karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 4

「授業についていけることなんかよりも、もっと大切なことがあるのよ。あくせくしなくてもいいじゃないの。そんなことよりも、みんなと一緒にいることが大切よ。人間関係を学ぶことのほうがずっと大切よ。」

「あくせくして実力を付けようとするなんて、優生思想的。」

「学校で子供たちが優しさや思いやりを育んで、障害児に共感できるようになる。そのとき、障害児もクラスのみんなや身近な大人を仲間や理解者として受け止め、成長する。」

特別支援教育では学力軽視だといわれる。しかし、発達障害児には、じっくりと人間関係を学ばせることのほうがずっと必要。学力は二の次。」

 「学校は、子供のためにあるもの。学校教育は、子供のためにおとながやってあげること。」

これらの美しい言葉が、「学校文化やそれとつながった一般社会を支える、価値観」について無視した状態で語られている。無視した状態で語られた美しい言葉には、「とんでもない暴力性」が隠れている。私はそう認識する。

その暴力性について、「ウヤムヤにされている」と私は考える。

 

学校文化は中立的なものではない。能力や感性等が人それぞれ異なる以上、「学校文化的に不利な立場に置かれてしまう」人はどうしてもでてくる。

不利な立場に置かれた人にとっては、「不利な立場という現実から出発してどのように向き合っていくか、いかにして他者や集団内の関係を模索していくか」というプロセスを考えていくことがメインテーマとなってくる。

しかし、大人たちの関心は、「統合教育崇拝者や、発達障害専門家介入による特別支援教育支持者」の側が想定した、「ありうべき、障害者教育像」「統合教育or特別支援教育の成功事例(とされたこと)」に向けられている。

「ありうべき、障害者教育像」「統合教育or特別支援教育の成功事例(とされたこと)」と「子供の側が、普通学級or特別支援学級(学校)という世界をどのように受け止めているのか」ということの間には、ギャップが存在しうる。しかし、そのギャップについて大人たちは意識をほとんど向けていないのでは? と私には思える。

 大人たちがそのギャップに無関心で、かつ、障害者が学校文化的に不利な立場に置かれた場合(そうなっている場合がほとんどだと私は思う)、障害者側が「学校文化と相性が悪い」と表明してもおそらく相手にされないだろう。私の経験から考えるに。

 

「学校文化的に不利」などと私が言うと、たいてい、次のような言葉が返ってくる。「ああ、日本の学校ではテストによる序列づくりが厳しいね。受験教育重視で子供を追い詰めているね。その勉強も暗記ばかりでつまらなくて、考える力なんて身につけさせないからね。そういう学校文化は大変だよ。」と。

冗談じゃない。日本の学校文化で最重要視されていることは、「テストによる序列化、思考力養成につながらない暗記中心勉強」なんかではない。

本の学校文化で最重要視されていることは、「ある種の(←ここ重要)思考力養成」だ。

本の学校では、「集団を作り、効率的な協調で課題を遂行していくこと」が最重要視されている。給食、掃除、学校行事、登下校などの学科外活動でも、積極的にそれらの教育がなされている。学科外活動では、各教科の学習や教育よりも無意識的に行われている。学校に通う日は毎日行われる。それ故、学科外活動での教育にかかる時間も「積み重なって大きくなっている」状態にある。否、無意識かつ反復継続的故、学科教育よりも影響は極めて大だ。

「集団を作り、効率的な協調で課題を遂行する」ために、「ある種の」思考力が強く要求されることになる。

課題遂行のために必要な役割や分担等については、「教師が決める」「事前に打ち合わせをする」といったことで決まるケースは極めて稀だ。固定的な役割を与えられない子供が、「状況に合わせてお互いに自分で役割を見つけて行動する」ことが期待されている。しかも、子供は、はっきりと明示されない「教師の意図」「他の子供の意向」を読み取ることも求められている。教師や子供相互の「無言のサイン」に反応して状況把握をして行動するためには、極めて高度な観察力、認知力、理解力等が必要となる。

「ある種の」思考力とは何か? それは、「無言のサインに反応して状況把握をしてスピーディーに行動できる状態に辿り着けるような」思考力である。

 

この「ある種の思考力」のもとになる理解力等を身につける際、「共感」「感情移入」めいたものが手段としてよく使われる。

「普通の人間なら、こう考えるだろう、感じるだろう、行動するだろう」という表現を絶えず繰り返す(注 必ずしも、言語的表現が使われるとは限らない)→「この状況に応じた適切な感情はこういうもの、適切な表現行動はこういうもの」といった知識を、(ほぼ無意識的に)膨大にためていく→それらを内面化 というルートを取って。

教師と子供との「共通の体験」を、高揚する感情を伴ってする。それによって「学級の一体感を醸成」する。このことが、学校生活でのメインテーマとなっている。「共通の体験に対して子供一人一人が持った、イメージ」を、「他の子供が持ったそれ」とと重なり合わせる→より大きなイメージが醸成されて学級全体でそれを共有 というルートが要請されている。

