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「LGBTが気持ち悪い人の本音」記事に対して思うこと

 

LGBTが気持ち悪い人の本音 「ポリコレ棒で葬られるの怖い」 - withnews(ウィズニュース)

アンケート記述の"非寛容、被害者意識、選民思想感"という感情と向き合うことが大切と思う。感情が湧いたこと自体は悪ではない。感情の背後に暗黙のうちに前提とされているような、複雑な社会構造を考える必要有かも

2018/04/07 01:21

  

絶賛炎上中の「LGBTが気持ち悪い人の本音」記事はなぜ完全にダメなのか | BUZZAP!(バザップ!)

元記事には大きな問題有。しかし、"「ただの差別主義者」へのインタビューに愚にも付かない感想が"と決めつけることには疑問有。差別を「個人の行動」としてのみではなく「社会のあり方」として捉え再考も必要では?

2018/04/12 00:30

 言及されている記事を読んで、いろいろなことが私の頭に浮かんだ。てんかん発達障害への偏見/差別にまつわる今までの経験や(注 私はてんかん患者であり発達障害者でもある。)、今までに受けてきた「差別や人権に関する、啓発教育/活動」の内容などを。

言及されている記事のBさんや原田記者へ、激しく批判や非難がなされている。言及されている記事には、確かに、大きな問題があると私も思う。「ポリコレ棒」や「最後の行」についてどのような認識がなされているのか、きちんと説明がなされていない等。

しかし、私は現段階では、Bさんや原田記者を「ただの差別主義者」と決めつけることができない。

非難されそうなことを敢えて書く。

ひょっとしたら、Bさんの「気持ち悪い」という表現は、Bさんが自分自身と向き合ったからこそ浮かんだものかもしれない。 仕事のクライアントに会うまでは、「LGBTの人なんて、我々とは関係のない別世界の人達。」としか考えていなかった。しかし、クライアントと実際に接して、「我々とは関係のない別世界の人達」ではなく、「我々の日常生活に入っている人達」という思いも浮かんできた。

そして、「関係のない別世界」以外の、「(勝手に想像していた,、保毛尾田保毛男イメージ等)ではなくクライアントのリアルな存在」や「保険金の受取人になれないこと」などに思いを巡らせるようになった。

思いを巡らせることは、これまで「別世界の人としていたこと」や「自分自身が、差別や排除のなされている社会を構成する一員であった」ことを自覚することを、せざるをえなくなることでもあった。これはとてもつらいことである。

このつらさに直面したからこそ「気持ち悪い」という表明がなされたのかもしれない。

私はそう考える。そして、「Bさんは『このつらさを、存在しないことにする』と表明したわけではない」と、私は信じたい。

そして、「ひょっとしたら、原田記者の思惑は『次のことを考えながら読んでほしい』だったのかもしれない。」と、私は思っている。

  1. 「差別や排除は悪いこと」「自分は差別や排除をしたくない」というのが、ほとんどの人が持つ思いなのだろう。しかし、LGBTに対して、少なからぬ違和感や拒絶的反応が表明されることがしばしばなされる。では、「差別や排除は、人権感覚に乏しい特定の人達が引き起こすこと。その人達が、知識や感情や考え方を変えたらよいだけ。」と考えてよいのか?
  2. 差別や排除は、実は、「人権感覚に乏しい特定の人達」以外によってもなされているのでは? 否、「なされている」というより、「個人の中の差別意識の有無とは無関係に、差別に加担してした形になった」ということもありうるのでは? つまり、「ごく普通の人が、本人にもわからないまま差別に加担していた形になっていた」ということも起こりうるのでは?
  3. 2.について考える場合、1.で述べた「違和感や拒絶的反応」に着目することも重要では?そして、そこから、差別や排除について新たに考えてもよいのでは?

そのように思った背景には、てんかん発達障害への偏見/差別に対する私の思いと、今までに受けてきた「差別や人権に関する、啓発教育/活動」の内容とがある。

 

てんかん発達障害の場合、「患者でも障害者でもない人のホンネは、次のようなものが多数なのだろうな。」と今の私は思っている。

  • てんかん発達障害に対しては、差別や偏見がある。差別や偏見については、患者や障害者本人の自助グループや家族や医療関係者の団体内で対策や療育方法を考えて実行していけばよい。患者や障害者でない我々とは別カテゴリーの人達なのだから。
  • 差別や偏見はやはり悪いことであり、きちんとした知識を持つべきだ。だが、どんなことが差別や偏見とみなされるのかわからない。差別や偏見のない状態を目指すためには、お互いの日常を脅かすかもしれない関わりをもつことを、できるだけ回避する行動を取るのが無難。

つまり、「差別や偏見は悪いこと」という認識は、自らを「差別する側でもされる側でもない、かかわりのない立場。差別や偏見の存在する場とは、別世界で暮らしている立場。」に置いたうえでなされている。私はそう考える。

 

私が今までに受けてきた「差別や人権に関する、啓発教育/活動」について、「次のような方向で行われている」というイメージを持っている。このイメージについては「教育/活動内容について、私が誤解している」可能性もありうるが。

