karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「卒業」

今週のお題「卒業」

 

義務教育時代の卒業式について、私は変な思い出を持っている。

私が経験した卒業式では、ムードを盛り上げようとしてなのか、やたらと悲しそうな音楽が流されていた。

小学校の卒業式では、「呼びかけ」なることがやたらとなされていた。この「呼びかけ」に、私はわざとらしさを感じていた。

私は、「泣かせようとして、悲しそうな音楽を流したり呼びかけをやらせている。わざとらしくて、何て嫌らしいんだ。」と思うような、かわいくないガキだった。今でもそうだ。
「わざとらしい」という思いで頭がいっぱいになったとき、何故かわからないのだが、私はついつい笑ってしまうのだ(声の出ない笑いである)。
「卒業式という場で笑ったら、ヤバい。」ということぐらい、わかっている。しかし、笑ってしまうのだ。
「他の人が泣いている場で、私一人が笑う」これって、怖い光景だ。

 

私が通っていた小学校の通信簿には、生活記録のページなんてものがあった。いろいろとチェック項目があって、そのうちの一つに、「ささいなことで腹を立てたり泣いたりしない」というやつがあった。

こういう項目があることから考えるに、学校という場では「泣く」という行為は原則的には禁止されているものと思われる。しかし、どういうわけか卒業式ではこの項目は意味を持たなくなる。わざわざ悲しそうな音楽を流すところから考えるに、「むしろ、泣くという行為が期待されているのでは?」とも考えてしまう。

なぜ、卒業式では「泣く」ことを禁じられないのだろうか? ずっと疑問に思っていた。

 

「6年生を送る会」といった類の行事って、今でも小学校でなされているんだろうか?
子供のころ、この行事の意義がわからなかった。大人になった今でもわからない。
この行事では、学年全員で、合唱や合奏をするといったようなことをやらされた。呼びかけをやらされたこともある。そのための練習もやらされて、教師からけなされたものだ。
合奏や合唱をすることが、どうして、「6年生を送る」ことになるのかがわからなかった。今でもわからない。
合奏や合唱に使われる歌や音楽自体が、「私にとっては面白くもない歌や音楽」であった。
「6年生にとっては、楽しい歌や音楽なのだろうか?」と疑問を持っていた。

 

大人になって、「感情労働」という言葉を知った。そして思った。「卒業式も、一種の感情労働めいたものが期待されたものなのでは?」と。そして、「私が感情労働をうまくこなせなかったのは、発達障害が大きな影響を及ぼしていたからなのでは?」とも思った。

その後、(有本真紀 著)『卒業式の歴史学』(講談社選書メチエ)なる本が出版された。私の持つ「変な思い出」について、いろいろな角度から捉えなおすことができた本だった。私にとっては面白い本だ。

ただ、この本は人によっては、「読むと卒業式で感動できなくなる(危ない)本」となるかもしれない。また、「卒業式で感動できない、泣けない自分はおかしいのでは?」と悩む子供(特に発達障害系の子供)に接している人に、読んでほしい本である。

『卒業式の歴史学』(有本真紀):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部

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まず、笑(嗤?)いながら序章を読んでしまった。講談社選書メチエを、笑(嗤?)いながら読むことになるなんて、思ってもいなかった。一冊読み終えた後、「『涙の卒業式』には、所謂『隠れたカリキュラム』大ありなんだな」と思った。「自ら泣いたというよりも、感情教育として泣かされていた」んじゃねーの? などと、意地の悪いことも頭に浮かんでしまった。

「卒業式で感動したい」という思いを持つ人からは、「この内容を笑うなんて、けしからん」と言われそうだが。

 

この本の序章より引用

  しかし、学校にも泣きが禁じられない場面、むしろ涙が望ましいとされる状況がある。つまり、誰も理由を問うことのない涙である。

それは、個人が泣くのではなく複数の個々人が泣くのでもない「集団の涙」であって、連帯の証となるような「共同化された涙」であることが重要な条件となっている。
この「涙の共同化」は、努力や感動ときわめて親密な関係を持っている。たとえば、スポーツ競技や合唱コンクールなど「みんなでがんばった」結果が表れる場面の涙は、美しく道徳的なものとみなされる。
「みんなで泣く」ことが、子供たちの精神的成長の表れと解されることもある。その際教師も一緒に涙するならば、良好な教師‐生徒関係が築かれているとして肯定的に受け止められることが多い。(9頁)

子供は状況に応じて適切な感じ方と感情表出ができるよう社会化されなければならない。個々の時と場にふさわしい感情を持てるか、それを適切に表出したり抑制したりできるか否かは、道徳性や人格にかかわる評価にさらされる事態だからである。社会的に期待される感情の規則から常に著しく逸脱するならば、場合によっては「障害」の範疇に含められることもある。(12-13頁)

 当然、家庭も学校も職場も感情文化に取り囲まれているわけだが、学校がとりわけ組織的に感情を社会化する強力な機関であることは言を俟たない。
本の学校では、特に「気持ち」や「みんなの心を一つにすること」が重視される。感動や涙をめざして卒業式の練習が念入りに繰り返されるのも、その一例といえよう。
卒業式の練習がそうした感情の社会化場面であることは、次の回想からもうかがえる。
 (中略)
 このように、卒業式が「社会的な期待にそって心をこめるべき事態」であるという規範と、その規範に従う方法が、あらかじめ繰り返し教えられる。
式の参加者が感動を共有することをめざして児童への働きかけが行われ、式当日には演出と練習の結果が観客の前で演じられる。
このようにして、「感情文化」への招待は、個々人の内に「社会が積み上げてきた感情」を刻印することをもってなされる。(14-15頁)