ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 1
少し前のはてなホットエントリーに、「発達障害児・学校生活・合理的配慮」関連記事があった。「(発達)障害・学校(企業)文化・合理的配慮」について書いてみたいと、私はずっと前から思っている。しかし、うまくまとまらない。まとまらない最大の理由は、「それらは、いろいろな角度から検討を要する複雑な問題」で「どんなことからどんなふうに書いていけばまとまるのか、わからなくて混乱」ということにある。
うまくまとまらない状態で、強引に書いてみる。
「障害児と健常児が同じ場で学ぶ」ことに関連して、次のような流れで運動が進んでいったと私は捉えている。
1.「すべての子供を普通学級へ」という運動の中で、「障害児も健常児も共に学ぶ・みんな仲間」という類の言葉がスローガン的に使われる。それらの啓発イベントを、各種メディアが好意的に報道。「統合教育の成功例」のイメージがつくられた。
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2. 2000年代前半頃から、発達障害支援団体や家族会が、各種メディアや行政機関への働きかけを広げた。これらの運動は、「早期発見早期対策」をスローガンにしていた。そして、これらの運動は「特別支援教育への発達障害児参入、発達障害者支援法」という形で結実した。「早期発見と早期の専門家介入によって、健常者と共生できる」というイメージがつくられた。このイメージは、1.の「統合教育の成功例」と微妙に異なっている。
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3. 2014年、障害者権利条約が日本について効力発生。障害者権利条約第2条に、「合理的配慮」に関する定義がある。「普通学級と合理的配慮」というテーマでの意見発表がなされるようになる。
ここで、「『統合教育の成功例』イメージや『早期発見と早期の専門家介入による、発達障害者と健常者との共生』イメージが、実はウヤムヤな状態にあるのでは?」と私は思っている。
・言葉を使う側がその言葉にどのような意味を持たせているのか、はっきりと明かしていない状態にあるのでは?
・はっきりと明かさない状態で、それらの状態を理想化しているのでは?
・どういう状態にあるのなら、「学んでいる状態」となるのか?
・学べている状態にあるとしたら、その学びをどのように学校外での生活や卒業後の生活に生かしていくことができるのか? 活かせないとか却って邪魔になっているとかいったことになっていないか、吟味したのか?
等をウヤムヤにしていると、私には思える。
そして、それらをウヤムヤにしたままで、障害者権利条約や「合理的配慮」という概念を取り入れて「同じ場での学び」について語ることになる。それだけではない。「障害者権利条約や合理的配慮に関する解釈」もまた、ウヤムヤな状態にある。私にはそう思える。
では、「ウヤムヤ」の中身は何なのか?
それは
・障害者本人の言動を、他者(特に、支援者と見られている人)がどのように受け止めているのか
・その解釈にはバイアスがかかっていないか
・「支援が必要」とみなす自分自身の生活や感性は正常なのか? もしそうだとしたら、その基準は何なのか?
といった、他者(特に、支援者と見られている人)が自らの支援観を問う行為をしているのか否か、謎の状態になっていることである。私はそう考える。
「成功例に該当している事例」にのみ関心が向かっていて、そうでない障害者(もっと過激に言えば、支援者にとって都合の悪い障害者)にはてんで関心を向けていないのでは? と私は疑っている。「おまえがそんなことを発言すると、うまくいっている障害者の邪魔になる。実際、思い通りにならないからと言って文句を言うな。」などと言われることもザラである。
「外部から観察や要請のなされた障害者像」と「障害を持つ自分」のギャップは、存在しうる。
障害者本人以外の人が、障害というカテゴリーをどのように捉えているのか? そして、本人に何を求めているのか?
それによって、本人の語りを、「本人以外の人自らの価値観で」聞くに値するものとしないものとに分けていないか?
それらを検討しない状態での「共に学ぶ教育」「合理的配慮」概念なら、他者の支援までもが障害者の生活を困難にしてしまう恐れもあるのでは?(例 「特別扱い」という非難が他者からなされる) と私は思う。
では、表に出てこない「成功例に該当しない事例」とはどういうものなのか? それについて等を次回以降に書く予定。