「なぜ実技教科なんかあるの?」と訊けなかった
子供の「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」という問いかけに大人はどう答えれば良いのだろうか - 心がよろけそうなときに読むポンコツ日記
私のブックマークコメント
「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」という問いかけは、ある程度余裕のある子供ができることかもしれない。実技教科が全部ビリの私には、「なぜ実技教科なんかあるの?」という問いかけを試みる余裕すらなかった。
ブックマークコメントを読んで、「ああ、この問いかけは、問いかける子供と問いかけられる大人の両方に、ある程度の余裕があってできることなんだな。」「ブックマークコメントでなされた回答も、余裕のあるものだな。」と思った。
子供時分の私は、「なぜ実技教科なんかあるの?(みんなにバカにされるだけで、授業を受けても新しく学ぶことなんかないのに)」という思いをずっと抱えていた。正確には、実技教科がある理由云々よりも、カッコ内の思いをずっと抱えていた。しかし、大人には言えなかった。
私が小学生だった頃、日記を書いてくるという宿題がしょっちゅう出されていた。日記に書くことがなくて困っていたある日、苦し紛れに実技教科に対する思いを書いたことがある。日記を読んだ担任と親から、私はこっぴどく怒られた。そのとき、「実技教科について、うかつにしゃべったらヤブヘビになる」と思った。
実技教科を取り巻く状況は、その後も変わらなかった。
日記には、次のことを書いた。
・主要(?)教科のペーパーテストは、他の人に点数がバレないように一人ずつ手渡しで返される。それなのに、図工の作品は、クラスの誰かに全員の作品を渡してその誰かがそれぞれの生徒に返している。全員の作品を渡された人に、私は嫌味を言われる。一人ずつ手渡しで返してほしい。
・ペーパーテストの点は晒されないのに、実技教科の出来栄えは、学芸会の作品展や合唱コンクールや球技大会などで晒される。それが辛い。
本当は、次の思いも抱えていた。しかし当時は言語化できていなかった。
・主要(?)教科の成績について誰かを貶そうものなら、「性格の悪い子」と非難される。しかし、実技教科がビリの人に対しては、どれだけ貶しても何のお咎めもない。それどころか大人が率先して貶すこともある。「主要(?)教科の成績はよいのだが、キャンプでりんごの皮むきが下手なことがバレた」人に対して、「お勉強ばかりして本当に大切なことを学ぼうとしていない、わがままなお勉強ロボット」などと決めつけたりする。不公平だ。
私の身近の大人も、実技教科に関していえば「ほとんど余裕がない」状態だったと考えられる。
学校教師にとっても、「ビリの子に、時間をかけて丁寧に教える」余裕はおそらくないと思われる。
実技教科の出来栄えは、一クラス40人近い人数の中の個人差がとても大きいだろう。実技教科の実力向上に関連する経済資本・文化資本・社会関係資本等も家庭によって大きく違うだろう。勿論、各自の持つ素質も。
40人近くの児童生徒を一斉に、時間的制約の大きい状態で指導するのだから、ビリの子の状態を把握するのは極めて難しいことと思われる。
私の場合、おそらく親も「実技教科は全部ビリ」の人なのだと思う。そして、その親が、実技教科全部ビリの私に対して「近親憎悪的な感情を持ち、その感情を情け容赦なくぶつける」「実技教科の実力向上に関する情報を、ほとんど持たない」状態だった(今でも続いているが)のだと思う。このような判断に至った根拠は複数ある。しかし、今回はこれらについてはふれないでおく。
当然、「実技教科に関する文化資本」は、私の家庭は極めて乏しいものとなる。他の資本も乏しいが。
「なぜ実技教科なんかあるの?」とか「実技教科がビリだから、みんなからバカにされる。この状態を何とかしたいけどどうすればいいのかわからない。」とかを大人に対して表明することは、どういうことなのか?
それは、「大人に対して援助を求める」ということであり、「その結果、大人との対人折衝めいたものが発生する」ことである。
「対人折衝なんて言葉は大袈裟だ」と思われた方がおられるかもしれない。
しかし、私にとってはその言葉がしっくりくる。何故なら、「実技教科が全部ビリで、それ故にみんなにバカにされて困っている」という表明に対しての「解決イメージ」が、大人と子供時分の私とで大きく異なっていたと思われるからだ。更に、「どうせ、大人にとっての解決イメージだけを扱うんだろうな」という思いがあったからだ。
大人にとっての解決イメージ
この子は、素質も文化資本等の環境も極めて乏しい。だから、努力なんかしてもほとんど実らないだろう。だからこの子にとっては、「どんなに嫌なことをされても、我慢できるだけの力」と「上手な人や権力者に嫌われないように振舞って、素質や環境の乏しさをカバーできる力」を本人が付けることが解決だ。それらの力は、大人が教えることではない。本人がクラスのみんなにもまれて身につけることだ。
私にとっての解決イメージ
学校という場で「実技教科が壊滅的に出来ない」というのはつらいこと。おそらく、授業は真ん中レベルの子を基準になされる。学年が上がるにつれて、要求されるレベルも高くなる。自分だけが授業からどんどん取り残されていく。「授業から取り残されない」とは、「授業中に何を学び取ればいいのかがわかる」こと。すなわち、「教師が何を伝えようとしているのか、まわりの生徒が何をしているのか、自分のすべきことが何であるのか」がわかることである。それらがわかることが解決だ。それがわかると、今ほどはみんなからバカにされた態度を取られないかもしれない。
実技教科が上達する見込みがないのなら、「下手な奴はどれだけ貶されてもよい」という価値観とか「どうせ無理なんだから、どんなにバカにされた態度を取られても、上手な人や権力者の機嫌をとるようにしろ」とかいう要求の残酷さを認めてほしい。
更にいうと、実技教科の場合、「合唱コンクールとか運動会等とかいった類の、集団行動」とも絡んでくる。「壊滅的に出来ないこと」は「集団内でのお荷物」と認識されることである。「みんなの足を引っ張っておきながら、自分ひとりだけがみんなの頑張りにただ乗りする、極悪人」という認識を、本人が持ってしまうことにもつながる。実際に、いじめのターゲットにされることも多々ある。
「大人にとっての解決イメージ」は、「下手な奴は、いくら貶されてもよい」という価値観の肯定にもつながりうる。私の場合、「実技教科全部ビリの私に対して、近親憎悪的な感情を情け容赦なくぶつける」親が、その価値観にどっぷり浸かった態度で接した。これでは「私にとっての解決イメージ」なんか、意味を持たない。
「誰にでも得手不得手はある。それがわからないようではいけない。」「素質がないのに努力しても無駄。教育ママ(パパ)みたいなことをさせるな。」という言葉によっても、「私にとっての解決イメージ」は否定された。
更に、「大人にとっての解決イメージ」は、「クラスのみんなにもまれて身につける」ものとなっていた。だから、大人からは解決方法は示されなかった。
こんな状態では、「なぜ実技教科なんかあるの?」という問いかけなんかする余裕などない。
子供の「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」という問いかけには、「勉強なんかしても、学び取れる事柄などなさそうだから困っている」とか「勉強ができないから、授業から取り残されて辛い」「勉強ができないという事実も辛いが、できないということを外野が騒ぎ立てるのがもっと辛い。」「外野が騒がないようにするとか、勉強が少しでもできるようになる方法を具体的に教えるとかいったことを、真剣に考えてほしい」とかいった思いが隠れている(というより、そちらがメインか?)場合もあるのかもしれない。