ハロウィンにまつわる、くだらん話
今週のお題「ハロウィン」
ハロウィン関連で、私は変なことを楽しみにしている。
11月になると、「ハロウィンパッケージ商品のダンピング」をする店が出てくる。これらの買い物が面白くなる。
ところが、去年の11月は少し様子が違った。ダンピング商品に期待して某スーパーに買い物に行ったのだが、「ハロウィンパッケージのダンピング商品」の隣にあった品物に、気を取られてしまったのだ。
去年の11/1に買ったものは
マルちゃん正麺冷やし中華(30円)、井村屋5個入り(煉り3個、抹茶2個)水ようかん(150円)、くずきり(30円)だった。
去年の11/2に買ったものは
和菓子の詰め合わせ(もみじまんじゅう、乳菓、栗まん、最中)、栗カステラ、桃山だった。どれも、半額シールがついていた。賞味期限11/6となっていた。この賞味期限で半額シールがつくとは、思ってもいなかった。
ハロウィンパッケージ商品の諸々のほうが、やはり、ビジュアル的には目立つ。しかし、それ以上に「和菓子の値段にも影響が出ているかもしれない」ということが大きかった。
そして、11月に入ったら、店内BGMはクリスマスソングに変わっていた。去年の11/1に買い物をしながら、「季節感ズレまくりだな」と思った。今年はどうなるのだろう?
たぶん、好きな街になっている神戸
今週のお題「好きな街」
実をいうと、私は神戸に行ったことがない。この今週のお題を見て初めて、「ひょっとしたら、私は、神戸やその近辺の街を好きになっているのかもしれない。今まで意識していなかったけど。」と思ったのだ。
高校時代、私の中では、京阪神地区は「好きになることは許されないエリア」だった。
私は鳥取県出身である。当時、鳥取県内の高校では、大学等進学希望者の多くが、京阪神地区への進学を第一志望にしていた。
義務教育を受けていた頃、私はいわゆる「スクールカースト最下層」にいた。義務教育時代の同級生に、「在学当時のいじめられ者を3人あげてみろ」と言ったなら、おそらく9割以上の人が私の名前を出してくるだろう。そういう状態だった。
だから、高校時代には、「地元民に会いたくないから、進学先は京阪神や首都圏は避けよう。京阪神地区に興味を持ったら進学したくなるかもしれないから、この地域のことはできるだけシカトするようにしよう。」と思うようになった。
一方で、私が初めて、「旅行に行ってみたい」と思った場所は、実は兵庫県明石市だった。
小5社会科の授業で、日本標準時子午線について習った。当然「明石」という地名にもふれることになる。そのとき、私は思った。
「子午線って、天文学と関係ありそう。だから、明石に天文台みたいなものがありそう。行ってみたい。」と。本当に天文科学館があると知ったとき、「大人になったらいけるかな?」と思った。
小学校高学年の頃に牧野富太郎の伝記を読んでいたら、神戸市の植物園(たぶん、六甲高山植物園)のことも書かれていた。そして、この植物園にも興味がわいた。その後、神戸には動物園や水族館もあると知った。
「いろいろな施設があって、神戸の人がうらやましい。」と、子供心にも思った。
今はネットの時代。私にとって、ネットを使ってよかったことの1つは、「『変な先入観や嫌な思い出のあった場所』に対して、上書き保存的にイメージを変えられる可能性ができたこと」である。特に、在住のブロガーさんがご自身の言葉で地域の魅力を書いてくださった記事が、好きだ。
京阪神のいろいろな地名を見聞きしたとき、楽しいイメージも持てるようになった。この「楽しいイメージ」、京阪神の街の中でも、特に「神戸」でたくさん浮かんでくる。
三宮とか元町とか北野とか。個性的な建築物とか。洋菓子やパンやコーヒーなどの食文化とか。食文化については、牧場やコーヒー博物館や工場見学にも興味がある。
もしも実際に神戸に行ってみたならば、「本当に好きな街」になりそうである。
食品ギフト解体セールで買ったゼリー
今週のお題「最近おいしかったもの」
地元デパートの食品ギフト解体セールで買った「ジュレトリアングル」(フーシェ)が、おいしかった。
