karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

児童文学、むずっ!

先月記事に書いた『贈りもの』(岡野薫子 作)がきっかけとなって、『砂時計』(岡野薫子作)という本を読んだ。この本は短編集である。

砂時計 (偕成社文庫3041)

砂時計 (偕成社文庫3041)

 

 読後最初の感想が、「児童文学、むずっ!」だった。「この本」ではなく、「児童文学」だった。

 

そういえば、私が子供だった頃、「文章(特に情緒的なもの)の内容が解らない」という思いを持っていた。

「行間が読めない。」「作者が主張したいことがわからない。わかったと思っていても、実はトンチンカンな解釈になっているんだろうな。」と思っていた。

子供の頃に読む(or読まされる)文学的文章は、「とりあえず読みました。それで、はいおしまい。」では片づけさせてもらえない。国語の授業やら試験やら読書感想文やらいったものもつきまとう。義務教育(特に小学校)では、情操教育めいた面も重視されている(と私は思う)。「情緒的な文章が読めて、心情読解ができて、情緒的な作文を書く」ということが主な目標になっているのでは? と思う。

「行間や作者の主張がわからない」状態で、国語の授業や試験を受ける。当然、点数は悪い。読書感想文になるともっと悲惨だ。あらすじすらうまく書けないことになる。ましてや、「大人の意向を忖度した感想」なんて書けない。私はそういう子供だった。

 

何故、「むずっ!」と思うのだろう? どこがどのように「むずっ!」なのだろう? 私の頭は、そのことでいっぱいになってしまった。

 

最初に、他の人は、どのような文章を読んで「難しい」と思うのだろうか? 私の知っている人の場合はどうだったのだろう? ということを考えた。友人や姉や弟などによる、次のようなコメントを思い出した。

川原泉(漫画家)の作品が難しいと思っている人も、結構いるかも。」

立花晶の少女ギャグ漫画って、1970年代の典型的少女漫画(例 『キャンディ・キャンディ』)のお約束事を知らない人にとっては、イミフと思えるかもしれない。」

「『イブの息子たち』(青池保子 作)という少女漫画、読み慣れるまでは少しとまどったけど、今はおもしれーと思う。」(注 大学時代、共同実験グループの男子学生間で、この漫画が流行ったことがあった。ある学生が、下宿先大家さんの娘さんから借りて、はまったことが発端らしい。)

 

川原泉作品・立花晶の漫画・典型的少女漫画・『イブの息子たち』。私には、「児童文学、むずっ!」とは違うタイプのものに思えた。きちんと内容を把握できているかどうかは、怪しいが。

川原泉作品の特徴は何? と読者に訊いたなら、おそらく、「活字の量が多い」という類の答えが返ってくるだろう。実際、複数の人から聞いた。

「漫画のお約束事」とか「読み慣れるまでは少しとまどった」とかいう表現から考えるに、漫画や文章には、何か「型」のようなものがあるのだろうか? その「型」がわかっているか否かで変わるのだろうか? と思った。

 

川原泉作品中には、「説明的なセリフ」といった言葉がよく出てくる。「ひょっとしたら、この『説明的』の部分が、児童文学とは違うものになっているのだろうか? 」と思った。

そして私は、次のような結論(?)を強引に出した。

児童文学では

  • 説明文的な情景描写が少ないのかもしれない。
  • 「説明がなされるのは、大まかな部分。細かい部分は登場人物(特に主人公)の言動を通して伝える。あるいは、読者の想像に任せる。」という書き方が、なされているのかもしれない。
  • 「作者の視点による客観的な描写が、少ない。登場人物(特に主人公)から見た描写で、話を進めていく。」という書き方が、なされているのかもしれない。

 

もしも、「『砂時計』収録作品で読書感想文を書け。」と言われたら、私は固まってしまう。子供時分の私でも現在の私でも。「間接的な説明」をきちんと読み取れているという確信が、持てそうにないから。

今の私なら、「本に出ている『著者紹介』の類から、強引に文章を作る。そして、原稿用紙のマス目を少しでも埋める。」という策も考えつく。あざといやり方だが。

この本の場合、作者は、「科学雑誌の編集などを経て、科学映画の脚本家となり、1960年より、児童文学の創作を始める。自然と人間との関わりをテーマにした作品に特徴がある。」ということだ。マス目埋めがやりやすそうな紹介文である。「科学雑誌」や「科学映画」方面にもっていくという方法も、考えられるから。

このようなあざといことをやらないで、「『間接的な説明』をきちんと読み取って、大人の意向を忖度する、読書感想文」を書き上げる子供って、大変だな。すごいなあ。と思う。

 

しかし、「小学校国語教科書掲載の児童文学を突然思い出した。小学校の授業が終わってからは、ずっと忘れていたのに。」というだけのことが、どうしてこういう変な発想に変わっていくのだろう? 「ずっと忘れていた」のではなかったら、ここまで変な方向に走らなかったかもしれないが。我ながらあきれる。