karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 2

「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

隠れたテーマは他にも有。「友達と楽しんでいる姿を見せて、大人を安心させろ/大人がはっきりと要求するよりも前に、空気を読んで行動できる子になれ」休み時間という名前でも、大人を安心させるためのある種の労働

2017/01/24 00:49

 

はてなブックマーク - 「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

「仲間と自由にのびのび/人とのかかわり方を学ぶ」とはどんなこと?「本を読むのはそれらに該当せず」と、この顧問はお考えのようだが、その認識は「本を読む子の経験や視点も経由されてるか?経由なしで関わり方学習?

2017/01/26 01:37

 

"「みんなと一緒に過ごしたらどう?」と何回も声をかけた"とのことだ。この「何回も」という記述が、私は気になる。

この顧問が声をかける際に、

「お互いが認識を変えていく」という方向性を持っていたのだろうか? 

それとも、「人との関わり方を学ぶ努力を怠る女子児童に対して、『頑張って交流しなきゃ感』で行動を促す必要あり。行動が変わらないようなら、『交流できている安心感』が得られない。」という認識のままだったのか? 

どちらでもないのか? 

それが気になる。

 

この顧問が女子児童に対して持っていた関心事は、「女子児童に何ができて何ができていないかという、能力的なこと」や「女子児童本人を問題化すること」ではなかったのだろうか? と、私は疑っている。

「女子児童の行動にも、本人なりの事情や感情や思考などがおそらく隠れている。その事実と自分がどう向き合うか、試行錯誤していこう。」といったような思いが顧問にあったのだろうか? 私にはそこに疑問を持っている。

  

本の学校文化で最重要視されていることは、「ある種の(←ここ重要)思考力養成」だ。

本の学校では、「集団を作り、効率的な協調で課題を遂行していくこと」が最重要視されている。給食、掃除、学校行事、登下校などの学科外活動でも、積極的にそれらの教育がなされている。学科外活動では、各教科の学習や教育よりも無意識的に行われている。学校に通う日は毎日行われる。それ故、学科外活動での教育にかかる時間も「積み重なって大きくなっている」状態にある。否、無意識かつ反復継続的故、学科教育よりも影響は極めて大だ。

「集団を作り、効率的な協調で課題を遂行する」ために、「ある種の」思考力が強く要求されることになる。

課題遂行のために必要な役割や分担等については、「教師が決める」「事前に打ち合わせをする」といったことで決まるケースは極めて稀だ。固定的な役割を与えられない子供が、「状況に合わせてお互いに自分で役割を見つけて行動する」ことが期待されている。しかも、子供は、はっきりと明示されない「教師の意図」「他の子供の意向」を読み取ることも求められている。教師や子供相互の「無言のサイン」に反応して状況把握をして行動するためには、極めて高度な観察力、認知力、理解力等が必要となる。

「ある種の」思考力とは何か? それは、「無言のサインに反応して状況把握をしてスピーディーに行動できる状態に辿り着けるような」思考力である。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 4 - karotousen58のブログ

 拙ブログ過去記事引用部を使って主張したいのは、「みんなと一緒に過ごさなかったことだけが問題化されたわけではない。ブックマークコメントに書いた事柄も問題化された」ということである。

「顧問=能力の欠けている女子児童を正しく導く人」「女子児童=正しく導かれるべき人」という解釈のレールが敷かれたと、私は捉えている。

 

女子児童が「休み時間にみんなと一緒に過ごす」ことで、どのような人間関係づくりを望むだろうか? 「休み時間にみんなと一緒に過ごして」学ぶ(ということになっているらしい)ことを、どのような場面で何のために使うのを望むだろうか? 

とか

「顧問本人が、どのような人間関係づくりを学校という場で過去にやっていたのだろうか? と振り返ってみる」とか「時代や環境等の違いも踏まえて、それらを捉えなおしてみる」

とかいったことを本当に考えた上で、「女子児童本人のみを問題化」としたのだろうか? という疑問が私の中にある。

 

「一人で過ごすことは逸脱行為。みんなと一緒に過ごさないと、人との関わり方を学べない。みんなと一緒に過ごすという方法で人との関わり方を学ぶのは、望ましいことだ。」という見解を、どうやら、投書主はお持ちのようだ。ひょっとしたら投書主は、「この見解は、投書主のみならず世間一般に共有されているはず」と確信しておいでなのかもしれない。少なくとも、統合教育崇拝者やある種の支援者には共有されているようだが。

では、その「望ましさ」は、誰にとっての、どんな、何のためのものなのか? 望ましさへの到達度や達成度は、誰がどのように評価するのか? 評価の内容は妥当なのか? 評価可能と言い切れるのか? そもそも評価自体が必要なのか? 私は疑問に思う。

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 1 - karotousen58のブログ

「誰」の中に、女子児童本人はカウントされていないのでは? と私には思えて仕方がない。

 

「一人で過ごすことも、本人の創造した適応方法の一つ」という可能性はないのか? 単なる逸脱行為なのか? どちらとも言い切れないのか?

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 1 - karotousen58のブログ

 次回は、このことについて書く予定。といっても、女子児童本人の内面を勝手に決めつけるわけにはいかないから、私自身のことについて書くが。