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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

善悪という軸・損得という軸

 

 

子供の叱り方って本当に難しい。 - sachiko’s blog

身に覚え有。理由を言えなかったのは、私の場合は「怒りや悲しみの感情が湧くようでは駄目」と思っていたから。実際身近な大人から、「いじめではなくふざけ。冗談のわからない暗い子は駄目。」で片付けられ続けた。

2015/01/28 02:16

 上記記事とはあまり関係のない、自分語り記事になる。

身に覚えのある私。大人になって振り返ると、次のことが最初に頭に浮かんでしまう。

「『嫌なことを言われたりされたりしたときに、殴るなどの物理的暴力にでる』ということをやめさせたい」という思いが、おそらく、周りの人にあるのだろう。その「やめさせたい」の背後にあるものが何なのか? 私は気になる。

 

1.「物理的暴力は悪いこと」だからやめさせたいのか? 「物理的暴力という方法をとっても、自分が損をする」からやめさせたいのか?

2.「物理的暴力をふるう本人が、周りの人の感情を理解する。→それによって、物理的暴力が、社会では通用しないことを学び取る。他者への配慮を身につけ、行動を変える。」という方法による、行動変化を目指すのか? それとも、「他人の感情とは別の方向から、『社会を生きるスキル』として振舞い方を他に考えていく」という方法による、行動変化を目指すのか?

おそらく、1.でも2.でも後者の見解に対しては眉をひそめる人が多いだろう(私の経験則によれば)。しかし、私は思うのだ。

・嫌なことを言ったりしたりする側の正当性が問われない

・「物理的暴力にでるのは、怒りや悲しみの感情が簡単に湧くような、耐性の無さが原因。耐性を身につけなければいけない。」と、周りの人(特に大人)から言われる。それを本人も内面化。

・「物理的暴力は駄目」と言われても代替の方法は示されない、代替の方法も思いつかない。耐性を身につける方法についても同様。

という状態で

「物理的暴力をふるったことについては、頭の中では悪いことだとわかっている。しかし、感情の面では、『自分だけが悪』ということに納得ができない。」

というケースもありうるのでは?

そして、その場合は、「善悪」という観点以外に「損得」という観点から対策を考えてもいいのでは? ある種の「必要悪」として認めるのもありなのでは?

と。

それともう一点。「人と交わるのは、よいこと・美しいこと」という価値観が、学校を中心とした子供社会で声高に主張され過ぎる→「他人を警戒したり距離を取ったりすること」も対人関係調整には必要となることがある(と私は思う)のだが、それらが、「邪悪なこと」とミスリードされるケースにつながる

という面もあると、私は思う。

 

「自分がおかしい・悪いから、行動を変える」という発想よりも、「自分が損をしたらバカバカしいから、行動を変える」という発想のほうが、少なくとも私にとっては精神的に楽である。

精神的に楽になった状態で他の人に接するほうが、そうでない場合よりもうまくいく可能性もあると、私は思う。

   

子供時分の私は、このようなケースでは身近な人(特に大人)から、次のような言葉を浴びせられた。

・おまえは大袈裟だ。

・おまえに何の落ち度もなければ、そのようなことは言われたりされたりしない。

・人を責めるよりも、自分を責めなさい。

・簡単に腹が立ったり悲しくなったりするようじゃいけません。それらの感情が湧かないように、努力しないといけません。

・言いたい人には言わせておけばいい。ただそれだけじゃないの。どうしてできないの。

・わざわざおまえに近づくのは、おまえに関心があるからだ。人から関心持たれなくなったら、もうおしまいだ。無視されるということは、もっと残酷なこと。人と繋がらないのは悪いこと。

・いじめじゃなくて、ふざけ。ジョークのわからない暗い子ではいけません。

これらの言葉が、行動変化に繋がることはなかった。

 

大人になってからの後知恵ではあるが、次のような言葉を子供時代に聞いていたら、状況は違ったかもしれないと思う。

・嫌なことを言われたりされたりしたときは、まず、自分が落ち着くことが大切。おまえが大袈裟とかただのジョークとかいった話よりも、そのことのほうがずっと大切。どうすれば落ち着くことが出来るのか、方法を一緒にいろいろと工夫したらどうだろうか。そのようなときに、物理的暴力にでたら自分が損をする。

・「夏炉冬扇のことをからかう以外に面白いことを見いだせないのかよ、そいつらは。哀れな奴らだな。」と、心の中で思うだけなら無罪。そう思ったほうが落ち着くのなら、必要悪と割り切っていい。そいつらに、それらをわざわざ言わなきゃいいだけのこと。そんなくだらないことをやる、しょうもない奴らのために、自分が損をすることをしてもバカバカしい。

・嫌なことを言ったりしたりしてくる奴らにも、いいところはおそらくたくさんある。しかし、わざわざくだらないことをして自分を貶めている。そんなのもったいない。

・奴らも、他に面白いことを見つけたら状況が変わるかも。

・本当にできる人って、下手な人や経験不足の人を笑いものにすることにはあまり関心を持たないものだよ、下手な人や経験不足の人を見ても、「物事がうまくいくためのポイントは、これこれこういうところにあるんだな。」とか「この事柄は、自分は今のところはうまくできている。しかし、これこれこういうふうに条件が変わったらこの人と同じような失敗をするかもしれないと、わかった。勉強になった」などと考えているもんだよ。

 

「善悪という軸で考えてうまくいかなかったら、損得という軸でも考えてみる」「社会性を身につける方法として、感情理解や他者への配慮という方向以外に、社会を生きるスキルという方向から考えてみる」という方法は、日本の学校文化という面からみたら「邪悪な方法」かもしれない。

しかし、その「邪悪な方法」に救われる子もいるかもしれない。最低限「必要悪」と認めてもいいのでは……と私は思う。

この「必要悪」については、他にもいろいろと書きたいことがある。しかし、長くなるので今回は書けない。