karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「『病気や障害の受容』(とやら)が出来ていない」と言われるけどさ 2

  

口唇口蓋裂を受け入れられなかった家族 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

家族の感情を、私的行為として切捨てなら疑問。それを引き起こした原因の1つは、「身体的差異への社会的意味づけによって起こされる、否定的感情」では?その場合、政治的公的な問題(障害の社会的制約)としても要検討

2017/11/18 02:15

  

はてなブックマーク - 口唇口蓋裂を受け入れられなかった家族 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

"治すことができます"の内容は、医師と世間一般とで認識が異ならないか?私はてんかん患者。てんかんの場合は異なっている場合多。「治る」の世間一般認識は「薬なしで発作も無」。医師側は「薬で発作抑制」認識

2017/11/18 02:46

 

 Yahoo!ニュースについたブクマ。こちらのほうがコメント多数。元記事が削除されている。

はてなブックマーク - 奇形の顔「受け入れられない」…家族が手術拒否、ミルク飲めず赤ちゃん餓死 (読売新聞(ヨミドクター)) - Yahoo!ニュース

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 奇形の顔「受け入れられない」…家族が手術拒否、ミルク飲めず赤ちゃん餓死 (読売新聞(ヨミドクター)) - Yahoo!ニュース

 

元記事より引用

考えたくはありませんが、もしや医師の中にも、手術を拒否した家族に共感した人がいた、ということはないでしょうか?

 私は今になって思います。もっと別な方法はなかったのだろうかと。たとえば、障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たちを実際に見てもらえば、赤ちゃんの家族も手術を受けさせる気になったのではないか。

 この部分について、前回、次のように書いた。 

私は、家族の行動を支持できない。しかし、「行動の裏に隠れていた感情」を、「ひどい人が持っていた、私的な感情。この感情に共感する人は残酷。」として切り捨てたくない。「行動の裏に隠れていた感情」のうちの一つが、「『身体的差異に対する社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)』によって起こされる、否定的感情」だったのでは? と私はひそかに疑っている。

更に、「社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)」にまつわる困難の軽減や解消は、本人だけに課されるものなのか? 「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性はないのか? という疑問が私の中にある。

「『病気や障害の受容』(とやら)が出来ていない」と言われるけどさ 1 - karotousen58のブログ

 元記事中の「障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たちを実際に見てもらえば」部分で、どういうモデルが想定されているのか? それが私は気になる。

前回記事で書いた、「社会的な要因」や「いろいろな人による、異なる状況判断」。それらについて考慮しない状態で想定がなされた場合、次のようなことに容易になりうるのでは? と私は思う。

「障害児や、先天性の病気を治して(?)生きている子供やその親」というカテゴリーが作られ、「それにあてはまる個人が、社会の中でどのようにふるまうべきかという」合意が一般社会で形成され、その期待通りにふるまった個人が評価される(そうでなければ排除)。ということに。

こうなった場合、「病気や障害の受容(とやら)」には近づかないのでは? と私は思う。

 

「カテゴリー形成→ふるまうべき像の形成→その通りのふるまいに向けて障害者や家族を叱咤激励、ふるまいがうまくできなければ排除」の図式

私の経験から言うと、福祉系/障害者支援系/障害者自助会や家族会系/教育運動(「全ての子を普通学級に運動」等)系団体のほとんどで、この図式は採用されていた。

このブログの過去記事でも書いたが、「障害者による語り」の中には、「周囲に歓迎され、採用される語り」と「周囲からは無視黙殺や非難がなされてしまう語り」が存在する。

「歓迎され、採用される語り」は、次のようなエピソードで構成されている場合が多い。

  • 「一時的な不運」に見舞われたが、本人が前向きにひたむきな努力を続けている。
  • 「けなげに努力を続ける本人を、仲間達や家族等身近な人があたたかく支えている。
  • 仲間や家族以外の人に助けを求める必要がある場合でも、そのためのスキルを身につけている。つまり、サポートを受けるための「援助要請や説明責任」を、本人が引き受けて適切に実行している。

 更に、「周囲からは無視黙殺や避難がなされてしまう語り」が、政治的に利用されることもよくある(というより、ほとんどだった)。次のようなことはザラだった。

  1. 「うまくいっていない状態」の人を引き合いに出し、それとの対比で「自分達はあの人とは違う、社会できちんとやれている『普通』の人。」というカテゴリーに入れて叱咤激励。
  2. 「社会の特定の状態が困難を生み出している、そういうケースもあるのでは?」「現場や社会環境を考え直すという方法もないか?」「この社会で主流(或は支配的)となっている解釈体系に問題はないのか?」といったような問題提起をした場合、問題提起をした人を「図々しい反逆者」に仕立ててしまう。
  3. 2.で「図々しい反逆者」に仕立てられた人を、引き合いに出して1.の行動に出る。
  4. いろいろな人が発言をしている背後には、「語れない状態にある」人も多く存在。しかし、「語れない状態」を、「『歓迎され、採用される語り』や『語りの政治的な利用』の追認」にすりかえる。
  5. 「障害者自助会や家族会」内部での権力関係を隠す→権力を持った者が、それ以外の人を自分たちの色に染めていく。

 

