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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

ひきこもっている本人と周りの人との、認識の違い?

ひきこもり

 

ニートは働きたくないわけじゃない。ただ、働くことにブレーキがかかっている状態。 - ニート気質な僕の生きる道

「3失敗をしたくない」は重要。本人からその声が時々出されるが、(自称)支援者や家族は関心を向けない。ただ、「失敗をしたくない」より「成功や称賛を求めるよりも、非難や攻撃を避けられたら吉」が近いかも。

2015/11/20 01:52

 

元記事を読んで、はてなブックマークコメントの次に、私の頭に浮かんだこと

・「『失敗をしたくないという思い』の背景にあるもの」は何なのか? それに対する認識が、ひきこもっている本人と周りの人との間で違ったものになっているのだろうか? それとも、似たものなのだろうか? あるいは、「本人と周りの人との認識は異なっているのだが、どちらかが、もう一方の認識に引っ張られて、似たような認識をしていると錯覚している」状態なのだろうか?
・周りの人の認識としては、「ひきこもっている本人のプライドが高すぎる。プライドを捨てなきゃひきこもり脱出はできない。」とか「頭でっかちだからダメなんだ。とにかく動け。」とか「成功体験を積めば、自己肯定感を持てる。特に、人とつながって得られた自己肯定感が必要。」といったところが多数派なのだろう。私の観測範囲内に関して言えば。
・双方の認識が違っている場合や、(本当は異なっているのだが)どちらかがもう一方の認識に引っ張られて、似たような認識をしていると錯覚している場合、「異なった認識に基づいた助言や対策」が火に油を注ぐ事態につながりうるのでは?

 
ひきこもっている本人と周りの人との認識は、異なっている。しかし本人は周りの人の認識に引っ張られて、似たような認識をしていると錯覚している状態。

「異なった認識に基づいた助言や対策」が火に油を注ぐ事態となっているケース大。
ということは、実は結構あるのでは? と私は疑っている。

 
10年ほど前だったか、玄田有史という学者が考えた「回転寿司理論」なるものを読んだことがある。
手元にその資料がないから曖昧な引用になってしまうが、確か次のような話だった。
「食べ物屋といっても、どうせ回転寿司程度のものしかない。」と思っているかもしれないけど、回転寿司だからといって、全部が全部つまらないものとは限らないよ。中にはおいしそうなものもあるかもしれないよ。その、おいしそうなものが出てきたとき、「とりあえず、回転寿司屋に入って席について」いなければ「手を伸ばして取れる」状態にはなれないんだよ。
つまり、「動くことについて、選り好みをしている状態」「とりあえず、動いていれば、何か面白そうなものが飛び込んでくるチャンスだってありうる。そういう出会いを求めて、動いてみようよ。」という話。

それに対してあるひきこもり経験者が、「ひきこもっている本人は、食べ物屋で食中毒を起こした経験があるから席に着くことができない状態にある。」と答えた。この、ひきこもり経験者のコメントは、本田由紀という学者の文章で読んだ。

この「ひきこもり経験者による指摘」は鋭いと思う。と同時に、「ひきこもっている本人が回転寿司理論に引っ張られて、食中毒の経験を恥辱とか否認という方向に走っている」状態のケースも結構あるのでは? と思う。
「プライドが高すぎる」「頭でっかち」とかいった認識⇔「動くことについて、選り好みをしている状態」
「成功体験を積めば、自己肯定感を持てる。特に、人とつながって得られた自己肯定感が必要。」⇔「とりあえず、動いていれば、何か面白そうなものが飛び込んでくるチャンスだってありうる。そういう出会いを求めて、動いてみようよ。」
と、私は思う。


では、「食べ物屋で食中毒を起こした経験」は、どんな状態を意味しているのか? 私の場合は、次のようなことになる。
・「世間様が設定した水準を達成できなかった場合には、見逃されることはほとんどなく、非難される。」と学んできた。しかも、「どうすれば達成できるのか」も見当がつかない状態だった。そのため、どこで何をやっても非難されることが多かった。
・「『世間様が設定した水準』の範囲は狭い。許される変更の幅は狭く、少しでもはみ出すと非難される。」と学んできた。
・「責任を果たすことができなかったとき」や「期待に応えることができなかった」場合に、罪悪感を強く持つことを要求され続けた。

 そして、「食中毒を起こした経験があるから席に着くことができない」は、私の場合次のことを意味している。
「してはならないこと」だけが強調され、「どのような行動が期待されているのか」がほとんど示されない経験を重ねる。→「やってはいけない」ことはわかるが、「どのような行動が望ましいか、どのような行動に欲望を持つか」という積極的な価値観をうまくつくれない。
→「世間様が決める、狭い道」から外れることへの恐怖感が増大していく。
→色々な行動に対する「選択肢の幅」を広げることが難しくなる。その結果、「他のやり方」を思いつくことも困難となる。
→「現在の状況が不便や不快であったとしても、『他の新しい方法は、輪をかけてひどい状態をもたらす危険性がある』と考えてしまう。
→「すでに知っている『行動に関する狭いレパートリー』が、適切である」と確信できる場合でなければ、行動困難と認識してしまう。
 →「成功や称賛を得たい」などと思う余裕なんかない。「非難や攻撃から逃れる」という、消極的な報酬しか考えられない。 


