karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「小中学生がやらされる自由研究」と『裸の王様』もどき

ブログをみんなで楽しもう 今週のお題「自由研究」

 

「小中学生がやらされる、自由研究や夏休み校内作品展」という言葉を見聞きすると、私は『裸の王様』(アンデルセンの童話)を連想してしまう。特に、パレードを見た人々が「本当によくお似合い」と褒めていたシーンを。

『裸の王様』もどきとしたのにはわけがある。子供が指摘した後の展開が違うからだ。

「一人残らず、『王様は裸だ』と叫んだ」とか「それでも王様と家来はパレードを続けた」ではなく、「子供は異常であるとみなされ、発達障害者向けソーシャルスキルトレーニング受講を義務付けられる」という展開を私はついつい考えてしまうのだ。

 ハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen 大久保ゆう訳 はだかの王さま The Emperor's New Suit

 

私が小中学生だったのは1970年代。当時は、自由研究対策本や実験観察キットの類はほとんどなかった。また、「宿題は自力でかたづけるもの。大人が手伝うのは過保護。」と認識されていた。

当時も、盆明けになるとマスコミで、「夏休みの宿題を手伝う親御さん、大変ですね」などというメッセージがばらまかれていた。しかし、その言葉にリアリティーを感じていた子供は少数だったと思う。

小中学校での「自由研究」とか「実技教科の作品制作」を「自力だけでは達成困難」と思っている子供は、本当はたくさんいるはずである。

しかし、1970年代の公立学校在籍の一般の子供にとっては、手伝ってくれる人なんてそうそう簡単には見つからない。

「もともと素質があり、かつ、自由研究や作品制作に意欲を燃やすことのできる環境が確保された子」以外の大多数の子は、「何をやればいいのかわからないし助言もないから、仕方なく身近にある本に書かれていることを丸写しにして提出。『そんな研究や作品なんて見てられない』と親に判断された子の場合は、大人による修正が入る」という状態だった。

夏休みの宿題対策本などが豊富な現在では、「実際には大人の手が加わっている研究や作品」が提出されているケースも多いと思われる。

上手にまとめてある研究を見て、「これ、大人の方も楽しんでやってるな。読んでてわかるぞ。もっとも、楽しむ大人って好きだけどね。」と思うことがよくある。

 

夏休み作品展の類では、「手伝ってくれる大人が身近にいない、かつ、自由研究や作品制作じたいが苦手」という子供が、しかたなく自力で作った冴えない研究や作品を晒される羽目になる。晒されただけではなく、教師からも親からも低い評価を受ける。

大人になってから、この種の告白を何人かから聞いたことがある。

ところが、学校側は「大人に手伝ってもらいましょう」などとは言わない。どういうわけか、「自力で、作品展に出しても恥ずかしくない作品を生徒が作る。そうでなければ、教育力を持った大人の助けを得て、そこそこ見栄えのする作品を作成できる。」ということになっていたようだ。

 

私の頭に浮かんだ、『裸の王様』もどき(1970年代バージョン) 

・王様の望むことは、「子供たちが難しい課題を努力してしっかりこなしている場面を、知ってもらって、みんなにいいなあと言われること」だった。(王様役は、宿題を課す学校側)

・「自由研究や実技教科の作品制作を子供がこなすことは、みんなにいいなあと言われるに値すること」「ふさわしくない教育をしている(受けている)人や、バカな人なら、そこそこ見栄えのする自由研究や作品制作を全うできない」と、布織職人と称した詐欺師が言う。(詐欺師役は、自由研究や実技教科のそこそこ見栄えのする作品制作を「家庭内で達成可能で、しかも、教育的効果がある」と主張する、教育関係者)

・これまでに、「子供の研究や作品に大幅に手を加えて、賞賛されるものに仕立てた」大人が、「子供がしっかりとこなして成長した。」などと家来役として主張する。

・「おそらく、大人による修正が加わっている研究や作品が少なからず存在する」ことを、大人も子供も見抜いている。しかし、わざわざそれを口に出すようなまねはしない。「そこそこ見栄えのする研究や作品を作れる程度の、賢さを持った子供と教育力を持った親との、コラボですよ」という物語を守るために。(パレード見物人役は、口に出さない人々)

・実際には、「指摘する子供役」は表には出てこない。

 

小中学生なんて、まだ、基本となる知識の量がごく僅かである。行動できる範囲も極めて狭い。取扱に注意を要する薬品や道具を使用するのも困難だ。

知識も経験も乏しい状態で、テーマを決めなければならない。

テーマを決めたら、実験や観察の方法や作品制作方法を考えて実行しなければならない。そして、結果や考察等を踏まえてまとめなければならない。

「テーマと選定理由、理論的背景、実験や観察の方法や準備、結果や考察、それを踏まえてのまとめ」なんてことを、普段の授業でやっているわけではなさそうだ。「それらのやり方について、小中学校で指導を受けた」という声を、私は聞いたことがない。どういうわけか、教えなくてもできることとみなされているらしい。

 

結局のところ、自由研究や作品制作という宿題の目的は、

「もともと素質があり、かつ、自由研究や作品制作に意欲を燃やすことのできる環境が確保された子」がいるかどうか、いるとしたら誰なのか、学校側が把握したい。

・「下手な子供が、目も当てられないような下手くそ研究や作品を自力で作成」することよりも、「大人が教育力を持っていることや、大人の教育力によってド下手な子供でも上達・成長しましたという物語」を、示してほしい。また、その空気を読める子に成長してほしい。

といったところではなかろうか? 私はそのように疑っている。

 久しぶりに『裸の王様』の話を読んだ。

子供時分は意識していなかったけど、王様が服を作らせる理由ってこれだったんだな。

「その服を着れば、役立たずの人間やバカな人間が見つけられるだろう。それで賢い者ばかり集めれば、この国ももっとにぎやかになる。」 というやつだ。

「私が疑っている目的」とも、結構重なっているぞ。

 

去年、ローカル新聞投書欄に「自由研究という宿題にどういう意義があるのかわからないから、教えてください」という内容の投書が載った。「抗議や反抗」ではなく、「疑問」というトーンだった。中学生による投書だった。

「真面目になされた、問題提起だ。だけど、世間一般の大人はそのようには解釈しないだろうな。くやしいけど。」と私は思った。

数日後、「そのような反抗的な態度ではいけない」とか「苦しいことを努力してこそ、人は成長する。嫌いなことを避けているようではいけない」とかいった、論点すり替えの回答投書が載った。大人による投書だった。

この中学生は、「王様の裸を指摘して、酷い目にあう子供」役にされてしまったんだな。その子のまじめな態度を評価する人が身近にいればいいんだけどな。と思った。

 

自由研究や作品作成という宿題で、大人が子供に求めていることは本当は何なのか?

これをはっきりと子供に示すのも、必ずしも悪いこととは言えないと思う。