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自慢話がわからない

 

男性の自慢話離れが深刻!76%は「自慢することない」と悲痛な声-Suzie

私は自慢話がわからない。というか、話に隠れている(ということになっているらしい)「自慢したいという気持ち」を察する力が壊滅的に弱い。自慢話と気づかないで、話を面白がることもよくある。

2015/02/18 15:09

 ブックマークコメントに書いたように、どうやら私は、自慢話に対する感覚がどこか変わっているようだ。そしてその「変わっている」ということは、発達障害と関連していると思う。

 

私は、自慢話に気づかないことがよくある。気付かないだけではなく、その話が苦にならない。むしろ、話を面白がっていることも多々ある。

「あんた、あの人の自慢話を何回も聞かされてよく平気だな。」と言われたことも何度かある。言われて初めて、「そうなのか。あれは世間一般では自慢話という解釈がなされる話なのか。」と思う。

言われなかったら、「そうか、本人や本人にとって大切な人が成功したり才能を持っていたりしたら、嬉しいんだろうな。」で終わってしまう。

ただし、次にあげるような話なら、自慢話と認識する。それらの自慢話は、私にとっても不快である。

・他の誰かを貶めることを目的とした話

・公序良俗に反した事柄について、好意的な価値判断がなされた話

・「不当な手段を用いることによって、成功した」といった類の話

 

「自慢話を聞きたくないから、黙って席をたつ」といった類の行動を他の人が取った場合、それが自慢話とは私は気付かないかもしれない。はっきりと「あれは自慢話で、不快だった。不快だとはっきり言うとカドがたつから、黙って席をたつという方法を取った。」というふうに言われなかったら、自慢話と気づくことがないかもしれない。「自慢したいという気持ち」とか「表情、しぐさ、口調などの非言語的情報」を読み取る力が、私に欠けているからだ。

 

自慢話を面白がることについて、例として魚釣り自慢をあげてみる。

「○○釣具店に飾ってある魚拓レベルの、魚が釣れた」とか「たくさん釣れた」とか「このフィッシングベストが気に入っている」とか話してくれた方が、その人に近づくことができたように思える。そして、私にとっては「楽しい話」と思えてしまう。「その人にとって楽しいことや好きなことを話してくれたほうが、その人らしさを出してもらえる」と、私は思ってしまう。

相手が、「自慢話をしたい。それによって、夏炉冬扇よりも自分が優位にたっていることを、夏炉冬扇にわからせたい。そうでないと落ち着かない。」などと思って話をしていた場合でも、私は気付かないことが多い。

 

ここまでなら、「話している方も気分がいいし、聞いている夏炉冬扇さんも楽しんでいる。それでお互い、いいじゃないの。」と思われるかもしれない。

しかし、話はそれでは終わらない。

逆に言えば、「夏炉冬扇本人が、自慢する意図を持たないで話したこと」が「他の人には自慢話と認識される」こともあると思われるからだ。

もう一つ、自慢話を面白がる態度が、「自慢話をする人に、取り入ろうとしている」というふうに認識されることもありうると思う。それが怖い。

 

「自慢の絡んだ感情」は、「嬉しいという感情」よりも、社会的な感情だと思う。社会的な感情とは、「一人称・二人称的な世界以外の場で生ずる感情」と私は考える。

発達障害者は非発達障害者よりも、社会的感情が弱いのかもしれない。私はそう考える。

・非発達障害者から社会的感情が発された場合、発達障害者側がそれに気づかない。→非発達障害者の怒りを買う。

発達障害者が社会的感情を持たないで取った行動が、非発達障害者には「社会的感情が隠れたもの」と解釈されてしまう

という危険性があると思う。

 

発達障害者は人の心をわかろうとしない」などと罵倒される背景の一つに、社会的感情の強弱がありそうだ。私はそう考える。