karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「いま学んでみたいこと」

今週のお題「いま学んでみたいこと」


私がいま学んでみたいことは、「写実的な絵を上手に描けるようになる技術」である。方法の一つとして、「キミ子方式」というメソッドによる描画法に興味を持っている。

この記事では

・「写実的な絵を上手に描けるようになること」に対する思い

・キミ子方式に興味を持ったきっかけ

について、グダグダと書いてみる。

 

「写実的な絵を上手に描けるようになる技術を、学びたい」と、美術系の好きな知人複数名に話したことがある。

しかし、彼(女)らのコメントは「写実的な絵はよい絵だなんて考えでは、いけない。技術やマニュアルなんかじゃだめ。感性を大切にしないといけない。」といった類のものしかなかった。

私は、感性や芸術性を否定したいわけではない。ただ、「写実的な絵を上手に描けることによって、広がる世界もある」という思いを、子供のころから私はずっと抱えているのだ。

「コミュニケーションのための、描画技術」という思いが私の中にある。しかし、前述の知人複数名には、その考えは訝しいものらしい。

 

子供の頃から私は、理数系科目が好きだった。理数系では「図や絵をかいて、考えたりまとめたりすること」が必要なケースがよくある。科目じたいは好きなのに、絵がうまくかけなくて悔しい思いをすることがしょっちゅうだった。

高校まで、ノート提出を義務付けている教員が担当となったことがあった。ノート返却のたびに、嘲笑されたり「まじめにやれ」と叱られたりした。

高校卒業後に私は、大学の理系学部へ進んだ。当然、理数系科目やそれらの実験が必修となっていた。

それらの分野では、レポートや試験で「絵を描いて説明する」必要にしばしば迫られた。不器用で実験下手ということも重なって、「勉強そのものは好きだ。だけど、他の学生が難なくこなしていることを自分だけがうまくこなせない。図工や美術は理系にとっては主要教科だ。」というコンプレックスをずっと抱えていた。

理数系科目以外にも、「図や絵を使って説明したほうがわかりやすい事柄」はたくさんある。それらのことを説明する必要に迫られたとき、いつも歯がゆい、恥ずかしい思いをしていた。

 

 大学入学後、『ぼくらはガリレオ』(板倉聖宜 著 岩波書店)を偶然、読んだ。   

  この本が面白くて、著者の板倉聖宜(人名に敬称略。以降も同様。)の本をもっと読みたくなった。本を探す過程で、「仮説実験授業」を知った。そしてその「仮説実験授業」経由で、松本キミ子による「キミ子方式による描画」を知った。

キミ子方式では、「本物そっくりに描ける」ことを目標としている。また、この人は「絵の描けない子」から学ぶという姿勢を前面に出している。

そして、私は、キミ子方式に対して次のような思いを持った。

・「こうやりさえすれば描けますよという、マニュアル的手続き」だけを大切にしているわけではなさそうだ。

・「『自分にも描ける』という可能性や意欲を持てないために、絵を描くことを拒否し続けた」人の存在も、無視していないようだ。

・「本物そっくりに描ける」ことを「意欲を持つ上でのスタート」と捉えた、方法かもしれない。

・実際に書いてみる前段階にある、「物をじっくりと見るとは、どういうことなのか」「色に対する感覚を捉えなおしてみること」なども重視されているのかもしれない。

・私自身の「描けない」原因を、探ることができるかもしれない。そしてその探ることは楽しいことかもしれない。

 

実技教科に対して私は「なぜ実技教科なんかあるの?」と訊けなかった - karotousen58のブログのような思いをずっと持っている。美術系の好きな知人によるコメントは、正直なところ、余裕のある人によるコメントとしか私には思えない。

キミ子方式に対しては、「単なるマニュアル・描画テクニック」「ルールが決まっていて、子供を型にはめる」「本当に有効なメソッドなら、もっと流通しているはず」といった批判もある。

しかし、「本当に可能性や意欲を持てそうにない」状態にまで追い込まれた私にとっては、「テクニック」という言葉を全面否定的には捉えられない。

「大人やほかの児童生徒に褒められるためのテクニック」ではなく「自分で学びとるためのテクニック」と、解釈したくなるのだ。

もしも、写実的な絵を楽しく描けるようになったら、他の人による絵の素晴らしさもずっとよくわかるようになるかもしれない。いろいろな絵の素晴らしさを楽しむことによって、更に世界が広がっていくかもしれない。

更に世界を広げたうえで、例の知人が主張する「感性や芸術性」に近づく人もいるのかもしれない。

そういう思いを私は持っている。