karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

2016年7月26日のあの事件と私

今週のお題「私の沼」

 

「2016年7月26日のあの事件」とは、「障害者施設での殺人事件」のことである。

事件そのものもショックだった。そして、その後のマスコミ報道や各種団体のコメントも、私にとって衝撃が大きかった。

「その後のマスコミ報道や各種団体のコメント」に対して、私は疑問を持っている。「その疑問について考えること」が、現在、「私の沼」となっている。

 

その後のマスコミ報道で、「被害者が実名を出さないのは優生思想からきているもの」「障害者も声をあげる必要がある」といった類のコメントが出された。障害者関連団体、障害者の家族、「全ての子供を普通学級に入れる」類の運動をしている団体(やそれに賛同する人達)等から。

これらのコメントに最初に接したとき、正直、「気持ち悪い」と思った。「過去になされた障害者運動において、『障害者の声』を、障害者本人以外の人達の思惑に沿うように『政治的利用』してきた」ことをシカトする気か? シカトされた状態で「声をあげる」なんて、危ねーぞ。

と私は思ったのだ。

「この『政治的利用』をしてきたことに対して、再考する態度を持たない」状態の人達に対して「障害者側が声をあげた」場合、その「障害者の声」はどう扱われるだろう?

・「障害者本人以外の人達の思惑」に沿わない声は否認され、彼(女)らに都合のよい声だけが採用される。

・「意見が否認される」だけでは終わらず、「都合のよい声をあげた障害者を見習うべきだ。それができないようではいけない。」という、二重の排除がなされる。

・「障害者本人以外の人にとって、都合のよい声」を誘導すべく、様々な統制を取るケースもありうる。

といったことが私の頭に浮かんでくる。

 

「声をあげる必要がある」と主張した団体や人々に対して、「障害がもたらす問題をサポートするものとしての団体や人々」像が前提として組み込まれている場合もよくある。

しかし、その前提には危ないものがある。本当は、「支援団体や支援者」と障害者との関係は、「違いを認識」や「方針をめぐって対立」等の葛藤や衝突や軋轢等の複雑な要素も入り込みうる関係である。その複雑な要素を「なかったこと」にして、「障害者の声を政治的利用」される危険性が隠れている。

 

「社会に『期待される障害者像』がある。それに沿うべく、障害者には圧力がかかる。障害をめぐる問題は、身近にいる市民にとっての問題で市民が共感できるもの以外は認められない。それをふまえずに匿名はダメなんて言わないでほしい。」といった声をあげることは、「必要のある声」としてカウントがなされるのだろうか? 疑問がある。

 

非難されそうだが敢えて書く。

 過去の障害者運動では、障害者団体や専門家団体や「すべての子供を普通学級に入れる」類の運動をしている人達によって、彼(女)らにとって「都合の悪い障害者とそうでない障害者を分断」することがなされた。そして、その分断はしばしばえげつない方法でなされた。

この事件の被告人が表明した「差別的な障害者観」は、「えげつない方法でなされた分断」とも近いと私は思っている。

 

今回の記事について考えている最中、NHK発達障害関連の番組が放送された。正直、この番組にも「障害者の声を政治的利用」臭を感じた。これについてもいろいろと考えて発表してみたい。うまくまとまらない状態にあるが。

沼は更に深くなった。