karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

中1国語の激レア授業

今週のお題「激レア体験」 


私が中1の夏休み明け最初に受けた国語授業、ひょっとしたら、激レア授業だったのかもしれない。
去年の今頃、元号「令和」の「令」の字が話題になっていた。「あれれ、この字の下の部分を『マ』のように書いたらダメなの?いいの?」といったことで。
私がこの話題を初めて知ったのは、Twitterだった。ツイートを見て、その国語授業を思い出した。
その授業では、授業1コマ分をまるごと使って、「漢字の書き表し方」の説明がなされた。「手書き文字と活字体とが異なっている場合がある」ことなどについて、丁寧な説明がなされた。点画の長短・方向・曲直・つけるかはなすか・とめるかはね又ははらうか(テストのときに、誤字とみなされるかどうか)についての説明とプラスアルファだった。
私の素人考えだが、「当用漢字字体表(1946年内閣が告示)」を踏まえた説明だったのでは?と思う。
文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語施策情報 | 国語審議会(終戦〜改組) | 当用漢字字体表


私が地元公立中学に入学したのは1977年。国語担当は、当時20代半ばの先生だった。中学に入学してすぐ、学校生活で「漢字」に対する新たな視点を持つ(と言えば大袈裟だが)きっかけがあった。
小学校と中学校、いろいろな面で違いがある。
小学校よりも、たくさんの先生に授業を習うことになる。その当時、大正生まれの先生もたくさんおられた。最初の授業で、年配の先生方が「古い字体で漢字を書くかもしれない。もし、わからない漢字だと思ったらそのように言ってほしい。」とおっしゃった。
中学では、他の小学校出身者とも一緒になる。小学校からの同級生に「野沢さん」という人がいた。中学最初のクラスには、他の小学校出身の「澤さん」という人がいた。「沢」と「澤」、あれれ?と思った。
中学書道授業では、中1の1学期で行書を習った。行書の手本では、「実」の最後は「はらい」ではなく「止め」となっていた。「どっちでもいいんだろうか?」と思った。
教科書で使われている活字の書体も、小学校と中学校では違っていた。歴史教科書に出ていた「大宝律令」の「令」の字を見て、あれれ?と思った。

中学入学当時のそれらのことをまだ忘れていない、中1夏休み明け。夏休み明け最初で、まだ勉強する気になれない時期。その時期に、普段の授業と少し違うタイプの授業。私にとって、実によいタイミングの授業だった。
しかも、この授業は、「誤字なのか許容範囲なのかを説明するだけ」ではなかった。「楷書や行書など、漢字と仮名の歴史」も踏まえた説明がなされた。
異体字や俗字の「島、嶋、嶌」「町、甼」についても説明があった。「『甼』は田舎の古い案内図などに書かれていることがあるから注意」とのことだった。1970年代だ。面白い授業だった。

「令」の字が話題になるまでは、「漢字の書き表し方」の授業が、一般の学校でごく普通になされているものだと思っていた。しかし、そうではなかったらしい。私がこの授業について書いたり話したりしたら、ネットでもリアルでも、「そういう授業があったのか?」という反応ばかりだった。「そのような授業を受けた」というコメント、私は未だに見聞きしていない。

この先生との激レア話、ここでは終わらなかった。元号が令和に変わって1ヶ月ほど経ったころ、新聞地方紙にこの先生と思われる名前が出ていた。ボランティア活動をなさったという記事だった。記事に出ていた年齢からは、私が授業を受けた当時、20代半ばということになる。「間違いない」と思った。「いい先生のままで、変わらないでおられるんじゃないか」と思った。
この先生の名前で検索してみた。すると、先生と大学で同期だった方のサイトが見つかった。そのサイトで、先生のブログが紹介されていた。ブログのタイトルの一部に、先生の当時のあだ名が使われていた。間違いない。
先生のブログを拝読した。「ああ、プロフィール欄記載の趣味も当時と同じだ」と思った。ブログには写真つきの記事もあった。歳月を経たが、写真の笑顔には面影があった。

もしも、元号に使われた漢字がこういうタイプの漢字ではなかったら? 「この授業が激レアだったのかも?」などと考えることは、おそらく、なかっただろう。
元号発表の時期と、新聞に記事が掲載された時期が、近かったのも不思議な偶然。
これらが関連して、先生のブログを偶然知ることになる。
偶然に偶然が重なる、激レア体験となった。

