「ユマニチュード」に興味津々
この記事についたはてなブックマーク経由で、私は「ユマニチュード」という言葉を知った。
認知症の家族がいるので、「認知症と介護に関する情報」を期待してこの記事を読み始めた。
しかし、最初の、書籍紹介部分を読んで、私は別の種類の期待も持ってしまった。
「ひょっとしたら、非言語性コミュニケーションに困難を感じている発達障害者が、非言語性コミュニケーションを学ぶときにも応用可能かもしれない」という期待を。
続いて書評を読んでいって、「こういう本もあるのか」とよい意味で驚いた。
正直なところ、これまで、介護についての話を見聞きしたとき、「心の通い合いとか家族愛とかいった、『愛情や感情や倫理』が必要という話で終わっている。情的なコミュニケーションがうまくとれなくて私は困っているのだが。」という思いを抱えていた。
《介護の話は、家族の関係や心の持ちように還元されがちだ。ケアされる人が情報をどう受信するか、どうすれば情報を届けられるかの理解と知識が欠けている。欠落を埋めるものが、この本にある》-岸本葉子(エッセイスト)
の部分を読んで、「『情報を受信・届けること』や『理解と知識』も重視していそうだ。読んでみたい。」と思った。勝原さん、藤沼さんの書評も、興味深く読んだ。
信田さんの書評が最も長い文章となっている。
・感情より、セリフと数字
・人間になるための技術
の部分が、特に強く印象に残った。
「3回ノックする」「所要時間は20秒~3分」「40秒で終わる」などと具体的数字が挙げられているものの、ケアする側の感情や気持ちなどについては触れられていない。「感情の固定」という記述の部分も、よく読むと快記憶をとどめるためのオーバーアクションや演技的行為を指している。
指示をする私にためらいがないのは、言葉や行為の型を提案することで、その人固有の感情や認知は最大限尊重しているという確信があるからだ。それは本書に流れる人間中心主義と同じではないか、そう思ったのである。
さらに言えば、セリフと数字の重視は、茶道・華道や伝統芸能の作法と同じである。本書で指定されている腕の角度や触る位置は、生理学的根拠にもとづいているものの、ほとんど「○○流」といってもいい。
ケアはしばしば、愛情や感情と重ねて論じられてきた。本書も、「ヒューマン」という言葉につきものの礼賛と共に受け止められるかもしれない。しかし、これほどクールで情緒を排したケアの技術論はなかったと思う。
技術とは伝達可能な方法論である。「これならできるかもしれない」「ちょっと実行してみよう」と読者が思えることはどれほど大切なことだろう。わかりやすさは一歩誤ると通俗的になってしまうが、哲学に裏打ちされることでそれは回避されるだろう。
私は、いろいろな人からいろいろなことを「教えてもらう」側にいたことが何度もある。
これまでの経験を振り返ると、「セリフと数字を重視する態度」を悪とみなす指導者はたくさん存在するのでは……と思えて仕方がない。
「『おまえ、この動きの角運動量はどのくらいか?』なんてことを考えているんだろう。だからできないんだ。」
「余分なことを考えるな。頭の中を真っ白にして話を聞いて動け。」
「まあまあ、そう難しく考えんと。気楽に気楽に。」
「理屈ではない。心だ。」
といった類の指導を、私は何度も受けてきた。しかし、何をどうすればうまくいくのか、全然見当がつかなかった。全然見当がつかないまま動いても、うまくいかない。うまくいかないから叱られる。この状態が続いていく。
という調子だった。
これまで私は、「非言語性コミュニケーションがとれないで困る。しかし、対策を思いつかない。もしも身につくとしても、そうとう自分を曲げ続けないとできないことなのだろう。」と思っていた。
しかし、「セリフと数字」や「技術」という手掛かりを得て、非言語的コミュニケーションを学んでいく。
「こういう方法を求めるのも、間違いではない。」と思えた。
「自分を曲げ続ける」のではなく、「人固有の感情や認知を最大限尊重したうえでの技術」から学んでいく方法を模索していきたい。