  • 差別や排除は「知識や感情や考え方」の問題である。それらのあり方を変えることが教育や活動の目的である。
  • 知らないから差別をする。無知を克服して偏見をなくすことがまず大切。このことを周知させる。
  • 排除や差別は、人権感覚に乏しい特定の人達が引き起こす行為。偏見を持っていることと「優しさや思いやり」が足りないことが原因で、差別が起こっている。優しさや思いやりの心を涵養する必要がある。
  • 差別や排除の事例(特に、ショッキング/悲劇的な内容のもの多し)を紹介して、受講者のテンションを高くさせる。→それらへの怒りや被害者への共感を学習者から引き出す。
  • 教育/活動を行った側が喜びそうなことを、感想として情緒的に発表することを目標にする。

私は、「これらの『教育/活動』の方向性」には怖い面があると思う。

ひょっとしたら、これらの「教育/活動」像をBさんも持っているのかもしれない。元記事の「ポリコレ棒」「社会的に葬られる」イメージは、この「教育/活動」像とつながっているのかもしれない。

 

「誰も排除しない、差別しない、偏見を持たない」人には、なれるのか? 答えはおそらくノーだ。おそらく誰もが、「他の誰かを排除/差別し、偏見を持つ」危険性を持っている。

誰かを疎外することが、組織的に生じたり公的な場で起こった場合、人権は脅かされる。多くの人が「いつも誰かを疎外してしまう、僅かな危険性」に気付いていない場合、その「僅かな危険性」が積み重なってその場を支配していく。そして、「誰かを疎外するシステム」が社会全体に組み込まれてしまう。こういう形で生ずる「差別や排除」もあると思う。

こういう形で生ずる「差別や排除」の場合、個人個人の中の偏見や差別意識の有無とは無関係に、「差別に加担したり引き起こしたりしてしまう」ことになりうるのでは? と私は思う。

差別者と被差別者、簡単にカテゴライズできるのか? これについても考える必要があると思う。

 

私はてんかん患者である。高校時代に発症した。高校、大学、会社員時代に「私以外のてんかん患者に対する、差別発言」がなされた場に居合わせたことがある。

高校と大学のときは、その場で私はケンカを売った。差別発言がなされた場では、発言した人以外にも人が何人かいた。発言者以外は傍観していた。ケンカを売ったときに私は、自分がてんかん患者であることを隠した。会社員時代になされたときは、私は黙っていた。

この場合、「傍観していた人」が「自分の行為は差別なのか?」と悩むこともありうる。個人個人の中の偏見や差別意識の有無とは無関係に。そして、私は「差別者、被差別者」のどちらとも考えられる。

 

てんかん患者が、患者しかいない場で次の言葉を言うことがしばしばある。

「親が最初の差別者だった。てんかんだとどこがどうダメなのか、何故差別的な目で見るのか、全然説明してくれなかった。他の人に相談しても、『親が自分の子を差別するなんてありえない。おまえはひねくれている。」と言われるだけだった」と。

この場合も、てんかん発症の時点で、「個人個人の中の偏見や差別意識の有無とは無関係に」差別が生じてしまったのかもしれない。そして、親は「世間一般からの被差別者」にもなったと思われる。

 

話を元記事関係に戻す。「実は、Bさんは次のような状態になっていた」という可能性はゼロとは言い切れないと思う。

Bさんが仕事のクライアントに接したことがきっかけで、それまで疑ったことのない異性愛中心主義についてふりかえることになった。

異性愛中心主義がもたらしている抑圧(例 "上の世代は『気持ち悪い。人間じゃない。』と切り捨ててしまう"発言)、加害する危険性を持っているかもしれない自分、「個人個人の中の偏見や差別意識の有無とは無関係に、生ずる差別」での自分の立場、これらが頭の片隅に浮かぶようになった。

そのとき、Bさんは自分自身の「日常のあたりまえ」を揺さぶられたように思った。

その「揺さぶられ」のレベルが大きかったがために、Bさんは自分自身の「日常のあたりまえ」を「守ろう」と試みる。そのとき、「自分とは無関係、別世界の人達。理解不能。」として自分と切り離そうとしたり、怒りや恐怖を表明したりする。

「切り離し、怒りや恐怖の表明」自体が持つ問題性について、更に指摘されて混乱しまう。

Bさんにとって、つらいこととして認識される。

 

この「つらさ」を「あってはならない感情」と誰かがみなし、次のような主張をすることがあるかもしれない。「差別や排除について学び、差別や排除をしていた自分を自覚して、被差別者に共感しなければいけない。」という主張を。

しかし、私は思う。「下手をすると、差別や排除の拡大再生産にもつながりうるのでは?」と。

では、この「つらさ」にどう向き合うか?

  • 差別や排除を「個人の行動」としてのみ捉えるのではなく、「社会のあり方」としても捉えること
  • 「差別や排除を心で肯定する自由は存在するが、それを社会的に行動に移す自由はない。」と認識すること

この2点を踏まえる必要があると思う。

「社会のあり方としても捉える」というのは、「責任を社会に擦り付ける」という意味ではない。

「『よりよい社会にするために、全ての人にできることがある。』と捉えることが必要」という意味である。

被差別者を生み出す構造、自分自身がその構造の中でどんな立ち位置にいるのかということ、自分自身の感情を相対化していくこと、それらをじっくりと考えていくことが重要だと思う。

確かに、これらは混乱を要することであろう。そして、すぐに「わかった」といえるものではないと思う。しかし、「他者とつながる社会」をより豊かにする可能性にも、後につながりうることだとも思う。

 

2018/04/15追記

「ひょっとしたら、原田記者の思惑は『次のことを考えながら読んでほしい』だったのかもしれない。」関連記述は、どうやら的外れだった模様。原田朱美記者2018年4月10日付Tweetから考えるに。