karotousen58のブログ

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指導者以外の大人が、子供のスポーツに何を求めるか? 2

 

はじめて逆上がりが出来た女の子:成功後の一言が指導者を撃ち抜く - なわとび1本で何でもできるのだ

私の場合、周りの(特に年長の)人が先に諦めた。「ブービーになれても無意味」と吹き込まれた。「バカにされても我慢する力」を重視したのだろう。一方私は、上達そのものは嬉しかったのだが。後で拙ブログに書く。

2014/11/23 01:21

 

指導者以外の大人が、子供のスポーツに何を求めるか? 1 - karotousen58のブログで特に主張したかった事柄は、

・「周囲の大人がどのようなスポーツ環境を子供に与えるか」という面も重要な意味を持つ

・「周囲の大人」は指導者だけではない。指導者以外の人が本人に与える影響も大

である。

「楽しさの押し付け」とか「できなくても支障はない」という意見もある。しかし、私は思うのだ。大人が与えたスポーツ環境がとてもひどいものであり、かつ、大人がそれらに無自覚でいる場合、「楽しさの押し付け」や「できなくても支障はない」とその環境を与えた大人が言うのなら疑問有りと。

「自分の感覚をフルに使い、自分の頭で悩んだり考えたりし、自分の身体を動かして、体験する」ことを通じて、物事を理解していく力を付けていく可能性も、零とは言い切れない。それなのに、大人が本人よりも先に可能性を否定しているのでは? と思えるのだ。

 

指導者以外の大人が、子供のスポーツに何を求めるか? 1 - karotousen58のブログで、縄跳びについての私の経験を書いた。初めて跳べたときに私が嬉しかった理由は、「跳べた」という事実だけではなかった。「練習前からの変化や発見や驚き」を、喜びや楽しみとして感じ取ったことだった。

ただ、私の親にとっての関心事は、変化や発見や驚きではなかったようだ。「できるか・できないか」「他の子に比べて、勝っているか・劣っているか」「表面的な出来栄えが教師や他の児童に与える影響」が重大な関心事だったのだろう。

この縄跳びは、「教師から悪く言われないために、我慢して練習」だった。

もしも、「成長や変化や発見を、喜びや楽しみとして感じることが許された状態での練習」だったら、「これは自分のための練習だ」と思えたかもしれない。

 

「できるか・できないか」「勝っているか劣っているか」「表面的な出来栄えが他人に与える影響」「嫌なことを言われたりされたりしても、我慢する力」に着目しすぎることには、怖いものがもう一つ隠れている。

それは、「結果的に上達してしまった場合、まわりが納得してしまう・本人も無理矢理それに合わせるよう仕向けられる」ことである。

「やっぱりあれは、罵詈雑言なんかではなかったんだ。正当な叱咤激励であり教育的指導なんだ。結果の出ない子は、それらを受け止められないダメな子なんだ。」というふうに、正当化されて子供本人は追い詰められる。しかも、「追い詰められた」と思うことも禁止される。

 

「現段階ではうまくできない。必要とあらば、他の人と違った方法を工夫してみるのもいいかもしれない。上達するプロセスも、他の人とは違うかもしれない。その人独自の方法やプロセスは、他の人のそれらと比べれば見栄えがしないかもしれない。だけど、工夫することやプロセスを楽しめるのならそれでいい。本人に合ったやり方を工夫していくことは、スポーツ以外でも大切な事。」

という方針で、スポーツ環境が整えらえていたら、練習は苦痛だとは言い切れないと私は思う。

 

どういうわけか私には、「できるできない」「勝る劣る」といった類のことにとらわれすぎてはいないタイプの「スポーツ好きな人々」に出会う機会もあった。

スポーツに対して、「『自分の感覚をフルに使い、自分の頭で悩んだり考えたりし、自分の身体を動かして、体験する』ことを通じて、物事を理解していく力を付けていく可能性をもつもの、という見方もあるんだな」とも思えたのは、その人々の力が大きい。

・小4のときの担任の先生による指導が、丁寧だった。怒鳴りつけるとかバカにするとかいう態度を取ることなく、落ち着いた感じだった。球技のとき、ボールの動きと自分の体の動きをどう合わせればいいのか戸惑っていた私に、実際に手を取って身体を動かしての説明などがあった。また、「人並み・年齢相応のできばえ」についてふれられることはなかった。「上達しているというプロセスを、夏炉冬扇自身が驚き喜んでいる」という事実を喜んでくださった。

この先生は、私にとっては恩師である。しかし、他の生徒や保護者からは、えこひいきと思われていたらしい。また、「夏炉冬扇が少しぐらいうまくなっても、全然意味がない。他の子の実力を伸ばせばいいのに。」と私の親はうちの中では話していた。

・中3のときの体育教師

ある生徒が、下手だという理由でいじめられているということが明るみに出たときに

体育の授業で、「体育はどうしても、苦手な人の出来栄えが他の人にばれてしまう。悲しいかもしれないけど、割り切りなさい。しかし、下手な人はいくらでも貶してよいという態度は許しません。」と指導があった。そして、「○○さん(注 いじめられていた人)は積極的に取り組んでいます。積極的な取り組みは大切なことです。」というフォローもあった。

・大学時代の友人に言われた言葉。

「本当に上手な人って、他の人をバカにすることに関心なんか持たないもんだよ。そういう人って、「上手にやるためのコツって、これこれこういうことだったんだ」とか、「自分の苦手なことについて、これこれこういう工夫をしてみよう」といったことのほうに関心が向いてるもんだよ。他の人をバカにしたがる人って、案外そういう余裕がないのかもしれないね。」

(「お前は下手くそで足手まといになるだけだから、他の人を応援するのが関の山だ」と言われ続けたと、私が打ち明けたときに)

「応援するって、パワーの必要なことだよ。義理や強制ではない応援って、本当に力になるよ。」

 

最初のブックマーク元のブログ記事からも、これらの人々を連想した。

「自分の感覚をフルに使い、自分の頭で悩んだり考えたりし、自分の身体を動かして、体験する」ことを通じて、物事を理解していく力を付けていく可能性は、スポーツにもありうる。

そして、その可能性をひらいていくためには、「周囲の大人がどの様なスポーツ環境を与えるか」という面も重要な意味を持つ。

私はそう考える。