つまり、「学級全体でそれを共有」できそうにないイメージは許容してもらえない。このルート内での「表現の違い」なら、個性とみなしてもらえるが。また、こういう場では行動の動機は、「個人の興味や関心」よりも「内面化された共通の理解」であることが要請される。「個人と集団の利害は、対立的なものではない」という集団観が要請される。

学校での活動には、よく「班」などの小集団が使われる。そこでは、構成員相互の頻繁な接触と(ある種の)情報交換が行われるしくみになっている。そして、集団行動は和やかで効率的に行われることが要請されている。共通体験を通じて、子供同士がお互いに関するイメージを蓄えていく。そうして、いちいち言葉にしない状態での課題遂行へとつながっていく。

 「班」は、通常6人程度で構成される。その中の4人程度がそこそこ要領よく行動すれば、とりあえずは日常生活はまわっていく場合が多い。要領よく行動できない子供に対しては、情念(特に罪悪感)に訴えながら、子供相互(場合によっては大人も介入)で監視し抑制し合う。

このような状況は、情に訴えられた側には「罪悪感に囚われながら、自分から同調する」事が期待される。そして、情に訴えた側は「直接言わなくても、相手が意に沿うような行動をとる」ことを期待できる。つまり、相手の行動や感情に対して、間接的に影響を与えることが期待できる。「相互監視と相互抑制」までもが加わって。担任一人に対して子供40人のクラスをまとめることを可能にしているのは、この「自発的同調、相互監視、相互抑制」かもしれない。

 

「感情移入が難しく、相手の真意を読み違える危険性がある」のは、どういう場合だろうか? それは、「自分と考え方感じ方や行動様式が大きく異なる相手」や「相手の情報が極めて少ない場合」である。

「学級の一体感」を構成するイメージは、 障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ で書いた「健常者の身体と生活」に基準を置いた「健常者中心文化」に基づいたものになっているのでは? と私は疑っている。特に、「非言語性情報(特に、感情面の絡んだもの)のやりとりに、特に困難を感じている」発達障害者の場合、「外見ではわかりにくい」故に「一体感イメージを崩す極悪人」とみなされる危険性が大きいと思う。

「健常者中心文化に基づいた、学級の一体感イメージ」がわからない、具体的にどのように行動すればわからないという状態にある障害者に対して、情念(特に罪悪感)に訴える方法が取られる。どうすればわかるのか、具体的な行動はどんなことなのか、そもそも「学級の一体感イメージ」自体が正当なものなのか再考する、といった類の方向には進まずに。理解や行動の力を付けるための指針について、手掛かりがほとんど得られないまま、全人格を否定されることになる。しかも、学科の学習のみならず日常生活全般で。

更に、この「全人格否定」も、学級の一体感イメージづくりに大きく貢献していく。「人格否定されている人以外は、みんな一緒。あいつとは違うという共通のイメージを持てる」からだ。

 

このような状態で、「実力を付けようとするなんて、優生思想的。あくせくしなくてもいいじゃないの」というまなざしを向けて、「できない子供はダメな子なんて言わない、温かい目でみている私たち、いい人でしょ。」的な態度を取るのは、暴力的なことである。「学校で起こっていることを見通すことができる力」がない故に適切(とされている)行動がとれず罪悪感に囚われていて悩んでいる子供に対して、「力をつけたいという思いを持つことまで否定」することにもつながる。

そして、障害者は  障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ で書いた「ガラスの壁」を意識してふるまわざるを得なくなる。

 

もう一点。「学校は、子供のためにあるもの。学校教育は、子供のためにおとながやってあげること。」という見解も、学校文化的に不利な状態に置かれる子供に対する「シカト」と私には思える。

・何が正しい道であるかを、ありがたくも学校様先生様がお導き下さっている。

・経歴や境遇において、類似点が多く、狭い範囲の共同体の中で、自分が認められることによりすがって生きていけ。それが出来なきゃおしまいだぞ。

というメッセージを、不利な状態で受け続けることになる。

前に他の記事で書いたこともあるが、

・学校は、子供のためにある場所とは言い切れない。大人や社会の要請によって作られた場所である。

・日中、子供に街中をウロウロされるのは大人にとっては邪魔だ。邪魔にならないように、学校という場に閉じ込めるということが、一番の目的。

・学校でやる勉強やら集団生活やらも、「どんなことを身につけさせたいのか」「どのようにして身につけさせるか」を決めているのは大人であり社会だ。

・大人や社会のために、一生懸命学校に通っている。そのことについて感謝している。

という見解を大人になってから知って、私は救われた。

私の経験から言うと、

・とりあえず学校には顔を貸し、学校文化支持者の顔はたてておく。ただし、学校文化に搾取されないための工夫をしながら。

・学校文化から自由なポジションにある人や場についても、探してみる。

という発想は、「学校は、子供のためにあるもの。学校教育は、子供のためにおとながやってあげること。」主義の人から非難される。「子供を分けて考えていること」だというふうに。

 

ここまで書いた「暴力性」は統合教育のみにあてはまるわけではない。ベースとなるものは、特別支援学級(学校)でも同じである。

 

 次回は、「障害者権利条約や合理的配慮に関する解釈」に関するウヤムヤ状態について書く予定。