karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「これって私だけ?」

今週のお題「これって私だけ?」

 

私は1965年の早生まれである。私と同世代の人なら、子供の頃に『しあわせなら手をたたこう』という歌を歌った(或は歌わされた)ことがある人は多いはず。

今回は「この歌を学校という場で歌わされたとき、手を叩かなかったことがあるのって、私だけ?」というテーマで書く。

 

今まで何度か、この歌に対して「疑問がある・嫌い・意味や意義がわからない・押し付け」というトーンで書かれた記事を探したことがある。それらのトーンを持ったコメントは数件見つかった。しかし、「実際に手を叩かなかった」という声を、私は未だに見聞きしたことがない。

小学生のとき、学年全体のレクリエーション(ということになっていたらしい)の場で、私は手を叩かなかったことが一度ある。この歌が要求している他の動作もやらなかった。そのとき、同学年の担任全員にこっぴどく怒られた。理由を聞かれたから、「しあわせではないからです。」と答えた。すると、「くってかかるようではいけません。」と怒りはエスカレートした。

そのことは、私の親にも報告された。親からもこっぴどく怒られた。「おまえはひねくれている。くってかかるようではだめ。性格をなおさなければいけない。」と。

私が小学校に入学したのは1971年。1970年代日本の公立小学校では、学校行事の後にしょっちゅうそれについての作文を書かされていた。同級生は、私が手を叩かなかった等のことについて作文に書いていた。私を非難する内容だった。他の親にもどんどん知られていく。そのことについても、私の親からこっぴどく怒られた。

 

反抗していたわけではない。「しあわせなら」という部分の意味もレクリエーションの場でこの歌を歌わせる目的も、理解できていなかっただけだ。単なるおバカさんだっただけだ。

 私が手を叩かなかった理由は次の3点にある。

・「しあわせなら手をたたこう」は条件文であると、当時の私は解釈していた。つまり、「しあわせである」という見解に対して、真・偽の可能性はどちらにも開かれていると解釈していた。

・最後は「みんなで手をたたこう」となっている。最後の「みんな」は、「作詞者の周りには、しあわせな人しかいない」という意味だと思っていた。作詞者の「みんな」と学校の「みんな」は違う。

・私は所謂いじめられ者だった。しかも、大人がいじめを率先していた。これだけいじめられたら、しあわせだなんて思えない。

 

どうやら日本では、「しあわせなら手をたたこう」は、条件文の形を取った命令文ということになっているようである。しかも、「手を叩け」という命令文だけではない。「幸せだと思わなければいけない」という命令文でもある。

実に巧妙な間接的誘導のできる、命令文だな。大人が直接言わなくても、子供が大人の意に沿うような行動を取ることが期待できるということか。

 「大人の誘導の下に、子供たちが大人の考えていることをくみ、子供たちがそれらに対して『自発的に同調』する.」ことが、この歌を学校リクリエーションの場で歌う目的だったのだな。

更に、目的達成のためには、「子供自身による相互監視」も必要ということだったんだな。おそらく、「本心では幸せとは思っていない」子供もいたのだろう。記事を探した結果から考えるに。そういう子供も、「相互監視」を(意識しているかどうかは別として)踏まえたふるまいをしていたのかもしれない。私の勝手な想像だが。

 

私の記憶では、この目的について説明をした大人も説明を試みたと思われる大人もいない。

この歌や学校リクリエーションにおける「暗黙のお約束事」がわからない子供は、学校文化的に不利な立場に置かれてしまう。「反抗」とか「学級崩壊をさせたい子供」とかいうわけではなく、ただ単に「説明がなかったらわからない」だけのことだ。学校文化のもとでは、「ありもしない悪意」が存在することになってしまう。悩ましい。

 

ついでに言うと、この歌じたいもワケがわからない。「手をたたこう」というが、誰が誰の手を叩くのだろう?

この歌で要求されているいろいろな動作をすることが、どうして、「態度で示す」ことになるのだろう?

こういうくだらないことも、私は考えていた。口に出すとロクなことにはならないとわかっていたから、誰にも言わなかったが。