでもいわんばかりの主張をする人とを、分けるものはいったい何なのか?

本当に、思いやりとか「修学旅行は勉強の場」といった類の「美しい正論」なのだろうか?

「本当は平和教育なんて退屈。旅行なんだから、退屈なことなんかやらずに遊びたい。だけど、これを正直に言うと自分が損をする。」という発想も大きいのでは?

と私は疑っている。

私とこの生徒を分けたのは

・(昔、)不良と呼ばれていたような行動をとるには、私はあまりにも鈍くさ過ぎた。

・「そのような行動に出たら、自分が損をする」と認識していた。

・「周りの生徒にも命令する」といった、徒党を組むという発想が、私には乏し過ぎた。

ことである。決して、美しい正論ではない。

だから、「この生徒は特別に極悪な奴だ。他の人とは全く別世界の人間だ。」という見解を、私は持てない。

(少なくとも)私とこの生徒とは、地続きに近い存在と思える。

 

 次に、1'と2’の観点について書いていく。

 

1'.周辺事情について

 

この生徒の内面については、当然、私が勝手に決めつけるわけにはいかない。だから、中学時代の私を振り返って書く。

勝手な想像

・「平和教育」が不快なものと思えていたのかも? 

日本の初等教育では、「ある種の情操教育」が重視されている。

ショッキングだったり悲劇的だったりする話や体験を通じて、児童生徒のテンションをハイにさせる→その話や体験について、大人を喜ばせる情緒的な感想を、児童生徒から引き出す

という情操教育だ。ここで、「大人の喜ばない感想」をうまく述べられない児童生徒は、人格否定がなされる。

ひょっとして、この生徒はこれまで、

「うまく述べられない」故の「人格否定」をずっと受け続けてきたのかも?

「人格否定を受けないようにしたいのだが、どうすればよいのかわからない」という状態が長い間続いていたのかも?

また、この情操教育では、「(大人の喜ぶ)感情表出」が重視されている。つまり、「好ましい感情」か「好ましくない感情」かという判定が、しばしば本人以外からなされる。

「感情は勝手に湧いてしまうもの。勝手に湧いてしまうものに、よいも悪いもない。感情が悪いのではなく、感情に振り回されて不適切な言動を取ることが悪い。テンションをハイにすることよりも、感情に振り回されないスキルを身につけたい。」などという見解は、屁理屈とみなされかねない。

この状態で、「好ましくない感情だ。性格を直せ。」などと言われ続ける「情操教育」とは何なのか?

 

この「情操教育」の延長上にある「平和教育」だったら、語り部の話を聞く前から、「語り部の人は、お忙しい中をわざわざ時間を割いて、生徒たちに有難いお話をしてくださる。心して聞かなければいけない。語り部の人が鼻白むような感想を持ってはならない。」と結論が決まっていることになるのだろう。

それだけではない。

この情操教育は、実は、「主要(?)教科のような、座学的な勉強」よりも重視されている。「運動会とか卒業式等の課外集団活動で、特に重視されている。特に、大人から強い支持を受けている。

「暴言を吐くぐらいなら、最初から参加するな」というコメントも見られたが、「大人から強い支持を受けている」ことだから、拒否することは困難と思われる。

実際、私の住んでいる地域では、不登校の児童生徒に「せめて、修学旅行だけでも参加しなさい」と圧力がかけられている。

 もう一つ。

平和教育と裏カリキュラム 1 - karotousen58のブログで書いたように、この平和教育の目的は少なくとも2つある。

大人が生徒に対してはっきりと表明する目的は、「平和について、被爆者の体験や歴史を知る」ことである。

しかし、主たる目標は、「裏の目標」である。この「裏の目標」については、明確に語られない場合が多い。

「平和について、被爆者の体験や歴史を知る」という目標がタテマエとして提示され、本音は「裏の目標」となっている。この二重構造に混乱する生徒もいるかもしれない。

また、この「目標の主従関係」を誤解する生徒(少なくとも、中学時代の私ほそうだ)も混乱する。

主たる目標を満たすための具体的対策すらつかめない。大人は「精神的に成長できない、悪い生徒」と決めつけるのだが、「具体的スキルを一緒に考える」という方向には進まない。「具体的スキル」なる言葉自体が、裏の目標の持つ美しさに抵触するということらしい。

 

・普段から、この生徒がいろいろな人から暴言を受けていたのかも? しかも、「暴言ではなく教育的指導」と言われ続けていたのかも?

「死に損ない」か。私も小5のときの担任に言われたことのある言葉だな。

大人が子供に対して、「死に損ない」といった類の暴言を浴びせても、「暴言」と認識されないことはよくある。「お前は冗談もわからないのか」とか「お前に問題があるからそういうことを言われるのだ。」とかいった「教育的指導」と、大人による強弁がなされてしまう。

 

2'.「他者への配慮」という形と一種の「スキル」として捉える形について

世の中には様々な「暗黙のお約束事」があって、場面に応じた「適切な言動」が求められている。

「他者への配慮がきちんととれる」が「適切な言動」であるとしたら、「必ずしも簡単に達成できるとは限らないタスク」なのかもしれない。

この場合、「適切さ」が、「『本当に適切であると決まりきっている」』ことではなくて『とりあえず、適切ということにされている』程度のものだよ」という発想を持つのはまずいのか?

「誰にとっての、どこにとっての、適切さ」なのか、ということに自覚的になってはまずいのか?

という視点もあっていいと思う。

もしも、適切さが「本当に決まっているもの」だと信じ切ってしまったら、「不適切な言動」を取ってしまった場合、「自分自身の人格に関連する邪悪さ」と捉える→自分自身を追い詰めてしまう

となる危険性があるのでは。「追い詰められた状態で、判断力が鈍ってしまう」のは、ありがちなことだと思う。

不適切な言動を取ってしまった場合でも、「自分自身の人格」ではなく、「単なる表出失敗だ。どうすればうまくいくか、スキルを考えていけばよい。」という方向性もあっていいのでは? と私は思う。

「この生徒は、どうして、暴言や妨害という自分が損をする行動をとったのだろう? 自分にとっての損得が考えられないのなら、他人への配慮なんて困難だよな。」というのが、元記事を読んで私が最初に思ったことだ。

自分自身を追い詰めてしまった状態で、「自分自身の損得を考える」ということは、きっと難しいだろう。

 

一種のスキルと捉えたほうが、「自分も行動しやすいし、他の人の行動に対しても少しは余裕を持って接することができるかもしれない」という人も、いると思う。少なくとも私はそうである。