karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

『贈りもの』(岡野薫子 作)という児童文学を、突然思い出した

突然、『贈りもの』(岡野薫子 作)という児童文学を思い出した。

この作品は、私が小5の頃の国語教科書(教育出版発行)に掲載されていたものである。教科書ではタイトルが「おくり物」となっていた。

小学校の授業以来、この話を思い出すことなんてなかったと思う。「何故、唐突に今?」

更にそのとき、この話の細かい描写を次々と思い出してしまった。「これだけ覚えているにもかかわらず、何故、今の今まで思い出すことがなかったのだろう?」

昭和49年度版 - 教育出版

私には2つ上の姉がいる。姉は昭和48年(1973年)度版の小5用国語教科書を使っていた。姉の教科書にも、この作品は掲載されていた。私の小学生時代、「教科書の音読」という宿題も担任から頻繁に出されていた。たぶん、姉も何度か音読していたのだと思う。この話は、4月の授業で扱った。参観日の授業にされたのも覚えている。

そういう条件があるとしても、何故、私は細かい描写をいろいろと覚えていたのだろう?

我ながら不思議。

 

今はネットの時代。検索してみたら、『砂時計』(偕成社文庫)という本に収録されているとのことだった。地元図書館にあったから借りた。再読して、「本当は恐ろしい話かもしれない『贈りものごっこ』」だと思った。

砂時計 (偕成社文庫3041)

砂時計 (偕成社文庫3041)

 

 

『贈りもの』は、次のようなお話である。(注 読解力がなく国語の成績も悪くひねくれた性格を有している私が、とんでもない誤読をしている可能性あり。)

 学校で「贈りものごっこ」なる遊びがはやっていた。主人公を含む仲良しグループ(スクールカースト上位層)が、この遊びを楽しんでいた。

ある日、よし子ちゃんという女の子(内向的で友達がいない子)が、「私も(贈りものごっこに)入れて」と主人公に言う。

仲良しグループはよし子ちゃんを歓迎せず、「嫌がらせ的方法」を用いてよし子ちゃんと一緒に贈りものごっこをする。それにもかかわらず、贈りものごっこに参加した後のよし子ちゃんの態度は、「ぐう聖」的だった。 

 

 突然思い出した直後、私の頭の中には次のことが浮かんでいた。

スクールカースト、「集団が個人に及ぼす力」の怖さ、恐喝や暴行とは異なる「仲間外れ」系排除、要領のよいいじめっこと要領の悪いいじめっこ、「みんなと打ち解けて、話のできる子にならなきゃいけませんよ」的メッセージ

小5の頃の私は、「皆と打ち解けて……」的メッセージ以外は頭に浮かばなかった。「仲良しグループが嫌な奴らだ」とか「『よし子ちゃんを見習え』などと、担任や親から言われまくるだろうな」ということで頭がいっぱいだった。

よし子ちゃんの家は八百屋で、彼女はよく手伝いをしていた。よし子ちゃんの接客の様子、嫌がらせ的方法やよし子ちゃんの持ってきたプレゼントについての具体的描写を、何故か私は覚えていた。43年以上後に再読して、「私が覚えていなかった描写」を知ることができた。

「集団が個人に及ぼす力」とその怖さについて、主人公によるモノローグ的描写もあった。「主人公は要領の悪いいじめっこタイプのようだな。仲良しグループの他メンバーは、要領のよいいじめっこタイプで。」と思わせる描写もあった。それらの描写について、私は覚えていなかった。というより、「当時の私が精神的な面での成長が遅れていた」「関心を持つところまでいかなかった」のだと思う。

  

恐喝や暴行とは異なる「仲間外れ系」排除。それはしばしば、「仲良しグループ以外の人の関心をひきにくい、目立たない方法 と犠牲者を選ぶ」かたちの排除となる。

被害の証拠が残らない。更に、「仲間外れにされている」と誰かに訴えることは、「自分は人気のない劣った存在」と自己申告することに近い。それ故、「誰かに相談する」ということが困難となる。