地元のデパートでは、毎年9月下旬頃に「食品ギフト解体セール」がある。私は、このセールが好きである。普段なら「お高くて買えそうにない」品物でも、少量を安く買えるチャンスがあるからだ。
今年は、ばら売りの品物がとても少なかった。ほとんどが、箱単位で売られていた。貧乏人の私には、複数の箱買いをする余裕がない。「食べたり飲んだりしたことがあって、買っても損はない品物」にするか、「こういう機会でもなきゃ買えそうにない品物」にするか、最初迷った。
ゼリーの入った箱が複数種類あった。その中に、「ジュレトリアングル」があった。これが一番おいしそうだった。買ったことのない品物だった。
名前のとおり、三角のケースに入っていた。カットされたフルーツがゼリーで包んであった。桃、洋ナシ、ブドウ、チェリー、いよかんの5種類があった。それぞれが2個ずつ入っていた。
値段は税込みで1080円だった。残り2箱となっていた。「10個入りで1080円。これはお買い得のようだな。残り2箱なら、今買わなかったらもう買えないだろう。」と思って購入。
家に帰って実際に食べてみて、「買ってよかった。もう売り切れただろうな。」と思った。
買ったときは気がつかなかったのだが、このゼリーは、食感の異なる2層のゼリーからなっているものだった。この「2層」というところも気に入った。
わんわん運動会、一度参加してみたい
今週のお題「運動会」
「わんわん運動会」なるイベント、犬を飼ったことのない人には、「そういうイベント、聞いたことない」といったところかもしれない。
私の住んでいる鳥取県では、5月に鳥取県動物愛護センターで「わんわん運動会」なるイベントが開催される。犬連れでも、犬がいなくても、楽しめるイベントである。軽食・ドリンクなどの屋台、プレイコーナーなどもある。訓練士による「しつけ方教室とデモンストレーション」もある。参加申し込みの中から、長寿犬表彰もある。パンフレットのイラストもかわいい。
このイベント、一度参加してみたい。しかし、田舎で自動車運転免許を持たない私には、会場に行くまでのハードルが高い。
他の地域でも、わんわん運動会のようなイベントがあるのだろうか? 検索したら、いろいろと見つかった。秋に開催、春に開催、他の時期(「秋や春に開催予定だったが、天候不良だったため変更」のケースも含む)に開催と、いろいろあった。
「今年のわんわん運動会は、台風接近のため中止いたします」といった情報も、見つかった。台風接近だけではなく、「これまでの天災の影響による中止」もあった。スタッフさんも参加予定の人も、悲しかっただろうな。こういうところにも、天災の恐ろしさを感じる。
私が想像する、わんわん運動会の最大の魅力、それは「走りまわる犬」が見られそうなことである。しかも、いろいろな犬種で。
他の犬種を見る機会といえば、「公民館などで行われる、狂犬病予防集合注射」がすぐに浮かぶ。しかし、その場では、「走りまわる犬」は見られない。「散歩中の犬」を道で見かけることもあるが、「走りまわる」状態ではない。
動画検索でもいろいろ見つかった。アフガン・ハウンド(?)の走る姿もあった。毛がきれいだった。リアルで見たら、もっとかっこいいだろうな。サルーキ(?)の走る姿もあった。アフガン・ハウンド(?)と違うタイプの魅力がある。
検索してみると、うちの地元とは違う種目も見つかった。「○×クイズ」や「だるまさんがころんだ」や「椅子取りゲーム」などを行う地域もある。「だるまさんがころんだ」は、いろいろな「しつけ教室」でも行われているゲームらしい。
パンフレットに出ている「待て!王 決定戦」や、「だるまさんがころんだ」には、「飼い主によるしつけの様子」がはっきりと出てきそうだ。うちの飼い犬と一緒に参加したら、大恥をかきそうだな。
「しつけ方教室とデモンストレーション」にも興味がある。「訓練士によるしつけ」なんて、このようなイベントがなかったら、そうそう簡単に見られるものではないだろう。
1973年度版高校数学カリキュラムでの「行列・1次変換」と、私
はてなブックマーク - 現在の子たちは行列を知らない
