karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

早生まれの子供にとっての「年齢」と「選択」

私は2月後半生まれである。小学生時代から、「早生まれ」という形で「年齢」を意識していた。早生まれで得をしたと思ったことは、正直なところ一度もない。

私の親は、早生まれに産んだことを恩に着せた。「早生まれはどうして得なの?」と私は親に何度か訊いた。

「大人になってから、若く見られるから。」という答えしか返ってこなかった。それのどこがいいのか、全然わからなかった。今でもわからない。

早生まれの人に訊いてみたいことがある。だが、その「訊いてみたいこと」について、面と向かって訊きにくいという思いも私の中にある。訊いてみたいこととは、

1.早生まれは不利だと思うか

2.不利だとしたら、いつごろまで不利だと思うか

3.不利だとしたら、どういう点で不利だと思うのか

ということである。

「訊きにくい」と思う理由は、私自身が、私の親のような人から散々言われたからだ。「早生まれは得にきまってるでしょ。いい年して、早生まれの差なんて何くだらないことを言ってんのよ。過去のことをウジウジ言ってもムダでしょ。」という類の言葉を。その結果、「早生まれの事なんて、話題にしても無駄だ」と思うようになったからだ。

一方で、何かの拍子に、「早生まれって、損だよね。」という類の言葉が他の人から発せられる。それを何度か聞いたことがある。

「訊いてみたいこと」に対する私の本音は、次のようになる。

1.不利

2.世間一般では『大人になったら、早生まれによる差なんてなくなる』と思われているようだが、下手すりゃ大人になってもハンディがつきまとうことになる。

3.環境によっては、『早生まれの子供に対して、身近な大人が誘導する選択』がとんでもないハンディを呼び寄せることになる。

 

私の本音について、詳しく書いてみる。

 

教育制度上で対立する主義がある。「年齢主義と課程主義」「履修主義と修得主義」である。

 年齢主義と課程主義 - Wikipedia

日本での高校までの教育は、年齢主義と履修主義を基本として運用されている。そして、一クラス40人近い人数で一斉授業が行われている。学力等の到達度には、当然個人差ができてくる。到達度には、家庭の持つ経済資本や文化資本社会関係資本の影響も大きい。

所謂「奥手の子」で、しかも各種資本の乏しい家庭出身だと、どうしても不利な立場に置かれてしまう。

例え話をあげてみる。

「ボールをつきながら走る」という動作がある。この動作は、「止まってボールをつく」という動作と「走る」という動作をそれぞれ、ある程度こなしてからでなければ困難である。

はっきりと覚えていないのだが、このことは確か、岩波新書『ズポーツとからだ』という本に出ていたと思う。

 スポーツとからだ - 岩波書店

「止まってボールをつく」経験を積んでいない段階で学校での一斉授業でいきなり「ボールをつきながら走る」ことを要求された場合、うまくできないケースが考えられる。

早生まれの子のほうが、「経験を積む以前の状態で、いきなり一斉授業で高度なことを要求される」状態になる危険性が高くなると考えられる。それだけではない。学年が上がるにつれて要求されるレベルが高くなる。そして、他の子に輪をかけてどんどん授業から取り残されていく。

合唱コンクールとか団体スポーツとかいった類の集団行動」が絡んできた場合、さらに悲惨なことがありうる。「壊滅的にできないこと」が「集団内でのお荷物」と認識されることである。「みんなの足を引っ張っておきながら、自分一人だけがみんなの頑張りにただ乗りする極悪人」という認識を本人が持ってしまう、そういう危険性も考えられる。

年齢主義と履修主義のもとでは、「止まってボールをつく練習」という発想を持つことも困難かもしれない。

 

「うまくできない」ことを、身近な大人がどのように捉えるか?

「できるか/できないか」「他の子に比べて勝っているか/劣っているか」「表面的な出来栄えが、周囲の人からどのような評価を引き出すか」に強く関心を示す。

というケースが考えられる。その結果、子供までが、大人による解釈を内面化してしまうという危険性も考えられる。

 

「早生まれの子は、小学校卒業までは同級生との競争で不利になる。勝てたことや選手に選ばれたことで、人は自信を持つ。中学以降ではそれらの差はなくなるから、中学以降で自信を持たせればいいだけのこと。」という見解を、私は過去にいろいろな人から聞かされた。

しかし、私は思う。「もっと怖いことを見逃しているぞ」と。

もっと怖いこと、それは、「身近な大人が、本人よりも先に諦める→それらのことに関心を持つことすら、禁止する。実際に行動に出るよりも、不戦敗を選ぶように仕向ける→それらを積み重ねて、本人までが、どうせ、できっこないと決めつけて、最初から不戦敗選択を常習化するようになる」ことである。

しかも、それらは「キレイな言葉」を使って語られる。「あくせくしなくても、いいじゃないの」とか。「できない子はダメな子なんて言わない、あたたかい目で見ている私たち、いい人でしょ。」とでも言わんばかりに。

実際には、「不戦敗でも、『他の人の頑張りにただ乗りしてやがる』と非難されたらいけない。だから、同時進行で『上手な人から可愛がられる』努力をしろ。」というメッセージも同時に送られることが多いのだが。

「条件の不平等から、結果が予想できる。だから、無駄な努力なんかするな。」と、身近な大人が主張する。しかし、「負けた場合の損失」や「敗者復活戦」や「セーフティネットの有無」について彼(女)らが検討したのか否か? 疑問が残る。本人が「たいした損失ではない」と思っていたとしても、「取り返しのつかない大ごと」と騒ぎ立てる場合もよくある。

 

早生まれの絡んだ「年齢」と「『どうせ、できっこない』と決めつけて、最初から不戦敗を選択」、これによっていろいろなものを失ってしまった。私はそう思っている。次のような発想を、早いうちから持っていればよかったかもしれない。

 ・現段階ではうまくできない。必要とあらば、他の人と違った方法を工夫してみるのもいいかもしれない。上達するプロセスも、他の人とは違うかもしれない。その人独自の方法やプロセスは、他の人のそれらと比べれば見栄えがしないかもしれない。だけど、工夫することやプロセスを楽しめるのならそれでいい。自分に合ったやり方を工夫していくことは大切な事。

・「負けた場合の損失」や「敗者復活戦」や「セーフティネットの有無」について考えることも、必要かもしれない。

・(早生まれとか遅生まれとかいった観点を外れて、)「ロールモデルのない状態で、試行錯誤しながらいろいろな行動をしている」人も、たぶんいる。その人や行動からも、何かを考えることは可能。そして、楽しいかもしれない。

 

特別お題「『選択』と『年齢』」

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