缶詰、カップ麺、レトルト食品

今週のお題「わたしの部屋」


お題と記事タイトル、どういう関係があるんだ? と思われたかもしれない。
うちでは、「缶詰、カップ麺、レトルト食品」の類をわたしの部屋に置くことにしている。
私の中では、それらの食品は「何かあったときのための非常食」という意味も持っている。「家族用非常食としてある程度ストックしておく。そして、非常食として使う機会がなさそうなものは、賞味期限が近付いた頃に食べる。」ということになる。
これらの非常食、家族の目に触れる場所に置くのは危険である。「家族がすぐに見つけて、すぐに食べてしまう」という話になってしまうからだ。

 
うちの家族は、「行き当たりばったりとその場しのぎの連続で、人生を渡ってきたのでは?」と思わせる人である。しかも、ものぐさである。更に機械音痴でもある。
「調理器具を使う必要のある食べ物」は、袋麺レベルでさえ手を出さない。「インスタントコーヒーの粉末を湯や水に溶かして飲む」レベルのことすら、やろうとしない。湯せんで温めるレトルト食品なら、家族でもクリア可能となっている模様。
電子レンジやオーブントースターのレベルでも、使い方を知ろうとすらしない。
自然解凍でも食べられる冷凍食品を、過去に使ったことがある。このタイプの冷凍食品を家族に教えたのは、私の大失敗となった。
「どんな冷凍食品でも、自然解凍で食べられる」と家族が決めつけてしまい、修正ができなくなったからである。
もう、冷凍食品は、「家族がすぐに、無断で自然解凍して食べてしまう」ことを前提としてしか買えない。


こういうわけで、「缶詰、カップ麺、レトルト食品」と「食品の賞味期限を記入したカレンダー」を、わたしの部屋に隠すことにした。
「実は、うちもそう」という告白を、私は今まで他の人から聞いたことがない。

発達障害啓発週間に読んだWebマンガ

今週のお題「オンライン」

日本では、4月2日~4月8日を「発達障害啓発週間」としている。この時期に、『綿谷さんの友だち』というWebマンガを読んだ。この漫画は次のサイトで一部が読める。
コミックぜにょん|連載作品
このマンガは、「綿谷さん」と、クラスメイトとの生活を描いたマンガである。綿谷さんは、発達障害と(安易に)ラベリングされそうなキャラクターである。第8話までは単行本も出ている。
「これって、どんなマンガ?」と尋ねられたら、私はこう答える。

  • 「相手の顔色を伺いながら、相手の気に入りそうなことを言うことだけが「人とのコミュニケーション」ではない。「相手に自分のことを伝える。そのことによって、相手が変わる。」これもコミュニケーションだと思わせるマンガ。
  • 伝える際に起こりうる、ずれやすれ違い、誤解や頓珍漢な対応など。これら様々な「空気の読めない(とされた)こと」によって、逆に「コミュニケーションの豊かさ、ふくらみ、楽しさ」が生み出される可能性もある。生み出されたものによって、相手も自分も世界が広がる可能性がある。そう思わせるマンガ。

発達障害という概念が広く知られる→それに対する理解が広がる→サポートが広がる」このことによって、発達障害者はよりよい人生を送れるようになる。
と思っていた頃が、私にもあった。
今は、「そうとは言い切れない」と思っている。発達障害という概念が広く知られるようになってから、「予言の自己成就」のようなことが起こるようになったのでは? そして、そのことによって、双方の関係性が酷くなる危険性もあるのでは? という思いがある。
 予言の自己成就については、予言の自己成就(よげんのじこじょうじゅ)とは - コトバンクを参照。豊川信用金庫事件(1973年)が、事例としてよく取り上げられている。
豊川信用金庫事件 - Wikipedia

マンガで描かれた生活は「予言の自己成就」とは対極的なものになっている。単行本の「あとがき」から、作者は「安易なラベリングに走らないで、コミュニケーションをテーマとしている」のでは? と私は思った。


発達障害と「予言の自己成就」について、現在、次のようなことがなされている状態にあるのでは? と私は思っている。

本人が「自分の中にある、これこれこういう(好ましくない)傾向は、発達障害によるものだ」と定義する。あるいは、周囲がそのように定義する。

定義された側は、「自分は、定義されたとおりの人間だ」と思い込んでしまう。そして、定義されたとおりのふるまいをしてしまう。

そのことによって周囲も、「ああ、やっぱり、発達障害があるから、こういう好ましくない言動になるのだね」というまなざしを向けるようになる。

本人が、周囲のまなざしを取り込んで、「発達障害的の(好ましくない)特性」とされた言動を強化してしまう。
の悪循環となっていることもよくあるのでは? と私は思う。

しつこいと思われるかもしれないが、例をあげてみる。

ある場所で、発達障害者家族会の集会があった。集会の部屋に、途中から遅れて入って来た人がいた。集会では、参加者にお茶が出されていた。以前から集会では、遅れてきた人には、その場にいる人がお茶をついでいた。その遅れてきた人が部屋に入ってきたとき、参加していた子供が席を立って歩きだした。