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1973年度版(現代化カリキュラム、行列初登場)で習った私は、ギャップに驚いた。当時の学参『よくわかる数学2B』(田島一郎 著 旺文社 )では、行列の章に「群と行列」の節あり。行列は「新課程最大の目玉商品」とでていた
2018/09/20 22:55
今回の記事は、ほとんど自分用メモ。数学の嫌いな人は、そっ閉じ推奨。
ほとんどの人にとっては、「読んでも時間の無駄。現代化カリキュラムに関する思い出話なんか読んでも、面白くない。」といったところだろう。そういう内容。
現代化カリキュラム高校数学での科目構成は、数学1、数学2B、数学3(1、2、3はローマ数字大文字)。文系の人も数学2Bまでは必修ということになっていた。行列と1次変換は数学2Bで学習。
「お若い人によるブックマークコメント」を読んで、最初に思ったこと
「1973年度版高校数学カリキュラム(現代化カリキュラム、1981年高校入学生まで適用)と、1994年版以降の高校数学カリキュラムとのギャップ、私の想像に輪をかけて大きかったんだな。吃驚。」
その次に思ったこと
現代化カリキュラムで習った、私の高校時代のことを思い出した。そして、
「行列や1次変換が削除されたことに対して、危機感を感じている人」の中には、現代化カリキュラムで履修された方々もたぶんおられるだろう。その方々にとっての「現代化カリキュラムで習った当時の、行列や1次変換に対するイメージ」って、どんなものなのだろうか? とも思った。
その次に思ったこと
「あれれ? ブックマークコメントでは『高校では、いらないよ。高校で習うレベルじゃ役に立たないし。』派が結構多いんだな。私の場合は、『高校で習っていたから、大学で勉強しやすくなった。」と思えるのだが。
「削除するのはまずい」と考えている人と、「高校では不要。大学から始めればよい」と考えている人との間で、学習内容に関するイメージが大きくずれているかもしれない。
行列や1次変換についての、私の思い出話となる。「この現代カリキュラムで、数学の大学受験勉強をした人」以外にとっては、たぶん、イミフな言葉が出てくる面白くない話。
私が習った現代化カリキュラムでは、行列や1次変換は初登場だった。初登場だったからだろうか、学参でも、「初登場の教材であるから、やや詳しく説明した。」とか書かれているものが結構あった。「学参の著者も、新しい教材の解説に、わくわくしていそうだな。」と、(今の)私に思わせるものがあった。
そして、この単元は、高校時代の私にとって「不思議な内容。不思議でもあり興味深くもある。」ものだった。「中途半端な、計算練習」では終わっていなかった。
「一般に交換法則は成り立たない」とか「A≠O,B≠Oであっても、AB=Oとなることがある」とか「逆行列が存在しないこともある」とか、新鮮だった。
「1次変換の線形性と図形」とか「1次変換の合成⇔行列の積」とか「回転と、三角関数の加法定理」とかいったことも、「不思議なつながり」と思えた。
当時の学参では、「演算」と関連した説明もなされていた。
この単元までは、演算というものは、主として数そのものを対象として行っていた。しかし、ここで初めて、「いくつかの数をひとまとめにした行列」に対しても「演算」を行おうとしている。そこに注意せよ。
という内容の記述があった。
「演算」の範囲も広がるんだなと思った。
当時の学参には、「群と行列」についてふれているものもあった。私の出身高校では扱わなかったが。
「行列の固有値、固有ベクトル、対角化」についても、結果的に、高校で「先取り学習めいたもの」をやった形になっていた。
固有値、固有ベクトルについては、教科書には出ていなかった。しかし、実際の大学入試では、(用語は伏せてあるものの)考え方は多く出題されていた。
大学入学後の線形代数学講義で、「ああ、高校時代に何度か見たタイプの問題、こういう続きがあったのか。」と思った。
「不思議な内容。不思議でもあり興味深くもある。」というイメージ。これを全く持たない状態で、大学入学後にいきなり「ベクトル・行列を中心とする線形代数学」を勉強することになっていたら、私はどうなっていたのだろう?