「世間様が決める、狭い道」が、学校生活では「人さまのじゃまにならない、お客様でいること」「(できのよい子をお世話係としてあてがい、)お世話係の指示通りに、大勢に影響がないようにふるまうこと」「勉強や技術を身につけようとしても、素質がないのだから無駄。それよりも人さまの機嫌を損ねないよう努力しろ。」である場合、最悪である。

卒業後は、手のひらを返される。「あんた、いったい今まで何をやっていたの。何もできないじゃないの。あんたみたいな人のことをなんというか知ってる? フリーライダー(「ただ乗りする人」の意)と言うんだよ。」などと言われ続けることになる。「世間様が決める、狭い道」を失うことになる。

「他の人の目を気にするなんて、うぬぼれるのもたいがいにしろ。他の人のことなんて、そんなにかまっていないものだよ。考えるよりも、とにかく外に出ろ」などと言われまくる。
しかし、その言葉をかけた張本人は、舌の根も乾かないうちに次のような言葉も言うのだ。
「もっと他の人のことを考えて行動しなさいよ。他の人からは見られているものよ。」などと。
更に、「自分のいる集団が、その場にいない人の悪口を言ってもりあがる。悪口を聞いていて、『どうして他の人は、他人のそういう詳しいことまで見えているんだ? 自分は、ほとんど気づいていないのに。』と思った」経験も、おそらくひきこもっている本人には何度かある。

このような状態だと、「成功体験を積めば、自己肯定感を持てる。」なんて、とんでもないお言葉となる。
仮に華々しい成果をあげたとしても、達成感やら自己肯定感やらいったものは味わえない。
「とりあえず、これだと非難されないですむ。」「たまたま、幸運や他の人の助けに恵まれたからうまくいったというだけのこと。それらがなければ、非難される結果しか出せなかったに違いない。」
などと思ってしまうから。


ここまで、「異なった認識に基づいた助言や対策」が火に油を注ぐ事態となっているケースについて書いてきた。
では、助言や対策をどのように変えていけるか? それについて書いてみる。

 ひきこもっている本人側(というより、私の場合というほうが正しいが)に関しては、
・他のやり方もないか、考えてみること
・他のやり方によってもたらされるリスクがあると思うのなら、リスクに関して対策等を考えてみること
・「これまで本人に『世間様が決める狭い道』や罪悪感を植え付けまくった人たちと、これから接していくであろう人とを、わざわざ同一視する必要はない。」と認識すること。ただし、「植え付けまくったようなタイプの人を察知する力を、つけること」「そのような人から上手に逃げる/交わりを必要最小限にとどめる技術」等も同時に模索しながら。
・「他のやり方検討」や「察知や逃げる技術の模索」は、外に出なくても可能。というか、ある程度それらの検討や模索がうまくいくようになるまでは、外に出ないでやったほうがよい結果につながりやすいと思う。(私の経験から言えば、それらの検討や模索が下手な段階で外に出ると、狡猾な人に狙われ搾取される危険性大。しかも、搾取された本人は搾取と気付かない。それどころか、「自分が弱い/未熟だから、その(狡猾な)人に迷惑をかけてしまう。その(狡猾な)人は、自分のことを親身になって考えてくれているのに。」などと認識してしまうケース大あり。)

「他のやり方」の例として、私がとった方法について書く。見栄えのしない方法と思われるかもしれないが。
・「『夏炉冬扇さんって、100%悪い人という訳ではないんだろうけど、四角四面の何の面白味もない人』として、必要最小限のこと以外では、心理的には蚊帳の外に置かれること」を目指す。 という方法である。勿論「悪い人という訳ではないんだろうけど」と思われるラインはしっかりと考えながら。
いじめと裏社会性 3 - karotousen58のブログで書いた「裏社会性」についても、「自分の身を守るための、最低限の必要悪」として模索していく。

実際には、「何の面白味もない人」を目指しても、完全にそれを成功させることは難しかった。どこかで自分自身をさらけ出してしまうこともあった。しかし、そういうときでも、「輪をかけてひどい状態になる」とは限らなかった。
逆に、「夏炉冬扇さんって、こういう面もある人だったんだ。わかってからのほうが接しやすいし楽しい。」という態度をとる人が現れることもあった。「何の面白味もない人」を目指して、結果的に、「自分を出すことよりも、他の人に着目する」ことにつながったのでは? と思う。

周りの人に関しては、
「もしも、ひきこもっている本人が直接的な危害を加えないのなら、周りの人が『儀礼的無関心』のような振る舞いをするのも一つの策となりうる。」ということを知ってほしい。
本人にとっての「世間様が決めてきた、狭い道」以外にも、いろいろな道を模索し広げていくことが、最初に必要となる。その際、最初に広げる道は「自分の身を守るための技術」に関する道である。見栄えのしない広げ方と思われるかもしれないが。
それがない状態での「何か打ち込むものがあれば、外に出ていけるはず。」「異性の目を意識するようになると、人は変われる。」「成功体験を積めば、自己肯定感を持てる。特に、人とつながって得られた自己肯定感が必要。」といった助言は、本人を追い込むだけかもしれない。それらの助言よりも「儀礼的無関心」のほうが有効かもしれない。