『贈りもの』では、次のような形で「仲間外れ系排除」がなされていた。

仲良しグループのメンバーが、「内向的で友達がいないこと」=「よし子ちゃんに問題がある」と認識→逸脱の一種としてみなす。そして、「よし子ちゃんについての勝手なフィクション」を作り上げ、それを排除の理由とする。「勝手なフィクション」を作り上げたメンバーは、「自分たちが作り上げたフィクション」であることを忘れてしまい、最初からあった事実のように思い込んでしまう。

 

いわゆるいじめっこには、要領のよいタイプと要領の悪いタイプが存在する。例えば、要領のよいいじめっ子は直接には手を下さず、誰かをそそのかせていじめさせる。そそのかされて直接いじめるのは、要領の悪いいじめっこである。そして、しばしば、被害者が「自発的に」集団から出ていくのを待つという方法が取られる。

『贈りもの』では、「嫌がらせ的な贈りものの準備と、よし子ちゃんからの贈りもの受け取り」を、主人公がやる展開となっていた。

 

スクールカーストめいたものは、私の小学生時代にもあった。集団内部の力関係や人間関係をうまく読み取れる子がスクールカースト上位層だ。学校内部で最も力を持っている人が誰であるのか、その人と仲良くなるにはどの人を味方につければいいのか、必要以上に仲がよくなるとまずいのは誰なのか、といったことをうまく読み取れる子が、上位層となる。「友達のいない子」は、スクールカースト最下層とみなされる。

もっとも、それらの洞察力は、「他人との調和を上手にはかりながら集団をつくる」ことというよりも「波風を立てないようにする」ことに向けられているのだが。

学校内において、「教師や親」と児童生徒は、対立関係になることもあれば連帯関係になることもある。「教師や親が、スクールカースト上位層の子と連帯意識を強く持つ」こともある。そうなると、スクールカースト最下層の子は、教師や親からもみくびられてしまう。

私が小5のときの担任も私の親も、「スクールカースト上位層との連帯意識」を強く持つ人に思えた。私は「スクールカースト最下層」の子だった。「よし子ちゃんを見習って、友達をたくさん作る努力をしなきゃいけませんよ」的メッセージを、当時の私も感じていた。

 

贈りものごっこに参加した後のよし子ちゃんの態度は、「ぐう聖」的だった。その態度によって主人公は、「集団と個人との関係や力」について、自分を見つめ直した。そして、よし子ちゃんに対する認識を変えた。この出来事の後、よし子ちゃんは打ち解けて、主人公たちと話をするようになった。

ひねくれている私は、この結末にモヤモヤしている。

「ぐう聖」的態度の取られた場には、「仲良しグループの他のメンバー」はいなかった。つまり、主人公以外が、「よし子ちゃんに対する認識」を変えるきっかけになったか否か? 「ぐう聖」的態度という「結果オーライ」じゃねーの? 排除された側が「ぐう聖」的態度を取ることを、(特に大人が)アテにしてるんじゃねーだろうな? ついつい疑問を持ってしまう。

「この話はフィクションだろ。夏炉冬扇は大袈裟だな。」と思われるかもしれないが。

スクールカースト上位層との連帯意識」を強く持った人(特に大人)によって、「一人でいるのは悪いこと。仲間になる努力をしなきゃいけない。」「排除されても、ぐう聖的態度を取ってがんばって強くならなきゃいけない。」という価値観が「隠れたカリキュラム」として作用するかもしれない。とも思った。もしもそうなら、個人的には嫌だな。

 

この単元で、「集団と個人との関係」や「仲間」ということについて、当時の小学校でどのような授業がなされていたのだろう? 教科書準拠の参考書や問題集では、どのような記述がなされていたのだろう? これらが気になってしまう。