karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

不自由研究の持つ(裏)教育的意義

今週のお題「わたしの自由研究」

素朴な疑問。「自由研究は、大人にとっても子供にとっても不安な宿題。不安な上に、教育的に意義があるとは思えない。教育的な意義をはっきりと示してもいいのでは? また、自由研究のあり方を見直してみてもよいのでは?」的な提言が、過去になされたことがあるのだろうか?
本心ではそのように思っている大人(特に親御さん)や子供本人もいるのでは? と私は密かに疑っている。
「思っているのだが、実際に発言するのはまずい」とか「そのように思うことじたいが、悪いことだ」という思いなのでは? と私は捉えている。
では、教育的な意義について夏炉冬扇はどう捉えているのか? これに対する答えは、おそらく、世間一般からは「残酷なもの」と思われるものだろう。
 

自由研究については、過去に、トゲのある記事を書いたことがある。

karotousen58.hatenablog.com

この過去記事で特に書きたかったことは

  • 自由研究といってるけど、本当は不自由だぞ。
  • 自由研究という宿題には、実はとんでもない目的が隠れてるんじゃねーの?
  • 他に目的があるのなら、はっきりと子供に示してもいいんじゃねーの?

だった。
 

小中学生なんて、まだ、基本となる知識の量がごく僅かである。行動できる範囲も極めて狭い。取扱に注意を要する薬品や道具を使用するのも困難だ。

知識も経験も乏しい状態で、テーマを決めなければならない。 テーマを決めたら、実験や観察の方法や作品制作方法を考えて実行しなければならない。そして、結果や考察等を踏まえてまとめなければならない。

「テーマと選定理由、理論的背景、実験や観察の方法や準備、結果や考察、それを踏まえてのまとめ」なんてことを、普段の授業でやっているわけではなさそうだ。「それらのやり方について、小中学校で指導を受けた」という声を、私は聞いたことがない。どういうわけか、教えなくてもできることとみなされているらしい。

「小中学生がやらされる自由研究」と『裸の王様』もどき - karotousen58のブログ 

結局のところ、自由研究や作品制作という宿題の目的は、

・「もともと素質があり、かつ、自由研究や作品制作に意欲を燃やすことのできる環境が確保された子」がいるかどうか、いるとしたら誰なのか、学校側が把握したい。

・「下手な子供が、目も当てられないような下手くそ研究や作品を自力で作成」することよりも、「大人が教育力を持っていることや、大人の教育力によってド下手な子供でも上達・成長しましたという物語」を、示してほしい。また、その空気を読める子に成長してほしい。

といったところではなかろうか? 私はそのように疑っている。

「小中学生がやらされる自由研究」と『裸の王様』もどき - karotousen58のブログ

 

自由研究を通して、子供にどのようになってほしいのか? 親御さんを対象としたアンケートと、大学の先生によるコメントが見つかった。

アンケートは、「夏休み2018宿題・自由研究大作戦」なるイベントの入場事前登録時に実施。アンケートの期間は7/2~7/13。つまり、「大人からの支援なんてほとんど期待できない家庭」は、ハナから除外されていると思われる状況での実施。

https://www.jma.or.jp/img/pdf-report/summer_2018.pdf

そもそもなぜ「自由研究」は夏休みの宿題なの? ひと皮むける4つのポイント (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

 「やりきる力を身につけてほしい」「探求力を高めてほしい」「自主的な学びのスキルを習得する、絶好のチャンス」というコメントがあげられている。

コメントを読んだ私のホンネは、「それらの力やスキルを、屏風から出してくれ。『自由研究や作品制作に意欲を燃やすことのできる環境が整っていない』子を対象として。」である。

 

