karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 3

今回は、「早期発見と早期の専門家介入による、発達障害者と健常者との共生」イメージについて書く。

結論から言うと、前回書いた「ウヤムヤな状態にある『統合教育の成功例』イメージ」は、「早期発見と早期の専門家介入による、発達障害者と健常者との共生」イメージにもあてはまる面がある。

・「特別支援教育での学びは、他の場でも活かせる学びにつながる」像について、ウヤムヤ状態。

・「障害者による語り」について、「語りを聞く側がどのように受け止めているか?」それについてもウヤムヤ状態。(「『聞く側に有利な解釈がなされているかもしれない』などと自己懐疑をする必要などない」というのが本音では? と私は疑っている。)

・「発達障害に対する、ステレオタイプ的イメージ」に基づいた「マニュアル的応対」(本人と相性が悪い場合も有りうる応対)がなされてしまう危険性についても考えられているのか? 対策はどんなものなのか? それらについて、ウヤムヤ状態。

 

そして、それ以外にも、次にあげるような厄介な事柄が更に加わる。

・「医学」の持つ権力は大。更に、ひとたび診断名が付いてしまった場合、不可逆的なものとして作用する可能性大。発達障害という診断名は、「専門家や所属集団内等の、権力関係」が絡んだ場合、本人以外の人に悪用される危険性も有。「強い立場の人が作った仮説」が本人の不利益を強要、しかも仮説は専門家の一方的な解釈体系に基づくという場合でも、本人が反駁困難な状態に追い込まれる危険性大。

( 成人発達障害の「理解・受診」は、実は要警戒ワード 2 - karotousen58のブログ 参照)

発達障害という概念を歓迎しない、統合教育崇拝者多し。「単なる個性に過ぎないものをわざわざ障害に仕立てて、福祉のパイを奪おうとするずるい人たち」と彼(女)らが主張することもよくある。「統合教育の成功例イメージのウヤムヤさ」までを彼(女)らが持ち込むと、(障害者本人不在で)話は更に厄介になる危険性大。

 

ただ、「早期発見と早期の専門家介入による、発達障害者と健常者との共生」イメージについては、「統合教育の成功イメージ」よりも「発達障害者本人以外の本音」が語られている。

否、語る対象が「大人になってからわかった発達障害者」か「子供の発達障害者」かで、語りのトーンが変わる。

前者では、「あなたのまわりのコミュ障」「身近にいる、イタい人」「常識の通用しない、ハタ迷惑な人」といった類の物言いがなされる。後者では、「『周りを困らせる子』は『困っている』子」「発達障害者に優しい社会は健常者にも優しい社会」といった類の物言いがなされる。

前者で本音があらわとなる。後者では、キレイゴトも同時に語られてウヤムヤ状態にされている。

では、その本音とは何なのか?それは、

1.早期発見と早期の専門家介入により、教育や療育を中心として問題を解決する。

2.卒業後、療育手帳等が使える場合は、障害者福祉を利用して就労自立支援をすすめる。

3.「期待される発達障害者像」が最初にある。そして、その像に沿った言動をとることを本人に求める。発達障害者以外の人に、それについての「理解と環境調整」を求める。

である。

この本音は、「早期発見早期対応のなされた発達障害者は予後が良い。一方、未診断や未介入の時期が長かった者の予後は悪い(「あなたのまわりのコミュ障」「身近にいる、イタい人」「常識の通用しない、ハタ迷惑な人」等の状態となる)。」という形を取って広まった。

大人になってから分かった発達障害者は、(ほんの一握りの成功ケースを除いて、)「反面教師」的トーンで語られる。「ハタ迷惑なのに無自覚。無自覚だから、常識を身につける努力なんてしない。しかし、本人には悪気がない。」などと。

また、1と2は問題解決を「教育と福祉」に求める立場にある。問題解決を「社会やシステムの設計を再検討、必要とあらば変更」という立場にはない。発達障害者側が後者の提言を試みるならば、3に反することになり発言困難。「理解と環境調整」像も、「発達障害者以外の人サイド」のものとなる。しかも、「理解と環境調整」の中身については、具体的な内容説明がほとんどなされない。

大人になってからわかった発達障害者の場合、「心身がぼろぼろになり、医師から労働中止等のストップがかかる」状態にならないと障害者福祉を利用することは困難となる。

つまり、問題解決を「教育と福祉」に求めるのならば、大人になってからわかった発達障害者には受け皿がほとんど存在しないことになる。

 

最初に述べた「ウヤムヤ状態」に戻る。

 

・「特別支援教育での学びは、他の場でも活かせる学びにつながる」像や

・「障害者による語り」について、「語りを聞く側がどのように受け止めているか?」

・「発達障害に対する、ステレオタイプ的イメージ」に基づいた「マニュアル的応対」(本人と相性が悪い場合も有りうる応対)がなされてしまう危険性についても考えられているのか? 対策はどんなものなのか?