私の頭なら、「うまく学べないまま講義がどんどん進んでしまい、混乱。」となったと思う。
実際の試験の点数という観点を外れて、ただ、「不思議で興味深いと思った」というだけのこと。これが、意外に、「後から学ぶことに対する、とっつきやすさ」に繋がっていた。これも不思議なことだと思う。
教科書図書館に行きたくなった
先月書いた、小学校国語教科書収録作品『贈りもの』(岡野薫子 作)関連の話、更に変な方向へ進んでしまう。過去の教科書(他社のものを含む)を読んでみたくなったのだ。
そういえば、私が小学生の頃に親が買っていた学参は、「教科書準拠」のものがほとんどだった。当時の学年別学習雑誌には、「保護者用のページ」があった。そのページでは、各社教科書対応ページについても書かれていた。
「他社の教科書って、どんなものなのだろう?」と、当時、思っていた。
そして、「教科書図書館」なる場所に行きたくなってしまった。ここでは、教科書(過去のものも)の閲覧やコピーが可能である。
先月、記事を書いたときに教育出版のサイトを調べた。すると、「過去の教科書」ページがあった。
そのページを見ると、過去教科書(ただし、昭和49年度版以降)収録作品のタイトルがほとんどわかる。
私の記憶では、児童の書いた作文も教科書に掲載されていた。しかし、それについてはふれられていない。個人情報関連の配慮だろうか?
私の記憶では、新聞掲載記事を使った単元もあった。1972年の新聞記事で、沖縄に関する記事だった。「タンチャメー」という言葉がでてきたと思う。この単元についてもふれられていない。
私は1971年(昭和46年)に小学校入学。小3までの教科書も、昭和49年度版のページでタイトルがわかるものがかなりあった。「うんうん、この話あったあった。」と思い出したものが結構ある。文学や詩よりも、説明文のほうが印象に残っていたようだ。再読したくなった話が、いろいろと出てきた。
説明文では、『サロマ湖の変化』『せんこう花火』などを再読したくなった。
説明文の場合、著者がはっきり書かれていない(「編集委員会」となっている)ものがほとんどである。教科書以外では読めないのだろうか?『もっと速いものは』は、福音館書店からでていた『もっとはやいものは』ではなかろうか? などと思った。
文学や詩でも、思い出したことがある。
『谷間にかかったにじの橋』か……。布田保之助(ふた やすのすけ)と通潤橋(つうじゅんきょう)のことを書いた話だった。この単元を習っていた頃、タイミングよく、新日本紀行というテレビ番組で布田保之助のことが放送されたのを覚えている。
『白い風船』(遠藤周作 作)、習ったのは小6の1月か2月だった。「この時期だよな。この話を扱うのは。」と、大人になった今、思った。また、この話は、「大人になってから読むほうが実感が湧くかもな。」とも思った。
教育出版以外にも、過去の教科書掲載作品がわかるサイトがある。教科書クロニクル | 光村図書出版
(小学校ではないが)教科書クロニクル(中学校国語教科書)|三省堂「ことばと学びの宇宙」
など。やはり、ラインナップが異なっている。出版社が違うと、「著者名が同じでも作品名が異なる」ケースが結構ある。
光村図書の場合、光村ライブラリーというものもある。過去,光村図書の『国語』教科書に掲載された作品のうち,先生方や子どもたちに高い評価をいただいたものを精選し,アンソロジー形式で収録したものである。大人になった今読んだら、面白いかもしれない。
「今使っている国語教科書に載っていない作品のタイトルを、教科書図書館で調べる。そのタイトルの作品をコピーする。その作品について、教科書準拠学参を使って勉強してみる。」という課題が、私の頭に浮かんでしまった。
私にとっては、「読書感想文よりは、とっつきやすそうな課題」と思える。
現役小学生が、この課題を「夏(or冬)休みの課題として、こういうことを考えました。」などと言って学級担任に提出したら、周りの大人に嫌がられるだろうか?
こういう変なことも、ついつい私は考えてしまう。
児童文学、むずっ!
