karotousen58 - 『私の代わり、アバターが登校 通信制高校に仮想校舎:…』 へのコメント
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「仮想現実で勘弁してやるから、何とかコミュニティに参加しろ。交流できないのはダメな奴。」という文脈がありそう。「頑張って交流しなきゃ感」で行動が促され「交流できている安心感」に変わるとお思いか?疑問有
2014/10/24 01:36 にブックマーク
twitterなどでいろいろな人によるコメントを読んだが、好意的なコメントが多数派のようで、私は驚いている。
元記事を初めて読んだとき、私は、昔聞いた不登校児童生徒対策を連想した。
「不登校児童生徒用に、別室を作る」とか「まず最初は、校門にタッチするだけで児童生徒を許す。次の登校時には、下駄箱にタッチすれば許す。その次の登校時には、教室の扉にタッチすれば許す。そして、最終的には、教室に入れる。」といった対策を。
この対策は、ここでは終わらない。別室に入った子供には後日、「もともとの教室に入れるようになりなさい圧力」が待ち受けている。それを拒否する子供には、「あなたのために、せっかく別室をつくって、配慮してあげたのに。恩知らずだ。」攻撃がかかる。なんとかして教室に入ったが楽しそうな顔を見せない子供には、「あなたのために、これだけ時間をかけてあげた。それなのに、前向きではない。いつになったら、前向きになれるの。」攻撃が待っている。
この「サイバー学習国」を楽しめないという子が出てきた場合、次のような言葉がその子に浴びせられるんだろうなと思った。
「あなたのために、仮想現実というものまで用意してあげたのよ。それなのに、あなたは交流に不熱心。いったいどういうつもりなの。」といった類の言葉が。
「サイバー学習国には通えた。しかし、まわりの人が目論むような世界には出なかった」という子が出てきた場合も同様である。
好意的なコメントの裏には、次のような発想が隠れているのでは? と私は疑っている。
・学校生活では、コミュニティに参加できていますよ感を、出せなきゃいけない。交流できない奴はダメな奴。仮想現実でも使わないと、コミュニティには参加できない子供たちなのだろう。
・ものごとに興味を示さない子が、勉強なんてするとは思えない。勉強させるには、ゲーム感覚プラス仮想現実といったものまで使わないと無理。
つまり、「援助の対象としてしか児童生徒を評価しない外野によって、一方的に『交流のできないダメな子』役割を割り振られた」状態に、子供が置かれるのでは……。そして、子供がその役割を内面化することにも拍車がかかるのでは……。
という最悪の事態を、私はついつい想像してしまうのだ。
「サイバー学習国利用を検討する子供に対して、一般人が持っている(と私が想像している)イメージ」という切り口以外にも、「一般人が持っている(と私が想像している)学校観や学校文化」という切り口からも考える必要がある。私はそう考える。
世間一般での学校観は、「大勢の人との交流による人格陶冶を、目的とする場」ではなかろうか? とtwitterなどのコメントを読んで思った。そして、その学校観は、「子供のリアルな学校経験」よりも「学校外の情報に引っ張られたものではないのか?」という疑問も、私の頭に浮かんだ。
・果たして、その「人格陶冶」とやらは、本当に保障されているのだろうか?
・「大勢の人との交流」とか「人格陶冶」とはどういうことなのか? 自分がどのような交流の仕方や人格陶冶を、学校という場で過去にやってきたのか? といったことについて、本当に考えたうえで「学校観」が語られているのだろうか?
・学校文化は「中立的なもの」ではない。「学校文化的に不利な立場に置かれてしまう子供」も存在する。「『学校文化に関して、不利な立場にある』という現実から出発して、どのようにして関係を作っていくか」を検討することが、「逃避」と解されていないか?「不利な立場にある自分を恥じて精進して、有利な立場にある人に同化する」ことが正しいと、決めつけられていないか?
「子供のリアルな学校経験」ではなく、学校外の情報から一方的に、「学校像や学校文化の素晴らしさやあり方」を規定
↓
「サイバー学習国利用を検討する子供は、交流の上手くできていない生徒。」という解釈のレールを敷き、「仮想現実で妥協してあげるから、何とか交流してほしい」という文脈でサイバー学習国利用を検討
↓
「『頑張って交流しなきゃ』という思いによって、行動が促される。それが『交流できている安心感』に変わる。」と、一方的に規定
というルートにうまく乗れなかった子はどうなるか?
最悪の場合は、「頑張って交流しなきゃという思いで、一般の学校やサイバー学習国で交流している(きた)」と自認している人から、「自分たちと交流できそうにないアイツは、排除したい」という思いを引き出すケースもありうるのでは……と思えて仕方がない。
世間一般で共有されている(と思われている)学校観や学校文化は、実は、「子供のリアルな学校経験」よりも「学校外の情報」に引っ張られているのかもしれない。
「学校で交流のできていないダメな子」と思われている子は、ダメか否かというより、「どのようにして関係を作っていくか、検討していく」プロセスを奪われている状態にあるのかもしれない。
ここで、「どのようにして関係を作っていくか、検討していく」ことイコール不登校 と限定しているわけではない。
「学校観」や「交流像」が、「外野によって一方的に決められたものとは、必ずしも一致しない」という意味である。