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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「『障害者×感動』の方程式」周辺にあるもの

 

NHK:「障害者を感動話に」方程式批判 - 毎日新聞

「自分の幸せが改めてわかる」という理由に吃驚。「『非障害者の自分』と対比→自分と異なるカテゴライズ→幸運/感謝を隠れ蓑に同情/優越感を持つ」自分を見つめた上でのその回答なら、関係性改善の模索に繋がるかも

2016/08/30 01:23

 

この記事で私が最も驚いたのは、次の箇所である。

 「障害者の感動的な番組をどう思うか?」と健常者と障害者100人ずつに聞いた調査では、「好き」は健常者が45人に対し、障害者は10人。健常者の好きの理由は「勇気がもらえる」「自分の幸せが改めて分かる」など、障害者は「取り上げてもらえるなら、感動話でも仕方ない」だった。

 

好きな理由を見て驚いた。「これはひどい」という意味ではない驚きも含まれている。

「勇気をもらえる」「自分の幸せが改めて分かる」「取り上げてもらえるなら、感動話でも仕方ない」というコメントは、回答した本人が自らの思考や感情と向き合うことから逃げなかった結果として、出てきたものかもしれない。

そう思ったからだ。

この調査に対しては、「『次のことをふまえた理由』を美しいタテマエとして答えればよい」という態度で逃げるケースが多いのでは? と私は想像している。

「障害者差別があるのは、学校教育からずっと分けられてきてお互いを知らない状態にあるから。無知が差別や偏見の育つ温床。差別や偏見は、知識や心や考え方の問題。それらを変えていくこと、お互いが理解し合うこと、時間や場を共有することが大切。」ということを踏まえた理由。

 

実を言うと私は、「自称支援者や自称理解者」や「義務教育時代から統合教育を受けていた。だから、障害者との接し方を自然に学びとった。差別の原因は無知。一緒にいることが大切。」と主張する人のほうが怖い。彼(女)らの中には、その美しいタテマエを主張して「彼(女)らにとって都合の悪い障害者」を黙らせる人が少なからず存在するからだ。

無知が差別や偏見の温床である。それは確かに正しい。しかし、知識を身につけた/同じ時と場を共有したとしても、それだけでは対策とはならないと私は思う。知識や時や場の共有とともに、「自分たちがいかに、差別や偏見の関連した日常を暮らしているか」を見つめなおす必要もあると思う。

 

ブックマーク元記事より

 

NHKのEテレの情報バラエティー番組「バリバラ」で28日夜、「検証!『障害者×感動』の方程式」と題した生放送があった。「清く正しい障害者」が頑張る姿を感動の対象にすることを「感動ポルノ」と表現し、「感動は差別だ」との障害者の声を伝えた。同時間帯は日本テレビ系で障害者の姿を伝えるチャリティー番組「24時間テレビ」が放送中だった。

 

 番組では、自身も障害者で「感動ポルノ」の言葉で問題提起した豪州のジャーナリスト兼コメディアン、故ステラ・ヤングさんの「障害は体や病気よりも、私たちを特別視してモノ扱いする社会の方」との発言を紹介した。

 

 頑張りの方向性は、パラリンピック等のイベントや障害者アート等の芸術だけではない。

「『彼(女)といると癒されます』と思われるような、けなげで可愛い障害者になるように、頑張れ」圧力という方向性が、最も一般的である。

つまり、「頑張って、顔色伺い力や可愛がられ力を身につけろ」ということである。そして、中心になってそれを推奨する人物は、実は、自称理解者や自称支援者である。

「義務教育時代から統合教育を受けていた。だから、障害者との接し方を自然に学びとった。差別の原因は無知。一緒にいることが大切。」と主張する人達(全員が全員というわけではないとは思うが)からも、私は何度も言われた。「統合教育では、健常者の顔色伺い力や健常者から可愛がられる力を身につけるべく、障害者だって努力する。」と。

障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログで、私は次のことを書いた。

・非障害者サイドでつくられた「期待される障害者像」「ありうべき共生像」の、いかがわしさ

・非障害者側が、「障害者が、協力的な周囲に助けられた。勿論、障害者本人も頑張った。周囲の人々も障害者に親しみを感じて、偏見をなくした。障害者と接することによって、健常者も優しさや思いやりの大切さに気付き、人間的に成長した。」という類の(予定調和的な)美談を、「ありうべき共生像」として流通させる。

・「期待される障害者像」「ありうべき共生像」が支配する空間で、障害者は、「克服のエピソードとあわせて苦労話を語ること」が期待される。それを語る際には、「周りの人々の協力」がセットになっている。

・「人々に共感してもらえることって、(障害者側も)うれしいことでしょ。必要な手助け等について話すこともできるのなら、あなたたち障害者への理解が進むことも期待できるわよ。そのためには、親しみを感じてもらえるようにふるまうことも大切よ。」的な誘導が、障害者に対してなされる。

・「期待される障害者像」に沿った言動を取る障害者は、納得され、場合によっては称賛される。しかし、「期待される障害者像」から外れた障害者は問題視され、非難の対象となる。「期待される障害者像」や「ありうべき共生像」に疑問を呈したり異議を述べたりした場合も同様。

・「障害が及ぼす影響」には、「本人や身近な人物の持っている、各種資本と地位」「(追い詰められた際の対処法としての)手練手簡も学び取れる実力」も大きく絡んでくる。個々人の経済的・社会的事情によって、態度が変わることもよくある。しかし、「期待される障害者像」「ありうべき共生像」では、それらは「存在しないもの」とされる。

(念のための注 「障害者の要求は全部受け入れろ」という意味ではない。社会で生きるためのルールを把握し守ることは、当然障害者側にも必要。)

 

つまり、「障害者×感動」の方程式は、例のチャリティー番組にのみ存在するわけではない。非障害者サイドでつくられた「期待される障害者像」「ありうべき共生像」にも、しっかりと存在する。これを私は主張したい。

「愛される障害者と接して、非障害者である自分自身も癒される/成長する」という感情を出発点として、障害者ー非障害者間の非対称的な構造を考える。「癒される/成長する」と感じる自分がその構造の中でどういうポジションにあるのかを内省して把握する。

このプロセスを無視した「癒される/成長する」という類の「感動」が、批判の必要なものであると思う。

自称理解者や自称支援者やそれらの崇拝者が支持する「障害者×感動」の方程式は、「苦労する障害者」と「それから免れて生きてきた自分たち」と対比のうえで消費されるものである。つまり、「非障害者として生まれたことへの感謝」という形を取って、控えめな優越感が示される。

「勇気をもらえる」「自分の幸せが改めて分かる」「取り上げてもらえるなら、感動話でも仕方ない」という思いの内実を検討していくことは、障害者の差別や権利を意識化して考えていくスタートともなりうるのかもしれない。

 

障害者殺傷事件関連で、「犠牲者を記憶にとどめるために、被害者の実名報道が必要」などという見解が出された。

障害者団体や支援者団体によって。

この「実名報道が必要」という主張の裏にも、「障害者×感動」の方程式がしっかりと隠れていると思う。

この主張と「障害者×感動」の方程式についても後で書きたいのだが、うまくまとまらない状態にある。