それに対して、その場にいた発達障害専門家が、「これはAD/HDという発達障害の症状である『多動』だ。この年齢になってもあんなようではだめだ。矯正すべき。」と解釈した。その場にいた大人は、「専門家の見解だから正しい」とみなした。

ところが後日、家族会関係者以外の人に、その子供本人が打ち明けた。「新しく入ってきた人にお茶を入れるために、急須のほうに行こうとした。」と。

発達障害を持ち出さないで、他の子供がこの行動を取ったなら、「気が利くね」とか「優しいね」とかいった解釈がなされたかもしれない。

発達障害啓発活動には、次のような発想が隠れていることがよくある。というより、「ほとんどがそうじゃねーのか?」と私はひそかに疑っている。

  • 「私たち非発達障害者の世界」を発達障害者が侵さないでほしい。
  • 発達障害者が、私たち非発達障害者と接しているときには、「非発達障害者の常識」を学び取ってほしい。
  • それぞれの世界における常識が異なっている場合は、躊躇なく発達障害者側の常識を捨ててほしい。
  • 「非発達障害者の常識にかなった振る舞い」をうまくできないのならば、非発達障害者とは別の世界であるところの「彼(女)ら発達障害者の世界」で練習してほしい。そのための場所は、療育施設とか自助会とかいろいろある。
  • 私たち非発達障害者側も歩み寄って、常識を知るための手助けをしてあげる。ただし、私たち非発達障害者の世界が侵されない限りにおいて。
  • この手助けを続けていくと、発達障害者が成長していくのみならず非発達障害者の成長にもプラスになる。

マンガでは、「これらの発想とは違った近づき方が、なされているのでは?」と私は思った。
「綿谷さんのことを、どのように捉えたか」ということを、「綿谷さんをそのように解釈した、それぞれのクラスメイト本人」の「人に対する見方や枠組み」を表すこととして捉える。

社会規範や社会的状況や周りの人との関係性といった観点からも、その解釈について捉えなおしたうえで、いろいろなかかわり方を双方(←ここ重要)が考えていく。

「それぞれのクラスメイトが、かかわり方を考える」ことは、翻って「クラスメイトそれぞれに、生き方や社会のありようを問い直し、クラスメイトそれぞれの生き方をより豊かなものにしていく機会にもなりうる。

という感じであったらいいな、という願望を私は勝手に持っている。


「コミュニケーションにずれがある」ということが、「価値観や世界観が多様であること」に起因する場合もありうる。その多様さによって、「空気の読めない(とされた)こと」が逆に「コミュニケーションの豊かさ、ふくらみ、楽しさ」を生み出す場合もありうる。マンガを読んでそう思った。

猫の写真へたくそ選手権

今週のお題「ねこ」

 

「犬派? 猫派?」というお題で、2016年に記事を書いたことがある。

結論から言うと私は「犬派」である。

・私は、犬とのつきあいは長いが、猫とのつきあいはほとんど経験がない。

・私が子供の頃、近所のノラ猫に近づいてもしょっちゅう逃げられていた。

・うちで飼ってきた歴代犬は、「近所の猫によく挑発される」→「抵抗を試みても、猫に垂直移動をされて、はいおしまい」パターンの行動をしょっちゅう取っていた。

・庭犬として飼っていた犬を、家族が座敷で飼うように変更したことがある。その後、外で使っていた犬小屋は猫に乗っ取られてしまった。

 といった経験からくるイメージが大きいからだ。

ただ、私は猫も好きだ。猫の奔放なイメージも好きだ。一度猫カフェに行ってみたいが、うちの田舎には猫カフェがない。残念。

「猫派ではない」というより、「猫とつきあった経験がほとんどないから、イメージが持てない」といった感じである。

今週のお題「犬派? 猫派?」 - karotousen58のブログ

 2016年と状況が変わった。私の生活で「猫」を意識することが多くなった。「猫」と直接つきあう機会は、ほとんどないままではあるが。

2016年、私はスマホを使っていなかった。Twitterのアカウントも作っていなかった。しかし、去年スマホを使い始めた。Twitterも始めた。猫カフェも地元にできていた。

スマホを使うようになってから、猫写真撮影を試みることが増えた。犬よりも猫のほうが写真を撮りやすい。Twitterでも、いろいろな猫関連話題がみられる。その中でも、「猫の写真へたくそ選手権」が楽しい。私でも参加可能な話題である。

 