ということについて

 

特別支援教育では、どのような学びを目指すのか。

結論から言うと、「発達障害者本人が、社会的・経済的不利益を被らないように、それ以上のマイナスを背負わないように」していく為の学びはほとんど期待できない。

発達障害者が「問題」を起こさない方法や起こした場合の対応方法を習得する」「発達障害系の人のことを考えて非発達障害者が行動を変えるなんて面倒なことはしないで、気持よく毎日を暮せるようになる」為の学びとなる可能性が大。

では、「障害者による語り」について、語りを聞く側がどのように受け止めているか? 

結論から言うと、「非発達障害者は正常な側、発達障害者は異常な側。医学が正しさを担保。」「専門家や支援者が発達障害者の機能不全および特性を、一方的に解釈し論じるのが妥当。発達障害者は社会的認知力が弱すぎるから、自分に好都合な解釈を勝手にしてしまう。」と受け止めている。

発達障害者は、「自らを語ることが出来ない」状態に追い込まれる。たとえ語ったとしても、それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠される。つまり、解釈する他者によって、都合の良いように代弁されてしまう。

「解釈する非発達障害者が社会正義であり、そこから逸脱しているのが発達障害者」という定義がなされた場合、発達障害者側が「逸脱の正義」を修正しうる可能性は極めて低い。何故なら、抗議行動に出ようものなら、従来のスティグマに加えて「過激な発言をする人」という新たなスティグマも追加されてしまうから。

( 成人発達障害の「理解・受診」は、実は要警戒ワード 3 - karotousen58のブログ 参照)

つまり、特別支援教育での「学び」も、「権力者や他者による支配や抑圧を受け入れてしまうための、下地を作る」ものとなる危険性大ありと考えられる。そして、「発達障害に対する、ステレオタイプ的イメージ」に基づいた「マニュアル的応対」(本人と相性が悪い場合も有りうる応対)がなされてしまう危険性も大ありと考えられる。

 

「未診断や未介入の時期が長く、かつ、福祉のサポートが得られない状態にある」成人発達障害者は、しばしば、「反面教師」的なトーンで語られる。特に、「所謂専門家」や「職業的支援者」や「家族や所属集団の人」から。マスコミ報道を通した形でも。しかし、「それらは的外れだ」と私は思う。

「大人になってから『自分が発達障害では?』と疑うようになった人」は、実は、「健常者中心文化」を積極的に求めて支持していこうとする人も結構いる。

寧ろ、「健常者中心文化に基づいた、(障害者の身体や感覚と、必ずしも相性が良いとは限らない)規制についていけず、落ちこぼれてしまった」というコンプレックスを強く持っているのでは? そして、そうであるからこそ、「(発達障害のことを知った)今度こそは、ついていきたい。ついていけるように努力したい。」という意識が強まっているのでは? と私には思える。

彼(女)らが他の発達障害者を、「『健常者中心文化を積極的に求めて支持して、その文化についていく』という方向性の努力を怠っている人」とみなすことも、多々ある。そのとき、他の発達障害者に対して「激しい非難」がなされるケースもよくある。自助会や成人発達障害系サイト/ブログで、何度も私は経験した。

この「健常者中心文化を積極的に支持する」行動は、「自己否定」をベースとする。それだけではない。「発達障害者には認知のゆがみがある。また、常識を身につけていない。だから、物事を被害的に解釈してしまう。」などといった、まなざしを向けられてしまう。

この行動は結局は、「権力者や他者による支配や抑圧を受け入れてしまうための、下地」へとつながってしまうのでは? 私にはそう思える。

  

次回は、「学校文化と、それにつながった一般社会」について書く予定。

「健常者の身体と生活」に基準を置いた「健常者中心文化」が、現状ではやはり一般社会の主流となっている。

「障害者の持つ身体や感覚機能や精神活動」と主流文化との関係性は、どうなっているのか? 「きわめて相性の悪いもの」となることもありうる。

それらを無視した上で、「統合教育は素晴らしい。」「特別支援教育で、学校文化的常識をしっかりと身につける必要あり」という語りがなされているのでは? その語りは「学び」とやらにどう反映されているのか? といったことを書く予定。