karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「学んでいるふりをしろ」圧力と学級崩壊

 

学級崩壊か、家庭崩壊か、地域崩壊か - 北沢かえるの働けば自由になる日記

"子どもたちがその先生についていくかを決めるのは、教え方がうまいかどうか。(中略)授業がつまらなかったら、子どもたちは言うこときかなくなりますよ。"学級崩壊予防として「お客様でいろ」攻撃を受けた過去を連想

2015/11/18 01:20

 「教え方がうまいかどうか」「授業がつまらなかったら、子どもたちは言うこときかなくなりますよ。」は、重要な指摘だと私は思う。はてなブックマーク元の記事を読んで、次のことが頭に浮かんだからだ。

・私が義務教育を受けていた頃、私のいたクラスは学級崩壊と騒がれたことはなかった(と私は認識している)。しかし、小学生時分の私は、「学んでいるふりをしろ」圧力を大人からかけられていた。

・圧力をかけた理由は何なのか? 「圧力をかけなかったら、夏炉冬扇は学級崩壊を招く行動を取るかもしれない」と大人が判断したのではないか?

・「『学んでいるふりをしろ』という圧力がかなりの部分で有効に働いていたから、学級崩壊と呼ばれる事態にはならなかった」といったところだろうか? 私が義務教育を受けていた1970年代よりも、今はその圧力が弱くなっているのだろうか? 弱くなっているとすればそれが学級崩壊誘因のうちの一つなのだろうか?

・「教え方がうまい、つまらない授業ではない」→「学んでいるふりをしなくてもよい。そして実際に学んでいる。」という状態が、「先生についていく」という表現になっているのだろうか? もしもそうなら、(現在の)私は納得できる。

 

はてなブックマーク元の記事を読んで、拙ブログ過去記事「なぜ実技教科なんかあるの?」と訊けなかった - karotousen58のブログを書いたことを思い出した。

 学校という場で「実技教科が壊滅的に出来ない」というのはつらいこと。おそらく、授業は真ん中レベルの子を基準になされる。学年が上がるにつれて、要求されるレベルも高くなる。自分だけが授業からどんどん取り残されていく。「授業から取り残されない」とは、「授業中に何を学び取ればいいのかがわかる」こと。すなわち、「教師が何を伝えようとしているのか、まわりの生徒が何をしているのか、自分のすべきことが何であるのか」がわかることである。それらがわかることが解決だ。それがわかると、今ほどはみんなからバカにされた態度を取られないかもしれない。

 「実技教科授業についていけない。特別活動になるともっと辛い。どうふるまえばよいのかわからなくて立ち往生してしまう。」ということは、私にとっては切実な問題だった。

私が小学生だった頃、親と教師は事前に根回しをして、特定の子供に「夏炉冬扇ちゃんのお世話係」めいた役割を与えていた。当時、周りの大人は「お世話係」とは明言しなかった。しかし、バカな私でも想像はついた。

当時学校では、児童6人前後を一組として班を作り、班単位で勉強のみならず掃除などの日常の活動をさせられていた。2か月ごとぐらいに席替えがあって、班のメンバーが変わった。何度席替えをしても、特定の児童が必ず私と同じ班に来ていた。夏炉冬扇なんかが見抜けるはずがないと、大人は認識していたのだろう。

「その特定児童の言うことをよく聞いて、言われたとおりに行動しなさい。」と私は身近な大人から言われていた。

言いかえるとこれは、「夏炉冬扇は、おとなしく人の邪魔にならないお客様をやれ」ということになる。つまり、「学んでいるふりをしろ」ということになる。

 

「学校において自分の居場所がある」と認識できるためには、「授業や課外活動でのふるまいかたがわかる」ことが必要なのではないか? 私はそう考える。

授業や特別活動のさいちゅうに落ち着いてふるまうことができなければ、当然、叱責のターゲットになる。叱責される経験を積み重ねると、クラスから排除されやすくなる。

「○○さんは下手くそすぎるから嫌」ということで、孤立するケースもある。孤立してしまえば、「みんななかよく。友達の少ない子はダメな子。」的価値観の支配する学校文化では、クラスからの排除につながる。

それらを回避するための「お世話係」「お客様をやれ」だったと思う。表面的には「排除」ではなかったが、実際には「特定児童と夏炉冬扇の世界」と「学級という世界」に分けられた状態だった。

また、その特定児童がどんなに出来の良い子であったとしても、人生経験は10年前後程度である。当然、完璧なフォローは無理である。だから、時々、「夏炉冬扇が臨機応変な行動を取れない」という事態にもなってしまう。

そして、「夏炉冬扇は、お世話係がいないといけないダメな奴」と他の児童が認識し、「軽んじてもいい存在」とみなされてしまう。

「夏炉冬扇が臨機応変な行動を取れない」プラス「それに対して、他の児童が軽んじた行動を取る」がエスカレートしたら、「学級崩壊」となってしまったのかもしれない。所謂学級崩壊の中には、「『学んでいるふりをしろ』圧力が弱くなったことが背景にあるもの」もあるかもしれない。

私は本気でそう思う。

 

「学校内のお客様状態」を「悩み」と認識することを、大人は許してくれなかった。

「勉強よりも、もっと大切なことがあるのよ。あくせくしなくてもいいじゃないの。それよりも、お友達をたくさん作らないとダメじゃないの。勉強よりも人間関係のほうがずっと大切よ。」

という類の言葉を、(おそらく、主観的には善意で)返すだけだった。

「できることをめざすから、学校が辛くなる。お客様としてやり過ごせる余裕のある学校にしたほうがよい。」と、ある教育評論家が著書で述べていたことまである。私には、これはトンデモと思える。

「子供の悩みとか教育や学校に関する問題」が話題になると、とりあえず「勉強や受験を悪役」にしておけば、正しい大人でいられる。1970年代はそういう時代だった。

 

私は、「(今でいう)学級崩壊を誘導しかねない子供」と思われていたのだろう。そういう子供に対して大人は、「勉強なんかよりも、人間関係や集団行動の大切さを学ばせる必要あり」とよく言う。

しかし、私の場合は「勉強なんかより」で片づけられないほうがよかったのでは……と(大人になった今では)思う。

「教師が何を伝えようとしているのか、まわりの生徒が何をしているのか、自分のすべきことが何であるのか、それらがわからないから不安だ。それらをわかるようになりたい。授業中に何を学び取ればいいのかわかるようになりたい。」という思いを抱えている子が、私以外にもひょっとしたらいるのかもしれない。

「学級崩壊」について語られる場で、「授業についていけない辛さ」「『学んでいるふりをしろ』圧力」について言及されているのだろうか? 私は気になる。