犬の場合、ぼんやり道を歩いているだけでも「流行の犬種」を意識させられてしまう。うちの田舎では、「大型犬や、日本犬以外の中型犬」が激減し「小型犬の多頭飼い」が増えた。レトリーバー系の犬は、「長寿犬表彰を受けそうな犬がほとんど」といった感じだ。猫の場合、猫の種類を意識することはあまりない。「(うちの近所では)シャム猫が減った」ことは気になるが。

猫の写真は、撮った後も結構楽しめる。種類を意識しないで撮った後、「こういうしっぽだったのか」とか「こういう毛の色だったのか」とか「こういう場所で撮ったんだな」とか、いろいろな思いが浮かんでしまう。

私が気に入っているしっぽ写真は、次の3枚である。どれも、「猫の写真へたくそ選手権」用の写真である。

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大学入学試験と資格試験、勉強法が微妙に違うかも

20世紀末に、宅地建物取引主任者(注  現在の名称は宅地建物取引士)の資格試験を受けて合格した。その後、管理業務主任者(マンション管理関係の資格)とマンション管理士の試験に合格した。それぞれ受験1回(学習期間は1年間)で合格した。
この記事では、以降、宅地建物取引主任者(宅地建物取引士)の資格試験を「宅建試験」と表記する。
これらの不動産関連試験は、私にとって、「大学入学試験の勉強法」を振り返って考えさせるものになった。
この記事では、「自分の置かれている立場などによって、勉強方法が変わってくることもあるんだな」とか「過去に受けた大学入試の経験、案外、資格試験でも生きてくる面があるんだな」とか思ったことについて書く。
(なお、宅建試験は今では、私が受けた頃よりもだいぶ難しくなっているようだ。過去に私がやったような勉強法では通用しないかもしれない。管理業務主任者試験とマンション管理士は、初期の資格試験を受験。つまり、今より合格しやすい状況だった。)

  • 「(私が高校生だった当時)予備校のない鳥取県での、大学受験勉強」と「資格学校に自分がアクセスできる(とはいっても、通学ではなく通信教育だが)、資格試験勉強」
  • 「大学受験での、学校と自分との関係性」と「資格試験でのそれ」
    といったところで、特に大きな違いを感じた。


私の住んでいる田舎には資格学校の類はない。宅建に関しては「地元のカルチャースクールで開催の宅建講座」はあったが(因みに、現在はこの講座はない)。この宅建講座を受講した。1年間の講座だった。
20世紀末の宅建試験は、次のようなことが巷では言われていた。今では、これらの発言を真に受けたら危ないと思う。

  • (50点満点の)35点以上取ったら合格。
  • 宅建は資格学校を使うレベルの試験ではない。資格学校利用は、宅建合格後にやること。司法書士とか土地家屋調査士とか不動産鑑定士とかの試験用に。
  • 40点以上を狙うのは、要領が悪すぎる。高得点を狙うより、次の資格試験に備えろ。

管理業務主任者試験とマンション管理士の資格試験では、大手資格学校の通信講座を受講した。通信講座では、「学校が行う直前講習」の通信講座も受講した。通信講座では、講義内容を録音したカセットテープ(たぶん、今は違うものになっているだろう)と講義での板書内容が書かれたプリントも送られた。
正直なところ、「田舎のカルチャースクールでの講座」と「大手資格学校」は、やはり違うと思った。後者の通信教育のほうがずっといいと思った。

 

前置きが長くなった。ここから「勉強法の微妙な違い」「勉強法の似ている点」について書く。

微妙な違い

  • どの学校にするか。どの講座(レギュラーの講座、直前講習など)を受講するか。それらが資格試験では特に重要。田舎の自称進学校での大学入試では、選択の余地がないが。
  • 学校内で、講師や他の受講生との関係性をどのようにしていくか。資格試験では、結構この「関係性」が及ぼす影響大。
  • 「予備校のない鳥取県での、大学受験勉強」では、高校教師がいろいろと勉強方法に干渉してくる場合あり。しかし、資格学校ではそれらの干渉はほとんどない。自分の置かれた環境に合った勉強法でやっていくことが大切。

似ている点

  • 模試を上手に使うことが大切。
  • 過去問研究が大切。
  • 棒暗記に走った勉強では通用しない。できるだけ、「理解を伴った暗記」に近づける。
  • 短期間での追い込みが効きやすい科目かどうか、要チェック。効きにくいタイプの科目は、少しずつでも早いうちから取り組む必要あり。
  • 全範囲をひととおり勉強しておく必要あり。「最初のほうの単元では正答率が高いのだが、後のほうの単元はほとんどノータッチ状態」で本番をむかえるのはまずい。

 