「もともとの素質に乏しく、かつ、自由研究や作品制作に意欲を燃やすことのできる環境も整っていなかった」私にとって、自由研究の持つ教育的意義は何だったのか?
それは、過去記事で書いた「目的」と、「『ごまかし』と向き合うこと」だったと思われる。
「できてあたりまえ」とみなされていることや、「できないなら、それ相応の処遇を受ける」ことが、この世にはある。それらのことがうまくできないorできそうにない場合、「ではどうするか? どう乗り越えるか? どうごまかすか? などを模索」する必要が出てくる。
最後に出てきた「どうごまかすか?」を模索することは、しばしば、「道徳的に悪いこと」として禁止される。特に、「清く正しく美しく」的お題目で純粋培養的な育て方を目指す大人のもとで。
汚い言い方をすると、「不自由研究で、『どうごまかすか?』を模索する機会にもなり得る」ということになる。
「どうごまかすか?」は、「ではどうするか?、どう乗り越えるか?」よりも心証が悪い。しかし、「これを模索することの必要性は、ゼロとは言い切れない」と私は思う。

「不自由研究」の持つ(裏)教育的意義は、「過去記事で書いた『目的』プラス「できない/できそうにないことを、上手にごまかすスキルを模索」である。私はそう捉えている。

 

今は、自由研究関連書籍や実験観察キット、自由研究関連サイトがある。大人になってからそれらを見て、私は思った。

「制作者は、子供の頃に本当にこれらの内容を考えついたのだろうか? 後でもっと高度なことを学んだからできるんじゃねーの? 『テーマは思いつくけど、実験観察方法を思いつかない』とか『理論的背景を調べる方法がわからない』とか『実験観察に無理がある(例 チューリップの種まき。なぜ種をまかないんだ?からスタートのテーマだが、花を咲かせるのに5年以上かかる。)』とかいった経験はなかったのだろうか?」と。
子供の頃の私は、「テーマだけはたくさん思いつく」「関係のありそうな本を探したり読んだりすることじたいは、好き」という子供だった。しかし、実験観察方面がうまくいかない子供だった。
「実験観察方法を思いつかない」「方法の書かれた本を見つけても、装置をうまくつくれなかったり操作をうまくできなかったり」「実は、チューリップの種まきみたいなテーマだった」「理論的背景の書かれた本を、うまく見つけられない」状態だった。

子供の頃、「実験観察方面にはあまりふれないで、本で見つけた『関係のありそうな事柄』をいろいろと組み合わせて、自由研究という宿題を一応は完成させる」ということは、8月上旬までの段階でできていた。しかし、父はこの「一応は完成させた宿題」を許さなかった。「実験観察がないなら、ダメ」といわれた。
「市販の『自由研究本』を買って、そこに書かれている実験観察やまとめをそのまま真似したものでなければダメだ。お父さんも一緒にやるから。」と言われた。

だが、うちの家族も親戚も、「図画工作の類と理数系は、大の苦手で大嫌い」という人ばかりだった。実際に実験観察を父が試みても、装置をうまく作れなかったとか変な結果がでたとかいった、調子だった。
たぶん、父にとって自由研究は、「親の顔を潰す」ものだったのだろう。自由研究終了後に、私はいつも怒られた。「どうして、ちゃんとしたテーマにしないのだ。他の子は親が手伝わなくてもやっているのに。」と。


私の場合、不自由研究という宿題では、(大人の期待しているであろう)「やりきる力や探求力や自主的な学びのスキル」とやらは身につかなかった。「父に怒られることが目に見えている宿題」だった。

ただ、「テーマについていろいろと考える」とか「関係のありそうな本を探したり読んだりする」「関係のありそうな事柄をいろいろと組み合わせて、まとめて書く」ことじたいは、とても楽しかった。「科学のアルバム(あかね書房)」とか、図書館に行くたびに、全巻読みたいと思ったものだ。

「怒られる嫌な宿題」という思いと、「ドサクサに紛れていろいろな面白い本を楽しめる宿題」という思いが、子供の頃からずっと私の中に同居している。変な感じだ。

 

「過去記事で書いた『目的』プラス「できない/できそうにないことを、上手にごまかすスキルを模索」という、「不自由研究」の持つ(裏)教育的意義。

この(裏)教育的意義を、子供の頃の私はわかっていなかった。もしも私が、それをわかる子供だったなら、私の人生はどう変わっていただろう?