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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 1

障害 発達障害 ひきこもり

 

「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

隠れたテーマは他にも有。「友達と楽しんでいる姿を見せて、大人を安心させろ/大人がはっきりと要求するよりも前に、空気を読んで行動できる子になれ」休み時間という名前でも、大人を安心させるためのある種の労働

2017/01/24 00:49

はてなブックマーク - 「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

「仲間と自由にのびのび/人とのかかわり方を学ぶ」とはどんなこと?「本を読むのはそれらに該当せず」と、この顧問はお考えのようだが、その認識は「本を読む子の経験や視点も経由されてるか?経由なしで関わり方学習?

2017/01/26 01:37

 はてなブックマーク元に出ている投書内容を、私は「一人はダメだよ教」と勝手によんでいる。「一人はダメだよ教とのつきあい方を模索する」必要を感じたことがある人は、どのくらいいるのだろう? 「必要だと感じた」と表明して、「そんなことを感じるようではダメだ」と詰られたことがある人は、どのくらいいるのだろう? はてなブックマーク元記事を読んで、私の頭に最初に浮かんだことはそれである。

(少なくとも、私の観測範囲内では)普通学級に入った障害児は、この「一人はダメだよ教」を強く叩き込まれる可能性が高くなる。更に統合教育崇拝者が介入した場合、彼(女)らによる叩き込みは極めて強烈なものとなる。

支援者とよばれるポジションにある人からも、強く叩き込まれることがしばしばある。

(注1「インクルーシブ教育」ではなく、「統合教育」としたのには理由がある。「投げ込み統合」に相当する語句が、インクルーシブ教育を語る場で使われないからである。)

(注2 統合教育「崇拝者」と表現したのは、「彼(女)らが、過去にあった投げ込み統合について有耶無耶にしている」と私が認識しているからである。)

(注3 「それなら夏炉冬扇は分離教育賛成派なのか?」という疑問もあるかもしれない。賛否というより、「現状では、統合教育と呼ばれているものも実態は分離教育」と私は捉えている。)

 

そして、強く叩き込むことが「障害児本人や周りの人にとっての暮らしづらさ」につながるケースがでてくることもありうる。私はそう考える。

暮らしづらさにつながってしまう場合、「一人はダメだよ教とのつきあい方を模索する」ことも、「暮らしやすさの追求に近づく方法の一つとしてあり」だと思う。

(念のための注 「暮らしやすさ」は「本人のみが暮らしやすくなること」を意味するわけではない。「追い詰められた状態で他の人と接するよりも、ある程度落ち着いた状態で接したほうがよりよいコミュニケーションを期待できる」という意味である。)

 

 

統合教育崇拝者が関心を持つのは、「自分たちの考える、ありうべき統合教育の姿」や「3の『艱難汝を玉にす』となった(と崇拝者が認識した)姿」や「障害者本人や周囲の人による、その姿を実現させたという語り」である。「その姿から離れた障害者本人が、実際に受けている・過去に受けた処遇」にはほとんど関心を向けない。(少なくとも私の観測範囲内においては)

そして、「学校は勉強の場である以前に、生活の場。共に暮らしていれば、その子なりの学びや成長がある。他の子も、優しさや思いやりを学ぶ。子供時代に普通学級に入れてもらえなかった人が、大人になってから、『障害者や施設以外の世界を知らないから、社会に適応でない』と主張している。」「分けられて障害者を知らない生活が続くから、健常者側が偏見を持つようになる。」と、統合教育崇拝者は語る。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 2 - karotousen58のブログ

 

 

このような状態では、「障害者による語り」は、統合教育崇拝者が障害者本人に期待している語りによって、「統合教育成功イメージに使えそうなもの」と「そうでないもの」に分けられる危険性がある。また、障害者の語りに関する解釈は、統合教育崇拝者や教師や親等に委ねられてしまうと思われる。(つまり、解釈にズレが存在する可能性やズレが存在することをシカトされる危険性がある。)

実際、「実力のある障害者が話すことは、歓迎される。だけど、僕たちの話すことなんて聞いてもらえないに決まっている。作文を書くときは、いじめられたとか楽しくなかったとか書くと怒られる。『いろいろあったけど、今ではいい思い出』とか書かされる。本当は自分は歓迎などされていないということぐらい、わかってる。」と告白する障害者を何人か、私は知っている。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 2 - karotousen58のブログ

 拙ブログ過去記事引用部を使って主張したいのは、「統合教育崇拝者や支援者とよばれる人が、『ある種の判断基準によって児童(特に障害児)を序列化する』のは、実はよくある話。しかも、『優生思想や能力主義はいけない』『分けることは悪』といった類のキレイな言葉を同時に使って。」ということである。

では、ある種の判断基準による序列化とは何であるか? それは、

1.「みんなと一緒にいると楽しい、うれしい。だから、みんなと一緒に行動したい。友達をたくさん作りたい。」と表明する子は、人間的に成長しているよい子。

2.「いじめられる、楽しくない。だから、みんなと一緒がよいこととは思えない。」と表明する子は、成長への努力を怠る悪い子。

3.「いじめられている。だけど、いじめる子も仲間。だから、交わる努力をしなきゃいけない。その子以外の友達もたくさん作るように努力しなきゃいけない。」と表明する子は、1.と2.の中間。

という序列化である。

それだけではない。序列化されるだけでは終わらない。「自分よりも、もっとひどい状態にある子もいる」と思うことによって「自己肯定感が得られる」と、主張する人もしばしば登場する。状態の例としてよく引き合いに出されるのが、「友達の人数」や「集団での行動について、どのように発言したか」である。

「A子には友達が何人かいる。だけど、B子は友達がいないから一人で弁当を食べる。A子はB子よりも人間関係を上手に作れているという証拠だ。だから、A子さん、自信を持っていいよ。」といった類の激励を、私はいろいろな場で聞いたことがある。

 

「一人で過ごすことは逸脱行為。みんなと一緒に過ごさないと、人との関わり方を学べない。みんなと一緒に過ごすという方法で人との関わり方を学ぶのは、望ましいことだ。」という見解を、どうやら、投書主はお持ちのようだ。ひょっとしたら投書主は、「この見解は、投書主のみならず世間一般に共有されているはず」と確信しておいでなのかもしれない。少なくとも、統合教育崇拝者やある種の支援者には共有されているようだが。

では、その「望ましさ」は、誰にとっての、どんな、何のためのものなのか? 望ましさへの到達度や達成度は、誰がどのように評価するのか? 評価の内容は妥当なのか? 評価可能と言い切れるのか? そもそも評価自体が必要なのか? 私は疑問に思う。

「一人で過ごすことも、本人の創造した適応方法の一つ」という可能性はないのか? 単なる逸脱行為なのか? どちらとも言い切れないのか? それらに対する「投書主や統合教育崇拝者の『捉え方』」が謎の状態にあるぞ。という思いも、私にある。

これらのことについて、次回書く予定 。