先月記事に書いた『贈りもの』(岡野薫子 作)がきっかけとなって、『砂時計』(岡野薫子作)という本を読んだ。この本は短編集である。
読後最初の感想が、「児童文学、むずっ!」だった。「この本」ではなく、「児童文学」だった。
そういえば、私が子供だった頃、「文章(特に情緒的なもの)の内容が解らない」という思いを持っていた。
「行間が読めない。」「作者が主張したいことがわからない。わかったと思っていても、実はトンチンカンな解釈になっているんだろうな。」と思っていた。
子供の頃に読む(or読まされる)文学的文章は、「とりあえず読みました。それで、はいおしまい。」では片づけさせてもらえない。国語の授業やら試験やら読書感想文やらいったものもつきまとう。義務教育(特に小学校)では、情操教育めいた面も重視されている(と私は思う)。「情緒的な文章が読めて、心情読解ができて、情緒的な作文を書く」ということが主な目標になっているのでは? と思う。
「行間や作者の主張がわからない」状態で、国語の授業や試験を受ける。当然、点数は悪い。読書感想文になるともっと悲惨だ。あらすじすらうまく書けないことになる。ましてや、「大人の意向を忖度した感想」なんて書けない。私はそういう子供だった。
何故、「むずっ!」と思うのだろう? どこがどのように「むずっ!」なのだろう? 私の頭は、そのことでいっぱいになってしまった。
最初に、他の人は、どのような文章を読んで「難しい」と思うのだろうか? 私の知っている人の場合はどうだったのだろう? ということを考えた。友人や姉や弟などによる、次のようなコメントを思い出した。
「川原泉(漫画家)の作品が難しいと思っている人も、結構いるかも。」
「立花晶の少女ギャグ漫画って、1970年代の典型的少女漫画(例 『キャンディ・キャンディ』)のお約束事を知らない人にとっては、イミフと思えるかもしれない。」
「『イブの息子たち』(青池保子 作)という少女漫画、読み慣れるまでは少しとまどったけど、今はおもしれーと思う。」(注 大学時代、共同実験グループの男子学生間で、この漫画が流行ったことがあった。ある学生が、下宿先大家さんの娘さんから借りて、はまったことが発端らしい。)
川原泉作品・立花晶の漫画・典型的少女漫画・『イブの息子たち』。私には、「児童文学、むずっ!」とは違うタイプのものに思えた。きちんと内容を把握できているかどうかは、怪しいが。
川原泉作品の特徴は何? と読者に訊いたなら、おそらく、「活字の量が多い」という類の答えが返ってくるだろう。実際、複数の人から聞いた。
「漫画のお約束事」とか「読み慣れるまでは少しとまどった」とかいう表現から考えるに、漫画や文章には、何か「型」のようなものがあるのだろうか? その「型」がわかっているか否かで変わるのだろうか? と思った。
川原泉作品中には、「説明的なセリフ」といった言葉がよく出てくる。「ひょっとしたら、この『説明的』の部分が、児童文学とは違うものになっているのだろうか? 」と思った。
そして私は、次のような結論(?)を強引に出した。
児童文学では
- 説明文的な情景描写が少ないのかもしれない。
- 「説明がなされるのは、大まかな部分。細かい部分は登場人物(特に主人公)の言動を通して伝える。あるいは、読者の想像に任せる。」という書き方が、なされているのかもしれない。
- 「作者の視点による客観的な描写が、少ない。登場人物(特に主人公)から見た描写で、話を進めていく。」という書き方が、なされているのかもしれない。
もしも、「『砂時計』収録作品で読書感想文を書け。」と言われたら、私は固まってしまう。子供時分の私でも現在の私でも。「間接的な説明」をきちんと読み取れているという確信が、持てそうにないから。
今の私なら、「本に出ている『著者紹介』の類から、強引に文章を作る。そして、原稿用紙のマス目を少しでも埋める。」という策も考えつく。あざといやり方だが。
この本の場合、作者は、「科学雑誌の編集などを経て、科学映画の脚本家となり、1960年より、児童文学の創作を始める。自然と人間との関わりをテーマにした作品に特徴がある。」ということだ。マス目埋めがやりやすそうな紹介文である。「科学雑誌」や「科学映画」方面にもっていくという方法も、考えられるから。
このようなあざといことをやらないで、「『間接的な説明』をきちんと読み取って、大人の意向を忖度する、読書感想文」を書き上げる子供って、大変だな。すごいなあ。と思う。
しかし、「小学校国語教科書掲載の児童文学を突然思い出した。小学校の授業が終わってからは、ずっと忘れていたのに。」というだけのことが、どうしてこういう変な発想に変わっていくのだろう? 「ずっと忘れていた」のではなかったら、ここまで変な方向に走らなかったかもしれないが。我ながらあきれる。