学校や講座の選び方も、勉強法のうちの1つだと思う。
「ナマ講義かビデオ講義か、受講人数がどのくらいか」という観点から考える人もいるかもしれない。「ナマ講義で少人数だったらベスト」と思われるかもしれない。しかし、これは一歩間違えれば危ない。
私が受講した田舎の文化センターでの宅建講座は、受講生が7人だった。講義はビデオ講義ではなく、講師のナマ講義だった。「最高の環境じゃないか。よかったね。」「わからないことがあっても、気軽にすぐに質問できるね」といろいろな人から言われた。「実は最悪の環境だったぞ、これは」が私の正直な感想である。
表現を変えると、「こういう学校には要注意」ということにもなる。

文化センター講座の実態

  • 「年間の講義計画」の類が配布されない。
  • 9月以降でも問題演習をやらない。(試験は10月中旬。講義計画が配布されていたら、事前に対策を考えることもできるのだが。)。「法律が変わったから演習問題が配れない」というのが、講師側の言い分だった。
  • テキストと過去問集が配られたが、それらが使いにくいシロモノ。テキストには索引がなく、目次が使いやすいわけでもなく、練習問題もごくわずか(章末問題が1,2題あるだけ。しかも解説なし。)。過去問集も、解説とテキストとがつながっていなかった。
  • 他の受講生の態度にも問題あり(後で詳しく書く)。

通信教育を受講した大手資格学校では、レギュラーの講座以外にも、ときどき「短期講座」を開催していた。「法律改正点に関する特別講習」「直前講習」があった。直前講習は、通信講座の受講もできた。
これらの「短期講習」、実は重視すべきだと思う。直前講習を受ける時期となれば、「自分の苦手な分野」に意識が向くようになる。「意識が向いた状態での受講」は、「漠然とスケジュールをこなす受講」とはやはり違ってくる。

 

「講師や他の受講生との関係性」について書く。これも「勉強法」の1つになりうると思う。
学校に通って講義を受講するメリットの一つとして、「つらい勉強でも、同じ目標を持った仲間と助け合ったらやりやすくなる」といったことがよく言われる。
しかし、受講生の全員が、必ずしも良い人とは限らない。「他人に干渉したがる、ベテラン受講生」が一緒に受講しているケースもある。
こういうケースでは、「ナマ講義で少人数」はとんでもない環境となってしまう。
文化センター講座では、この「他人に干渉したがる、ベテラン受講生」がいた。
そのベテラン受講生が、高度な質問や他の単元の質問をして、講義を中断させることが度々あった。それだけではない。「夏炉冬扇さん、あんたは全然質問しないじゃないの。そんな態度でいいの? 」とか「夏炉冬扇さん、きれいな字でノートとらなきゃ。やる気あるの? 」とか絡まれた。
「ある程度の内容理解が進まないと、質問なんてできねーよ」「他人のノートなんて、どうだっていいだろ」が私の本心だった。
他の受講生にも問題を感じた。「試験勉強の中身よりも、講師に気に入られることが目標になってんじゃねーの?」と、正直なところ思った。
「4択のマークシート方式だから楽」「模試なんて時間の無駄、先生の講義をきいていればよい」「実務経験が邪魔になって間違える。夏炉冬扇さんは経験なくていいねえ」「夏炉冬扇さんは若いから、暗記ができるでしょう」などと、他の受講生から言われた。「自分が勉強して、合格する」というよりも、「先生様のありがたい講義が、合格に導いてくださる」という姿勢なのでは? と思った。
宅建受験のときに、市販されている合格体験記を読んだことがある。その中に、70歳の人の体験記があった。次のようなことが書かれていた。
「カラフルなペンを使ったり、休んでも後で講義のビデオをみることができる。昔とは違って新鮮で楽しい。」「若い人とお話ができてうれしい。」
この体験記を読んで、「合格する人は、やはりこういう態度をごく自然に取っておられるんだな」と思った。
つまり、「助け合って勉強できる」関係性を作っていくことも勉強法の1つだと思う。

  

模試は、複数受けたほうがいい。問題や解説が、学校によって微妙な違いあり。 
模試を受けて、解説解答を読んで勉強すると(←ここ重要)、「勘違いしていたところや、わかっていないのにわかったつもりでいたこと」がはっきりしてくる。