 「政治的に利用されること」について書いていく。

1.について

引き合いに出して叱咤激励した人達がどういう態度だったか? 「うまくいっていない状態」とされた人の状況について、調べたわけでもなく、詳しい意見を聞こうという姿勢を見せたわけでもない。また、「きちんとやれている『普通』の人」の内実について、吟味したわけでもない。いろいろな意味での「シカト」状態である。

2.と3.について

「これらの『問題提起』を受けて、社会編成や生命観等の捉えなおしに向けていろいろと考える」なんて面倒。面倒なことを我々に押し付ける、厄介な人達。問題の軽減や解消は、本人の「前向きな努力」中心でなされるもの。という見解に問題はないのか? 「社会的な要因」等が変わらなくても、本人が必ず適応(順応?)できるという確信がおありなのだろうか? 疑問を感じる。

 「社会(世間?)に負担をかけようとするなんてダメ。」「思い通りにならないからといって、不平ばかり言うんじゃありません。」「せっかく治療してあげたのに。」「言葉尻をあげつらうようでは、サポートは得られません。他の人がサポートを受けるときにも邪魔になります。」等の言葉で無効化するのが、常套手段となっている。

結局のところ、本人や家族は、「社会が要求するようにふるまい、できるだけ『普通』の人に近づくべく、『同化』に向けて努力する。そうすると、社会の側は、従順な者へのご褒美として『普通』の人として仲間に入れてあげる。」という見解を受け入れるよう方向づけとなる。そして、その行為は「善意でなされた慈悲深いもの」として語られている。

これは、実に巧みな排除である。「門前払いという形で問答無用の排除を行う」というより、「『同化努力にいそしむ』という条件を提示して、それに従わない者を選別して排除。」という方法である。

4.について

「機能的制約」を除去するために「医学的処置」がなされた→治った という解釈では終わらない。私はそう思う。

「機能的制約がなくなった」にも関わらず、社会的障壁(他者による侮蔑的敵対的態度等)によって、「ある種の活動制限」が発生する場合はないのか? これも踏まえる必要があると、私は思う。

「蔑視や侮辱によって叩きのめされ続けた人達が、社会に向けて語り始める。」これを行うためには、相当な勇気や時間が必要となる。いろいろな発言をする人達の背後には、「語れない状態にある人達」も存在する。これは無視できないことである。

「『機能的制約』をなくすために、『医学的処置』を施す→治る」が、どのような文脈で語られるか? 

  • 「医学的処置」によって、「機能的制約」が存在しなくなった。しかし、社会的障壁(他者による、侮蔑的敵対的態度等)は存在しうる。存在する場合、それによる「ある種の活動制限」が発生する場合もありうる。その場合、「障害の社会的制約」「合理的配慮」も要検討。
  • 「医学的処置」によって、「機能的制約」が存在しなくなった。この場合には、社会的障壁は存在しないことになる。この場合、「ある種の活動制限」が発生したとしても、それは個人の問題となる。だから「社会的制約」「合理的配慮」の対象外となる。

後者の文脈で語られ続けることによって、「蔑視や侮辱によって叩きのめられ続けた→語れない状態」となった障害者や家族がいるのでは? そして、「語れない状態」が、「『歓迎され、採用される語り』や『語りの政治的な利用』の追認」にすりかえられるのでは? 私はそう考える。

5.について

自助会や家族会の構成員間には、どうしても、「ある種の力関係」が出来てしまう。先にそれらへ参加した人と、それらへの参加を始めたばかりの人との間には、知識や技術や交渉経験等の差がどうしても存在してしまう。「先に参加した人が、後から参加した人を染めていく」可能性(危険性)もゼロとは言い切れない。

「知識や技術や交渉経験を持っていて、権力を行使しうる状態にある人」と「それが不十分な状態にある人」という関係性が存在しうること これに無自覚な状態で「障害者や家族の語り」が流通するのは危険だと思う。置かれている環境や成育歴等が個々人で異なっている。この事実を重視する必要がある。

 

制度的/技術的な支援からこぼれ落ちた状態にあった。そして、この状態が長い間放置されてきた。その中で本人たちは対処戦略を工夫してきた。

だが、「それらの対処戦略のほとんどが、資源や選択肢の極めて乏しい中で開発してきたもの」である場合もザラ。それだけではない。社会的障壁(他者による、侮蔑的敵対的態度等)については、無効化されることもザラという状態である。「配慮の平等」「合理的配慮」がほとんど得られないことを前提と考えて、開発してきたものである。

この前提のもとに提示された、「障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たち」像は、どういうものになりうるか?

それは、「本人たちが学習させられた、一つの社会的役割」であって、「等身大の像」ではない。

期待される「障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たち」像である。「期待される」像では「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性がある。私はそう考える。

 

「職業等社会との関係、それにまつわる人権問題から社会認識、進路や人生相談」までを医療等の専門家が引き受るとなると、当然無理がある。

しかし、前回記事で書いた

  • 「病気や障害/そうではない状態」の間に引かれている(と思われている)境界。境界の移動を決めるのは「医学的処置」だけではない。「社会的な要因」や「いろいろな人による、異なる状況判断」も多く入り込んでいる。
  • その「多く入り込んだもの」にまつわる困難が存在するのでは? そしてそれらの解消や軽減は本人や家族だけがするものなのか? それらの検討を外して「病気や障害の受容」と主張するのなら、無理がある。 
  • それらの検討がなされない場合、「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性がある。

も意識する必要があると思う。

 

(ひとまず完結)