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今週のお題特別編「嬉しかった言葉 」

今週のお題特別編「嬉しかった言葉 」
〈春のブログキャンペーン ファイナル〉

 

私には「ひきこもり」の経験がある。「一念発起してアルバイトに挑戦したが、一週間続くことがない」「アルバイトが駄目っぽいから、ボランティアに挑戦→しかし、うまくいかない」という経験を積み重ねた過去がある。

私が初めて長続きしたアルバイトがある。そのアルバイトを始める直前、学生時代の友人から言われた言葉が、今回書く「嬉しかった言葉」である。

 その言葉は、「合わなかったら、やめればいいよ。」だ。

それと似た言葉を、同じ時期に私の親からも言われた。しかし、親から言われたときと友人から言われたときとは、私にとっての感触が全く違っていた。活字にするとほとんど同じになる言葉なのだが。

 次にあげる記事とその記事に対するブックマークコメントを読んで、その言葉を思い出したのだ。

拙ブログのひきこもり関連過去記事と重複する部分が多くなるが、私にとっては何度でも書きたくなるテーマである。

 

 引きこもりから復帰したことをもっと褒めろよ


「外に出るのは当たり前、それができないのはダメな人」という価値観やそれを支持する空気を、本人も共有し貶められる。その価値観は正当か?本人以外の首も絞めるものでは?という思いから褒めない人もいるかも。

2015/04/18 00:43

  

はてなブックマーク - 引きこもりから復帰したことをもっと褒めろよ

もしや、増田さんは身近な人から新たな罵倒をうけているのでは?「外に出れただけで喜ぶな。問題とか恐怖とか甘えるな。お前はたいぶ遅れてるんだぞ。意気地なし。」という本人を追い詰めるだけの罵倒を。

2015/04/18 13:43

 

元記事を読んで、元記事の「ちゃんと外に出れるようになってから解決しなきゃいけない問題」「一回引きこもらなくなったからって外に出るのは辛いんだ。毎回毎回怖いんだ。」「当たり前だって思われるとつらい。」の部分を、「重要な問題提起だ」と私は最初に思った。

「元記事を書いた人」を問題視するのではなく、「元記事を書いた人が、そのように追い詰められる背景」に関する問題提起と。

そして、「ああそうか。友人に言われたとき、『友人は問題を無効化しなかった』と私には思えたんだな。親に言われたときは見くびりの言葉と思えたんだな。」ということが頭に浮かんだ。

 

ブックマークコメントを見たところ、「ひきこもりは駄目。外に出るのはよいこと。頑張ったから外に出られた。元に戻らないように頑張れ。マイナスをゼロに戻した、プラスにするように頑張れ。」というトーンのコメント多数。

「合わなかったら、やめればいいよ」という言葉はこれらとだいぶトーンが違う。元記事の「褒めてくれ」を受けたブックマークコメントという条件付きではあるが。

私が初めて長続きしたアルバイトは、親の価値観から見るとどうやら「冴えない職種」だったらしい。

「そんな仕事しかないのか」とか「××(という職種)よりはマシだけど。ほんとに碌な仕事ができそうにないのね」とか親から言われた。

その状態で、親から「合わなかったらやめりゃいいんだし」と言われた。

言われても、私の気持は楽にならなかった。「どうせお前じゃ勤まらない。まともな仕事すら探せない。」と言われているとしか思えなかった。

しかし、友人から電話でその言葉を言われたとき、私の気持ちは楽になったのだ。

「そうだな。合わなきゃやめて出直したらいいだけだ。」と思えたのだ。

 

ブックマークコメントに見られるような「マイナスをゼロに戻したんだ。プラスにするように、元に戻らないように頑張れ。」の激励と、元記事の「怖い、辛い」は、実は「表裏一体の関係にある」と私には思える。

元記事の「怖い、辛い」思いの裏には、「何らかの職に就いているか否かという評価軸で、人は他の人を判断するに決まっている。成人が職に就いていることは当たり前」という価値観がつながっているのでは……と私は考える。

そして、元記事投稿者はこの価値観に基づいた「職に就かなかった、そして現在も苦戦している自分には、値打ちがない」という思いを持って、自らの存在を全面的に否定する状態まで追い込まれてきたのでは……と私は考える。

 

自らの存在を全面的に否定することが、社会や他人に対する恐怖感へとつながっていくことも考えられる。元記事投稿者がひきこもっていた頃からずっと、その連鎖があったとも考えられる。

「他人の目を気にしすぎるからひきこもるんだ。他の人の事なんてそんなにかまっていないものだよ。」という反論もあるかもしれない。しかし、その言葉は、おそらくひきこもりの渦中にある人にとっては説得力をもたないだろう。

「成人が職に就いているのは当たり前」という価値観、表現を変えると「職についていない人を徹底的に貶めるような価値観」は、元記事投稿者一人だけが持つものなのか? 答えは勿論ノーだ。

「ひきこもりは甘え、怠け、悪」という見解は、それと同様の価値観に基づいたものではなかろうか?

「職に就かなかった、そして現在も苦戦している自分には、値打ちがない」という無慈悲な見解は、元記事投稿者のみならず社会全体から提示されているといえる。そして、その見解によって、「ひきこもりから抜け出そうにも、抜け出しにくくなる状況」が温存されていく。本人はより私はそう考える。

「職についていない奴はダメな奴」「やっと外に出られるようになったんだ。それで満足するんじゃなくて、続くいろいろな問題を解決しなければいけない。自分はずっと遅れているんだから。」という思いを一番強く持っているのは、おそらくひきこもっていた本人だろう。

そして、「あんたはずっと遅れているんだから、遅れを取り戻すべく血を吐くような努力をしろ。」といった類の言葉を、周りから嫌と言うほど浴びているだろうと思う。おそらく実際は、引きこもっていた本人自身が、本人自身にその言葉を最も強く浴びせている。そして、どんどん自分自身を追い詰めていく。私は経験者である。

 

友人から「合わなかったら、やめればいいよ」と言われたとき、「アルバイトをすぐに辞めても、夏炉冬扇を見くびるようなことはないよ。安心していいよ。」というメッセージを私が同時に受け止めたのかもしれない。

「ひきこもり状態から事態を変えていく」には、「職に就いているか否か」「職のうえで、どういうポジションにあるか?」という類の評価軸だけで人を貶める社会の在り方についても、再考する必要があると私には思える。

そのような社会は、ひきこもっていない人も脅かす社会ではなかろうか?

ひきこもりの本人だけを問題視・矯正の対象としていくだけでは、本人も周りも追い詰められていくだけだと思う。

ひきこもり関連過去記事 

「ひきこもり」のまわりにあるもの 3 - karotousen58のブログ