私の受けた宅建試験では、「権利関係」「宅建業法」「法令上の制限」「税法その他」という分野の出題がなされていた。
「権利関係」は直前の追い込みが効かないから、早いうちから勉強を始める必要がある。点の取りにくい科目だが、正解がわからなくても、何とかして3択や2択に持っていく粘りが必要である。
宅建業法」はやさしい科目といわれていた。しかし、これは勉強が進んだ人によるコメントだと思う。私の場合、始めたころは、「業者と主任者(注 当時の名称)を混同」したり「遅滞なく、速やかに、2週間以内、などいろいろあって混乱」した。「やさしいなんて嘘だ」と思った。
「業者と主任者」「35条書面と37条書面」など、「似ている点と違う点」を意識して勉強するほうがいいと思う。
「法令上の制限」は、最初、とっつきにくい分野だと思った。しかし、この分野は直前の追い込みが効きやすいと思う。
「税法その他」は、独学者にとっては一番勉強しにくい分野。この分野と法律改正点は、良い学校の短期講座受講が望ましい。

全分野に共通することとして、

  • 4択問題だが、全ての選択肢について内容を吟味する必要あり。
  • 出てきた法律の制度趣旨が何なのか? 法律によって誰をどのように護るのか? といったことを考えて勉強するほうがいいと思う。
  • 専門用語も意識すること。『生活笑百科』の類のTV番組や『14歳の法律相談所』(新風舎 残念ながら絶版)の類の本をぼんやり見るだけでも、感触が変わってくる。
  • 試験は4択。「正しいものを選べ」「間違ったものを選べ」というタイプの出題。つまり、選択肢の中には「内容的には間違っているもの」も存在。間違った内容を覚えてしまったらいけないから、「内容的には間違っているもの」を「正しい内容に変えたらどうなるか? 」を意識したほうがいいと思う。
  • 直前1週間では、テキスト全体を5回通して読むこと。全体を通して読むと、新たな発見があるかも(私の場合はあった)。

はてなブログ特別お題キャンペーン #学び応援WEEK

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by ギノ

(少なくとも私のような人間には)おすすめできない勉強法

「私が子供だった頃、身近にいた大人は次のような「勉強観」をお持ちになっていたのでは? 」と思えて仕方がない。暗記下手で見栄えのしないノートしか作れなかった私は、「勉強する気ゼロの悪い子」とよく言われたものだ。

  • 結果が全て。いくら「今までがんばってきた」なんて言っても、結果が悪ければただの「負け犬の遠吠え」。
  • 学力=記憶力。暗記のできない人は頭の悪い人。
  • とにかく量をこなすのが勉強だ。かけた時間によって点数が変わる。
  • 「書いて覚えること」が勉強。きちんとした内容のことを書き写さないと、覚えられない。子供のいたずら書きみたいなノートじゃだめ。 

高校時代、私は「田舎の公立自称進学校」に通っていた。この高校でも、これらの「勉強観」が支配する空気があった(と私は思っている)。
これらの「勉強観」、実は「骨折り損のくたびれ儲け」的な結果を呼ぶ危険性があるのでは? そして、これらの「勉強観」と結びついた「勉強法」が推奨されているケースもあるのでは? と私は疑っている。
今回は、私が過去に年長者から推奨された勉強法のうちで、「骨折り損のくたびれ儲け的方法が匂うぞ」と思ったものを書いていく。×印を付けて表現し、私の本音をその後に書いた。


 ×英語や古典では、教科書の文章をノートに書き写せ。そうしてから、予習復習や授業の内容をノートに書け。定期的にノート提出させて、点数化して評価する。
本音
ノートに書き写すと、それなりに時間を取られるぞ。しかも、「写し間違い」をする場合だってある。書き写す時間を、「文章に接する時間」として充てたほうがよさそうだぞ。
書き写すよりも、拡大コピーを取ったほうがいいと思う。拡大コピーだと行間も拡大されるから、書き込みもやりやすくなる。勿論、「書き込みのない原文」も確保することが必要。最終的には、「書き込みに頼らないで、学習内容を把握」が必要だから。
とは言っても、「学校の方針」がこれだと反抗困難なんだよな……


 ×英語はとにかく、教科書丸暗記だ。つべこべ言わずに覚えろ。
本音
確かに、公立中学英語教科書なら有効かもしれない。しかし、高校だと分量的に苦しい。また、「テキストや範囲の決まった定期テスト」以外で通用するか? という疑問あり。「つべこべ言わず覚えろ」が「理解の伴わない暗記」となってしまったら、通用しなくなる危険性があるぞ。
私は、「この暗唱用例文の学習ポイントは何であるか? (例 discussは他動詞。discuss about とはなっていない 等)」を意識しないと暗唱できない、暗記下手の人間だ。学習ポイントをはっきりさせないで「覚えろ」と迫る態度には疑問あり。
とはいえ、生徒の立場じゃ、これを言えないんだよな……


