karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「おやつ」のまわりにあったもの

今週のお題「おやつ」

 

このお題を見て、私が小学生だった頃のおやつも思い出した。

当時の私のおやつは、ほとんどが近所の駄菓子屋で買ったものだった。駄菓子屋の店の様子や当時買っていたお菓子が、私の頭に浮かんできた。

 

大袈裟と思われるかもしれないが、書いてみる。

今振り返ってみて、「この『駄菓子屋』や『お菓子』のまわりには、『学校関係や家族親戚以外のいろいろな人(特に大人)と私との、ある種のつながり』があったのでは? そしてそのつながりは、学校文化と壊滅的に相性が悪かった私にとって貴重なものだったのでは?」という思いが浮かんできた。

 

駄菓子屋の人は、みんないい人だったと思う。「店に来る子が、学校文化的序列でどういうポジションにあるか」ということに関心のない人なのでは? と子供心にも思っていた。当時の私の身近には、「学校文化的序列(今では、スクールカーストと呼ばれているらしい)に異様に関心を持ち、序列の下位にいる子は容赦なく貶す」タイプの大人がいた。私はスクールカースト最下層にいる子供だった。

店の人は、「スクールカースト上ポジションには関心はない。店に来る子はみんなかわいい。」という態度で接してくださったのだと思う。だから安心できた。「大人の全員が全員、私を貶すというわけではない。安心できる大人もいる。」という思いが、私の心のどこかにできていたのだと思う。

店に行く→お菓子を選んで買う→家に帰る という行動は、時間にしてみればごく僅かだ。しかし、この僅かな時間は、とても貴重な時間だったと思う。この駄菓子屋は、当時の私にとっての貴重な居場所だった。

 

私が義務教育を受けていたのは1970年代だ。当時、「パッケージやおまけについていたカードなどで、昔話や伝承遊びや豆知識や名画などが紹介されていたお菓子」が結構あった。それらの紹介も、私は楽しんでいた。「それらから得た知識や感性は、結構大きなものかもしれない」と、私は思っている。

「知的で役に立つことを、無知な子供に教えてあげよう」という上から目線的なものを、私はそれらから感じなかった。

私の勝手な想像だが、関連を持っていた人が、次のような思いを持っていたのでは? と思えてしまう。

・知的好奇心や芸術などを味わうこと、そしてそれらを紹介することに対する、ワクワク感

・「学校から少し離れたタイプの学びもあるよ。それらの学びも楽しいかもしれないよ。」という思い

・「もしもそれらの紹介を楽しんでもらえたら、紹介した大人もうれしいよ。」という思い

「お菓子を手にとって(食べ物としても紹介されたものとしても)味わう」ということで、お菓子に関連していた人と私とはつながっていたのでは? と私は思う。

 

「店でお菓子を買って食べる」ただそれだけの行為じゃないか? と思われるかもしれない。しかし、たったそれだけの行為の中で、私の中の思考や感情はいろいろと働いていた。それは私にとっての事実だ。そしてそれは私一人だけで得たものではない。

「駄菓子屋の人」や「全然想像のつかない、見知らぬ大人」とのつながりから得たものだと思う。「学校と家以外の世界」を持てたことは、(特に当時の)私にとって大きかった。