×数学の点数は、解いた問題と暗記した解法の量で決まる。学校指定の教材(私の場合は、いわゆる青チャートだった)は、全問解け。解き方を忘れたら、再び解き方を覚えるようにしろ。
本音
青チャート、例題だけでも結構ボリュームあるぞ。例題以外の練習問題って、解説も寂しいしさ。例題だけでも「じっくり考えて」解くほうがいいと思うぞ。
「解法丸暗記」だけだと、他の問題になったら行き詰る危険性あり。第一、勉強していても面白くない。「この例題で、何を学び取ればよいのか」「式のつながりは、こうなっているのか」「問題文から、何を読み取るのか」「解法が複数あるが、(この問題の場合は)どの解法がすぐれているのか考える」といったこともやる必要あり。
とはいえ、学校側が「テスト漬け方針」を取るから、この方法も取りにくくなるんだよな……


 ×学校指定の教材以外は手を付けるな。市販のサブノート使用なんて、手抜き勉強。自分でノート作りをしなきゃダメ。教科書ガイドの類も、怠け者が使う物。そんなものは使うな。
本音
学校指定の教材、問題を集めただけで解説のない、文字通りの問題「集」もたくさんあるんだよな。こういうタイプの教材、下手すりゃ「時間泥棒」にしかならないぞ。
特に、物理の教材が酷かった。学校から指定されていた教科書傍用問題集、解説がほとんどない。載っている問題も、「計算練習が目的か? 」 という感じだった。
この種の教材に深入りするよりも、「公式とよばれているものが、なぜこの問題に適用できるのか」等を考えながら、良問をじっくり解いていくほうがよさそうだぞ。
「じっくり考える時間を捻出」するために、教科書ガイドの類や市販教材の利用も要検討では? (苦手な科目の勉強、体調を崩してしまったとき等)。


×(注 私は共通一次世代の人間)選択科目は、点数を稼げそうなものにしろ。物理や日本史は避けろ。歴史よりも地理のほうが楽。歴史で私大文系受験よりも、地理で共通一次を受けるほうが楽。
本音
私は日本史を選択しなかった(授業では地理と世界史を選択。倫理社会と政治経済は必修科目だった。)。だから、日本史についてはコメントできない。ただ、日本史の教科書と資料集が、地理や世界史のそれよりも厚かったのを覚えている。
物理は、「実力がつくまでに時間がかかる科目」だと思う。しかし、「低迷の時期が長く続いていたが、ある日突然、手ごたえを感じた」というコメントもよく聞く科目である。「現役時代は偏差値30だったのが、一浪して70まで伸びた」というコメント、物理ならありうる。学校側にしてみれば、「ギャンブル的で嫌」ということなのだろうな。
「外国語系学部志望の生徒が、世界史を勉強しない」「化学系志望の生徒が、物理を選択しない」といった類の話、この自称進学校ではザラだった。可能性を狭めるのみならず、「おいおい、ほんとうにそんな態度でいいのかよ?」という疑問がある。

 

最初に述べた「勉強観」を意識するようになったのは、私が大学に入ってからである。教官や他の学生から、「何それ? 」というコメントがあって意識するようになった。
大人になってから、資格学校に通って資格試験の勉強をした。そのとき再度、最初に述べた「勉強観」を感じた。
「骨折り損のくたびれ儲け的方法」という厳しい表現を使ったが、そう感じるのは私のようなタイプの人だけかもしれない。「暗記をすることが楽しい」という人とか、おそらくいろいろな人がいるのだろう。
この「勉強観」との相性の良し悪しを考えて、自分に合った勉強法を模索すること。これは結構大切なことかもしれない。

はてなブログ特別お題キャンペーン #学び応援WEEK

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by ギノ

図を書いて考えましょう

 

小堤中納言 on Twitter: "禁止されている学校多数 の悪寒 https://t.co/8ZMjaXSMpK"

地元公立小5の時(1975年)、算数文章題を、図に書いて解いていた。ノートの図を担任が見て、「幼稚」と激怒。親も同調。当時愛読の学年雑誌に「図で考えよう」という記事があり、それを信じて助かった。

2019/12/10 01:50

 

 ずっと、「文章題で図を書かせないのは、当時の担任と私の親ぐらいだろう」と漠然と思っていた。ところが、ブクマ元にある一連のツイートを見て吃驚。「ひょっとしたら、私が過去に受けた仕打ち、受けた人は意外と多いのかもしれない」と思った。

私が大人になってから、「宅建」という資格試験を受けた。宅建試験科目の一つに「権利関係」というものがある。この科目で、「図を書いて考える」習慣がついていたことが役立った。資格学校に通っていたのだが、講師からも「図を書いたらわかりやすくなる」という助言があった。

当時、受講生のうちの一人が、講師のいないところで自慢げに語っていた。「いちいち図なんか書かなくても解ける。時間がもったいない。」と。それを聞いて私は驚いた。もっとも、その受講生は5年連続で不合格となったようだが。

今思うに、ひょっとしたらこの受講生も、似たような経験があったのかもしれない。

 

算数で、(計算問題ではなく)「文章題」を私が意識するようになったのは、確か小3あたりが最初だったと思う。「単純な計算問題よりも、少し面倒」という感覚があった。

小学生の頃、「〇年の科学」「〇年の学習」という学年別雑誌が学研から出ていた。私はそれらの雑誌が大好きだった。確か、「3年の学習」に出ていた記事だったと思う。「文章を読むだけではうまく解けなかった問題でも、図を書いてみたら考えやすくなることがあるんだよ」という内容の記事があった。楽しい記事で、強く印象に残っている。

「この記事がなかったら、私は簡単に理数系を捨てていたかもしれない。理数系を好きになれなかったかもしれない。」という思いを、20代の頃あたりからずっと私は持っている。

「図を書かないで解こうとする」ことと「図を書いて考える」こと、確かに違う。記事を初めて読んだ当時、子供心にも思った。

また、この記事は「図を書くということじたいも、楽しいよ」というトーンだった。後にいろいろな問題を解いていくときも、そのことを実感した。

 

担任や親が激怒した原因、実は、もう1つあると思う。それは、「大人から見て、見た目がよくない図、冴えない図」だったことだと思う。

過去に何度か書いているが、私は実技教科の成績が全部ビリだ。当然、絵も、冴えないものしかかけない。担任や親にしてみれば、たぶん見ていられないできばえだったのだろう。

激怒されたとき、怒られた原因として「図を書くこと自体が悪い」「図が下手くそすぎるから悪い」の2通りが私の頭に浮かんだ。幸か不幸か、私は絵が下手すぎた。下手すぎたがために、2番目の理由も頭に浮かんだ。

もしも私の絵が上手だったら、「図を書くこと」じたいが悪いと誤解したかもしれない。変な話だが。

 

担任と親からは激怒された。しかし、「大好きな雑誌に出ていた、大好きな記事」では、「図を書いて考えるのは、楽しいし大切なことだよ」となっていた。

「大好きな雑誌、大好きな記事」だったから、担任や親の反応よりもそちらを信じた。「見つかったら怒られる」ことが予想できたから、「問題を解き終わったら、すぐに図を消す」ことにした。

こうして、「図を書いて考える」ことは、「ほとんど意識しない習慣」のようなものになっていた。

 

大学に入ってから、家庭教師のバイトを何回かやったことがある。バイト先では、「図を書いて考える」ということを教わらなかったのでは? と思われる子供続出だった。

「図なんていちいち書くのは面倒」ではなく、「図を書く」「(文章だけでは)わかりにくいから、解きやすくするための手がかりを探す」ということすら頭の中にないのでは? という感じだった。

そして、「子供の頃に読んだあの記事がなかったら、私の人生は全く違うものになっていたんじゃなかろうか。理数系を嫌いになっていたのではなかろうか。あの記事に関係してくださった方々には大感謝だ。『たった1つの記事』が大きく明暗を分けているかもしれないとは、不思議なものだ。」と思った。

 

学生生活が終わった後、「他の大人が、子供に算数文章題の勉強を教えている光景」にも何度か出くわした。ネット上でもリアルでも。

「このように文章で書かれていたら、引き算を使うのだよ」といったような教え方をしているケースが、少なからずあった。しかも、「図を書く」ということもなされない状態で。

この指導法に、私は驚いた。「この方法だと、少しひねった問題とか他単元との総合問題になったら、行き詰る危険性があるぞ。」と思った。

そういえば、学生時代に、数学や物理や化学の試験勉強で、「どの公式を使うの?」「何か公式があるのですか?」という訊き方をされたことが何度かある。そして、その質問に戸惑ったものだった。

「どの公式を使えばよいのかわからない」というより、「条件に合うように式を立てるのが、難しい」という感覚が、私にはあった。図を書くことが、条件を整理することにつながっていたのかもしれない。

 

そして、

 も思い出した。ひょっとしたらこの「数量感覚」も、「図を書いて考えること」とつながっているのかもしれない。

 

親御さんをはじめとした、いろいろな方にお願いです。子供が問題を解く際に図を書いて考えていたら、それがどんなに冴えないものに見えたとしても貶さないでほしいです。

ひょっとしたら、「図を書くことが、センスを磨くことにつながる」のかもしれません。また、つながらないにしても、「図を書くことじたいが楽しい」という子供もいるのかもしれません。少なくとも私はそうでした。

大好きな雑誌に出ていた大好きな記事が、「楽しいことや好きなことを失わなかった幸運」につながった。このことを私は忘れない。